カポーティは初めて読む。
ブックオフで探し物をしていて、外国作家の棚を物色しているとき、目についた。
村上春樹訳なら、訳のまずさに辟易させられることもないだろうと思った。なにより、表紙に記された、
イノセント・ストーリーズ――そんな彼のこぼした宝石のような逸品六編
という紹介の短文が、まさに逸品だった。さすが文芸春秋、販促力は秀逸だ。手に取らずにはおれない。
今回の読書で知ったが、カポーティは特異な少年時代を送った。それを彷彿とさせる自伝的小説が本書に幾つか載っていて、私の心を惹いた。どのような日々が、作家を育み、これらの作品を生むに至ったのか。履歴を読むように作品世界に感情移入していったのだ。
ここで描かれる世界観を身近に感じられる読者なら、カポーティ本人と思しき『バディ』少年の従姉、ミス・スックの言動を、儚い詩を読むみたいにして追うだろう。幼い時の病気で社会に出る機会を失ったスックは、60代に至るまで、家とその周囲で暮らし、イノセントなものを保持し続けている。
親に捨てられたバディにとって、彼女は母親であり親友だった。しかし豊かな交歓の日々は長くは続かなかった。
失われたもの。この文学は郷愁を契機に形成されているのだろうか。そう単純なことではなさそうだ。パラパラと読み返してみると、『感謝祭の客』において、嫌いな同級生を招待したくないと駄々をこねるハディを、スックはこう言ってなだめる。
「人を憎んだことなんて一度もないよ。私たちはこの世に生まれて、限られた時間をいただいているんだ。だからそんなつまらないことに大事な時間を費やしているところを、神様のお目にかけたくないんだよ」
これは児童文学ではない。イノセントな思い出をマテリアルとし、美しい一風景を切り取った散文詩であると同時に、ひょっとしたら、倫理への希求が書かせた作品たちかもしれない。バディを取り巻く特異な環境(特にスックのキャラクター)が、子供向けになってしまいそうな部分をも、文学に昇華する。深慮の上で設計された短編だったように思える。
一方で、不可解な少女との同棲生活を描く『無頭の鷹』は、一見すると真逆の作風に感じられる。スックを少女にしたようなイノセントの権化が、男の生活を狂わせていく。彼女は何ものか(幻影か記憶かトラウマかは描かれない)に捕われているのだが、バディがスックの思い出に浸りきったまま現世に馴染まずに先鋭化していったなら、こうなっていたのかもしれない。
とするなら、『無頭の鷹』は、江戸川乱歩の『鏡地獄』を連想させる。ネットで調べて、カポーティの不幸な晩年を知ってしまったから、そんな感想を招いたのかもしれないが。
