これも図書館で借りたものだ。フィッツジェラルドは高校のときに『グレート・ギャツビー』を読んだが、何が良いのかわからず、それ以来で手が伸びなかった。
村上春樹がフィッツジェラルドを好み、翻訳までしているのは知っていた。今回はそれが目に入った(目についたものを、深く考えずに借りてみる。これがなかなか楽しいのだ)。
本書は短編集なので、以下、作品ごと寸感を。
『残り火』
暗い話。これが華々しくデビューした、その同じ年に書かれたのだというから驚く。
他人の解説に拠るのは気持ち良くないが、村上春樹のいう、
『相反する様々な感情が所狭しとひしめきあって』いるのは確かだろう。また作品を彩るのは作意よりは溢れてくる何かである。それは月並みに表現するなら、『不安感』とでもいうべきものだ。理性的には制御できないのだから文芸的に制御しうるはずもなく、ちょうど村上春樹が表現したように『本能的な意志』によって、ようやく小説という形を呈していたのだと思う。
読んでいて、そんな不安定感を覚えた。
『氷の宮殿』
これも哀しい結末を予感させる話。好況に湧くアメリカの二十年代において、この否定的な方向性は何か。自省、なんていう常識的な構図ではなさそうだ。
南部と北部、気怠い暑さと暗い冷たさ、素朴さと作り物っぽさ、まるでそれらを並べてみて遠近感を取る練習をしているようだ。確認してみなければどうにもならない、というような焦燥感。不安はドライブ感を得て、そんな焦燥に追われるように文章が紡ぎ出されていく。私の気のせい、ばかりではあるまい。
『哀しみの孔雀』
大恐慌下、凋落していくひとつの家族。これをリアルに描くかにみえるこの作品は、しかし家族の構成や設定から、作中の男がフィッツジェラルド本人に違いないことがわかる。『グレート・ギャツビー』を、言い換えれば“寵児”としてのフィッツジェラルドを思えば、この作品に漂う生真面目さや屈辱感、にじみ出る哀しみは意外に過ぎる。アメリカにこういう書き手がいたのか、そんな驚きを禁じ得なかった。売れなくなってからの、こういった佳品をもっと読みたいと思った。
ハッピーエンドヴァージョンも掲載されている。その無茶な改訂ぶりは痛々しいものがあった。
『失われた三時間』
限りなく贅肉を削いだ、シンプルな短編である。それだけ、行間に響く余韻は頁数の少なさに関わらず弱くない。
失われたのは再会のために割かれた三時間だけでなく、記憶そのものだった。共有すべき記憶を失ったとき、人は本質的な孤独を生きねばならないのだろう。フィッツジェラルドは最後にこう書いてしまう。
《飛行機を乗り継ぐ数時間のあいだにドナルドは、実に多くのものを失った。でも、人生の残り半分なんて、結局はいろんなものを切り捨てていくための長い道のりに過ぎないのだ、と彼は思う。たぶん、そこには意味なんか何もないのだろう。》
『アルコールの中で』
こちらも虚無的な雰囲気の色濃い短編。
《本当にたまらないのは横にいながら手をさしのべることもできないってことなんです。すべてが無益だということなんです》と看護婦のセリフで締められるこの話は、しかし悲壮ぶることなく飄々としている。
アルコール漬けの日々を、こうして客観視して作品化してしまう視点。作家としての視座は荒れた日々にも失われていなかったということだろう。こんな感想を抱くのは、生活に終われて初心を忘れかけている私自身を顧みさせるからだ。
行間ににじむのは、行間にしか居場所を求められない、自嘲と真摯さの混在であろうか。
『マイ・ロスト・シティー』
ここまでに挙げた短編のすべてが、フィッツジェラルド本人を彷彿とさせるため、エッセイであるということを意識せぬまま読めてしまった。
鮮やかなイメージを与える冒頭。見事な書き出しである。イメージとは裏腹に、一文一文を大切にする作家だ。
題名からして感傷的な話かと思いきや、最後にフィッツジェラルドは《そして今、この失われた私の街に別れを告げよう。》と書く。シニカルな回想の中に、かすかに息づくのは再生への意思だ。
とはいえ晩年のフィッツジェラルドは成功しなかった。しかしそれは商業的に、というだけだ。ぜひ『夜はやさし』以降の作品もひもといてみたい。
と、読みあぐねたままのフィッツジェラルドに、こうして興味を、文学的探究心を持たせてくれる村上春樹には、感謝すべきだろう。
巻末にはフィッツジェラルドのインタビュー記録も載っている。崩壊の軌跡。作品という結晶物を指標に、辿ってみたい。
