よい子の読書感想文 

読書感想文368

『ノルウェイの森(上)』(村上春樹 講談社文庫)

 十年ぶりくらいに読む。二回目である。一昨年だかに映画化され話題になったようだが、興味を感じなかった。ただでさえ一般論と個人の趣味にしなだれて、痛み苦みをオブラートするような作風の春樹作品が、映画化でさらに一般化されたらどうなるか。見たくない気がした。商業主義に乗って紅白に出る尾崎豊がもしもいたら見たくない、そんな感じである。
 しかし、原作を再読しようと思い立つ契機にはなった。どんな話だったかあんまり覚えていないのが気になった。名作のように言われているのに、記憶が欠落しているのが腑に落ちなかった。読んでいく過程で思い出したとして、感じ方にはどんな相違があるだろうか。そういう興味もあった。
 最初のほうは最近読んだ既視感があった。『蛍』とかいう短編とほぼ同じものが導入部に用いられている。それに気づくまでは気持ちが悪かった。十年ぶりに読むのに、読んだばかりの感じがしたからだ(『蛍』は昨年読み返した短編集に入っていた)。
 昔は同一年代の視点から、つまり20代前半の視座で作中人物を見ていた。読めているつもりでも、いま思えば振り回されていたように思う。当時の私には『直子』は不可解な、不思議な女の子だった。私は『僕』以上にその不可解さに惑わされていた。
それだけ私の感受の守備範囲が狭かったのだろう。間に受け易かったと言い換えてもいい。
即物的なものを一方は確認し受け入れていくが、一方は即物的なものに裏切られていく。乖離していく。この作品においてそれは〈セックス〉を媒介にして描かれるが、当てはめるイメージはなんでもいいだろう(現実生活であれ、革命であれ、宗教であれ)。この汎用性が村上春樹作品の上手さであり人気の秘訣であるように思う。
 導入部はビートルズの曲である。若き『僕』と『直子』がターンテーブルに乗せて聴くのはビル・エヴァンスである。居酒屋で流れている有線放送みたいなチョイス。ここで『僕』が妙に凝ってモンクなどを聴いていたら話の汎用性はだいぶ低下していただろう。
 ノンポリ学生としての立ち位置も絶妙だ。時代に拘束されないのである。そしてちょっと変わり者以上、異端者未満。ヴィレッジバンガードに陳列されていそうな作風ではないか!
いろんな側面から読むようになって私にクローズアップされてくるのは、この作風に対する反感である。簡単に言えば、それは器用さや巧みさへの反感である。
 象徴的なことに、本作では大学に入ったばかりの『僕』が、まわりはみんな三島由紀夫や高橋和巳を読んでいたが自分はフィッツジェラルドが好きでそういうのは読まなかった、というようなことを言っている。
 この皮肉やポーズを、若い読者は理解し得るのだろうか。間に受けはしないだろうか。
 あまり気乗りはしないが(下)も読む。すらすら読めてしまう。良くも悪くも。

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