あるリサイクルショップで文庫本が¥50で並んでおり、何か一冊買って帰ろうと思った。が、そもそもこういう店に古本を持ち込む読者層というのは趣味を私と大幅に違えているのだろう、なかなかめぼしいのが見つからない。けれど古本を前にすると強迫観念的に買わねば気が済まなくなる私。そんな場面でなければ本作を手にすることはなかったろう。
企業人や政治家の生涯を描いて、広範な読者を持つ城山三郎ではあるが、私は高校生のとき『硫黄島に死す』を読んだきりだった。その作風は常に権力者や社会的に成功した者の視座に拠っており、読書層もまたそうしたレールの上に在る者ら、という偏見が長らく私の中にあった。私に城山三郎を薦める人たちが、保守的な部類にあったのも、若い私の偏見を助長してしまった。
しかし率直に言って読んで良かった。勉強になったのである。小説を即ち歴史であると鵜呑みには出来ないが、丹念な調査に基づいて、淡々と書く文体に、気づけば熱中していた。敗北に至る歴史を、軍部にスポットライトを当てた読み方はそれなりにしてきたが、文官の、外交官の視点は私には盲点だったのだ。不覚であった。
北一輝の思想に触れた直後だけに、その対局にある広田弘毅の生涯を読んで、感慨は深かった。保守的なイメージは思い込みで、極めて中道の視線で、著者の感情を移入させることなく、言外に歴史の因果を問う。これだけ地味な内容を飽きさせずに読ませる静かな文体。悪くないなと思った。
ただ、ソースの信憑性や取捨選択などには留意せねばなるまい。司馬遼太郎の著書によって形成された独特の歴史観が独り歩きする司馬史観という事例もあるわけだから。
