それなりに文学作品をインプットしてきたし、特異な経験も経てきた。そろそろアウトプットしたいという思いが募っており、古書店でぶらぶらと参考になりそうなものを探していて見つけた。
表紙の裏にはこうある。
硬軟かかわらず膨大な現代小説を精緻に読みこなすことで圧倒的に支持される文芸評論家が、まるでDJがさまざまな音楽をリミックスするように、自由自在に過去の名著を模倣し、盗むことによって小説を完成させる技法をはじめて明らかにした!
週刊誌の中吊り広告みたいな売り文句だ。がっかりするのは想定のうちとして、参考になる部分はあるだろうと手にしてみた。少し目を通すと、文芸評論みたいな内容になっているから、“小説を完成”させることはできないまでも、勉強にはなるだろうと踏んだ。
『第1章 模倣と「パクリ」のあいだ』
『第2章 オリジナリティの呪縛を解く』
これらは小説技法の話ではなく文芸評論といって良い。さまざまな作品が模倣によっている、あるいは他作品の影響下にあることを網羅していく。その上で構造主義やポスト・モダンにまで話題は及び、なかなか読み応えある内容で退屈はしなかった。きっと、「どうやって書くか」だけを知りたい、近代文学なんぞに興味のない、読書に熱心でない読み手には、退屈な内容なのだろうけど。
古今東西の実例に触れた後、いよいよ『第3章 模倣実践創作講座』において、技法について教授する。しかし、ここでは専らきっかけを与えるだけで、具体的な執筆テクニックは伝授しない。“技法をはじめて明らかにした!”はちょっと大げさな販売促進文句に響いてしまうが、私は幾つかの示唆を得られたので良かったと思う。
こうやって書くんだよ、なんて新書で講釈を垂れたくらいで、良い小説を書く手引きになんかならないだろう。それで書けたら苦労はないのだ。
ところで著者は、ずいぶん力んで、小説の執筆=模倣であると謳い、オリジナリティ崇拝を捨てよという。第2章の最後では、やや鼻息荒く、以下のようにアジっているほどだ。
本書の最後の切り札を出すときが来たようだ。
「パクリ」という、創作者にとって最も不名誉なはずの呼称を、そろそろ転覆させようではないか。
純粋無難な100パーセントのオリジナリティを誇れる小説など、この世にはありえないのだ。その対極に「パクリ」という蔑称が置かれるとすれば、ヒントをもらうことも、影響を受けることも、あるいはそうした事実を都合よく忘れてしまった産物も、もちろん確信犯の二次創作も、全てパクリの一種であることを免れない。
すなわちあらゆる小説は、部分や無自覚も含めて、多かれ少なかれ何ものかからの模倣あるいはパクリなのである。
だとすれば、パクリを忌避するよりも、むしろ密猟者の自覚と技術の練磨をこそ、書き手は目指すべきだろう。
しかし、その考え方は斬新なものには感じなかった。私が若いころ読んだ文章読本でも、同じようなことが言われていたのを覚えている。確か、“すべての小説はゴーゴリの『外套』から出てきた”と。
技術の指南書として期待したらガッカリだろうが、文芸評論的には面白くて、幾つか是非とも読んでみたい小説を見つける偶然に恵まれた。また、開き直って、“エレガントに”パクッて作品を新たに生もうというスタンスには勇気づけられるものがあった。かつて読んだ文章読本のほうは、みんな影響を受けてパロディしてきた、くらいの書き方だったが、本書はそれを意識的に練磨しようというのだから。
