『紙の砦 自衛隊文学論』(川村湊 インパクト出版会)
新聞の書評で見つけた。まえがきで『これまで文芸批評の世界で、自衛隊が取り上げられたことはない』とある。そういえば戦争文学、戦記文学などは様々論じられてきたが、自衛隊に関するものはまったくクローズアップされたことがない(少なくともそう銘打った評論を私は見たことがない)。これは画期的だなと飛びついたわけだ。
面白くはあった。確かに、野呂邦暢『草のつるぎ』や浅田次郎『歩兵の本領』など有名作品ですら、自衛隊を、そして自衛隊文学を論じる地平においては語られてこなかったように思える。したがって本書は広げられた風呂敷の通り、初めての自衛隊文学論として、価値あるものといってよいだろう。
しかし、期待は満たされない。内容の半分以上は、これまでの日本の安保政策を批判し、昨今の右傾化する政治・文化状況を憂えるもので、その一環として自衛隊に関する小説や映画が取り上げられるというスタンスなのである。
内容に賛同するところ少なくなかったが、ときに左翼党派の機関誌みたいな論調になることもあって閉口したのも否定できない。
そして本書最大のネックは校正がされてないということだ。同人雑誌レベル、またはそれ以下だ。専属の校正係などいないのだろう。バイトや下請けの校正すら通してないのではないか。著者のセルフチェックか、編集者が目を通すくらいなのだろう。それすらやっているか怪しいほどだ。
例えば9.11のテロを2004年と書いたり(P125)、士官を仕官と書いたり(P133)、用語の定義を誤って理解していたり(戦艦=軍艦、将校=佐官や尉官という勘違い)、「~の」とすべきところを「~に」としていたり、そもそも文章が成り立ってないところも散見され、挙げればきりがない(多すぎて列挙する気も失せる)。
せっかくの意欲作も、こうしたミスと出版サイドの手抜かりで台無しになるのである。著者も教授という肩書きのくせに、あまりに国語力が低いだろう。もしやその肩書きに安心して校正も手抜きになったのか? いちおう注目されて、それなりに流通してしまったのだろうから、インパクト出版会には反省してもらいたい。たとえ零細出版社だとしても、商業出版として許されるレベルではない。第2刷以降の修正を期待する。
さて文句はこれくらいにして、なるほどと思えた部分を幾つか。
『「戦争」は、安倍晋三や石破茂のような“好戦的”な極右の政治家や、それによって“商売繁盛”となる軍需産業や武器商人たちだけが渇望、願望しているのではない。ナショナリズムを煽り、他国から(ママ)脅威を声高に言い募るマスメディアやジャーナリズムだけが威勢良く進軍ラッパを吹いているわけではない。ましてや、真っ先に戦死の危険を追う(ママ)自衛隊が、本当の意味で「戦争」を望んでいるはずがない。むしろ、そうした“戦争の空気”に便乗する大衆的、国民的な漠然たるディスペレートな“願望”や“希望”にある。こうした“戦前的な空気”に抗うこと、逆らい続けることが現在一番大切なことであると思える。』(P191)
『すなわち、シビリアン・コントロールならぬアメリカン・コントロールの下の米軍の補充部隊、兵站部門を受け持つ“第二軍”にすぎない。
こうした現実を覆い隠すために、旧日本軍への郷愁が利用されていると私は考える。』(P232)
いままさに歴史が転換していきそうなとき、タイミング良い出版だった。考える縁として文学作品や映画などを取り上げ、昨今の右旋回への経緯を考えさせる。重ねて書くが、内容を精査して、改訂版を出していただきたいと思う。
新聞の書評で見つけた。まえがきで『これまで文芸批評の世界で、自衛隊が取り上げられたことはない』とある。そういえば戦争文学、戦記文学などは様々論じられてきたが、自衛隊に関するものはまったくクローズアップされたことがない(少なくともそう銘打った評論を私は見たことがない)。これは画期的だなと飛びついたわけだ。
面白くはあった。確かに、野呂邦暢『草のつるぎ』や浅田次郎『歩兵の本領』など有名作品ですら、自衛隊を、そして自衛隊文学を論じる地平においては語られてこなかったように思える。したがって本書は広げられた風呂敷の通り、初めての自衛隊文学論として、価値あるものといってよいだろう。
しかし、期待は満たされない。内容の半分以上は、これまでの日本の安保政策を批判し、昨今の右傾化する政治・文化状況を憂えるもので、その一環として自衛隊に関する小説や映画が取り上げられるというスタンスなのである。
内容に賛同するところ少なくなかったが、ときに左翼党派の機関誌みたいな論調になることもあって閉口したのも否定できない。
そして本書最大のネックは校正がされてないということだ。同人雑誌レベル、またはそれ以下だ。専属の校正係などいないのだろう。バイトや下請けの校正すら通してないのではないか。著者のセルフチェックか、編集者が目を通すくらいなのだろう。それすらやっているか怪しいほどだ。
例えば9.11のテロを2004年と書いたり(P125)、士官を仕官と書いたり(P133)、用語の定義を誤って理解していたり(戦艦=軍艦、将校=佐官や尉官という勘違い)、「~の」とすべきところを「~に」としていたり、そもそも文章が成り立ってないところも散見され、挙げればきりがない(多すぎて列挙する気も失せる)。
せっかくの意欲作も、こうしたミスと出版サイドの手抜かりで台無しになるのである。著者も教授という肩書きのくせに、あまりに国語力が低いだろう。もしやその肩書きに安心して校正も手抜きになったのか? いちおう注目されて、それなりに流通してしまったのだろうから、インパクト出版会には反省してもらいたい。たとえ零細出版社だとしても、商業出版として許されるレベルではない。第2刷以降の修正を期待する。
さて文句はこれくらいにして、なるほどと思えた部分を幾つか。
『「戦争」は、安倍晋三や石破茂のような“好戦的”な極右の政治家や、それによって“商売繁盛”となる軍需産業や武器商人たちだけが渇望、願望しているのではない。ナショナリズムを煽り、他国から(ママ)脅威を声高に言い募るマスメディアやジャーナリズムだけが威勢良く進軍ラッパを吹いているわけではない。ましてや、真っ先に戦死の危険を追う(ママ)自衛隊が、本当の意味で「戦争」を望んでいるはずがない。むしろ、そうした“戦争の空気”に便乗する大衆的、国民的な漠然たるディスペレートな“願望”や“希望”にある。こうした“戦前的な空気”に抗うこと、逆らい続けることが現在一番大切なことであると思える。』(P191)
『すなわち、シビリアン・コントロールならぬアメリカン・コントロールの下の米軍の補充部隊、兵站部門を受け持つ“第二軍”にすぎない。
こうした現実を覆い隠すために、旧日本軍への郷愁が利用されていると私は考える。』(P232)
いままさに歴史が転換していきそうなとき、タイミング良い出版だった。考える縁として文学作品や映画などを取り上げ、昨今の右旋回への経緯を考えさせる。重ねて書くが、内容を精査して、改訂版を出していただきたいと思う。
