読むのはおそらく、三度目だ。私が初めて手にした村上春樹作品がこの短編集で、高校生のころだった。妙にクリアで、クールで、日本の文学らしからぬ突き放すような印象を持った気がする。高校生にはやや難しい作風であった(この後、私が二冊目の春樹作品『風の歌を聴け』を手にするまでは数年を要した。第一印象をこの短編集にもたらされたので、ちょっと敬遠したらしいのである)。
二度目は数年前、ふと読み返したくなって書店で手にした(いつでも入手できる本はすべて23歳のときに処分していた)。難しくはなかったが、その時の印象は“豆腐みたいだ”だった。あまり自己主張しない。味付けしだいで、いかようにも様変わりしてしまう。その身軽さに感心しながらも、飽き足らなさを覚えた。
そして今回、何か春樹作品を読もうとして自分の本棚を眺めて、手が伸びた先にこの短編集はあった。おれは今なら豆腐にどんなトッピングを加えるのか・あるいは豆腐そのものをいかように味わうのか。読後感が、私の“いま”を診断するよすがになりうる気がした。小説にその役目を担わせることが良いことだとは思えなかったが、かといって、人間は自己の力のみに頼って自己を検分できるものだろうか。少なくともいまの私にその自信はなかった。
以下、短編それぞれの寸感。
『螢』
三部作や、『ノルウェイの森』の原型を見る気がした。青春の一コマを描くかに見えて、ここには著者がこれからライフワークとしていく何かが暗示されているように思える。
三十代前半になって回想するという設定だが、回想する視点はすぐさま無視されて、話の埒外に追われる。なにゆえ回想するのか、その理由も書かれない。
しかしその理由を問う必要はないのだろう。最後に話はこう結ばれている。
『僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。』
そう、“いつも”そうだったのだ。たとえ三十男になっていたとしても。思えばここで“螢”と称されているものこそが、対外的にはわかり合えぬ某かであり、対内的には小説という表現形式だったのだろう。
変な言い方になるが、習作くささを残したまま洗練された短編である。
『納屋を焼く』
良くも悪くも翻訳を読むような印象。高校生の私が村上春樹は難解だなと早合点したのはこの作品の、比喩に満ちた作風のためだ。
大麻煙草を吸いながら「納屋を焼くんです」と、不思議な告白をする男。不気味な暗示に終わるかと思いきや、語り手は実地に町内の納屋を調べてジョギングしながらそれらを見てまわる。片や妙にリアルな話なのだ。ここで読者も話の筋が分裂していくことに巻き込まれてしまう。
不確定性や不条理。しかしそれに直接的には関わらない語り手の視座。ここにも村上春樹のスタンスの雛型が窺われるわけだが、はたして納屋とは何だったのか。失踪した女のことだったのか。
『踊る小人』
村上春樹特有のファンタジー的作品。場面設定も多国籍的で時代も特定できない。
何を描きたいのか、作中人物に何を託そうとしているのか。面白く読めたのだけは幸いだったが、ちょっと文学としては感心しない終わり方だった。
こういう不思議なキャラクターは春樹作品に頻出するので、変な既視感もあって、食傷気味なのかもしれない。
『めくらやなぎと眠る女』
難聴を患っている中学生の従弟を病院に連れて行く話。従弟を筋の中心に置きながら、語り手の回想が周縁を漂い続ける。
回想される過去が、『螢』の設定と重なっている。喪失と回復。著者の実体験に無関係ではないのかもしれない。
某かの深刻な事態を経て、作中の彼らは努めて深刻がらないように振る舞う。個人的な趣味の世界に沈潜して。それは深刻さから逃れたかった七十年代の世相を表現し、またその世相に歓迎されたのだろう。その中で喪失と回復への希求が語られるのは、通底したテーマに思える。
『三つのドイツ幻想』
ショートショートが三編。旅行記みたいな話だ。
その洗練された雰囲気を、ただ雰囲気として味わうべき作品なのだろう。旅行記としても小説としても半端な感じがするから、詩でも読むように、車窓の景色を眺めるように読むべきなのだろう。
さて、話は戻って、私はこの“豆腐”をいかように食べたのだろう。淡い味わいの素材を確かめながら、やや感傷的な気持ちで、しかしドライに読み流した気がするのだが、それで何がわかったというのか。
結局、自己診断なぞ、そう易々と出来やしないのだ。その味わいの微かな変化をただ見つめるだけだ。
