かねてから再読したいと思っていた。19、20歳の頃に読んで受けた衝撃は鮮明に覚えている。
緻密に組み立てられた哲学的小説。当時の印象を一言でいえばこうなる。緊張感に満ちた文体は最後まで引き絞られ、弛むことがない。天才とはこういうことかと思った。
もしかすると、そのとき以来の再読かもしれない。あのパーフェクトさは、いま読んでも変わりないだろうかと、期待しながら頁を繰っていった。
驚くべきことに、印象に翳りはなく、文体につけいる隙はない。読む側にさえ緊張を強いるような、律されて格調高い文体は、ストーリーを緻密に紡いでいき、読む者を魅了する。
中でも今回の読書で唸らされたのは、要点で挿入される語り手の心のうち(二重括弧で表現)である。それらは唐突にならぬよう計算され、作品の指導標として読む者を導く。
『裏切ることによって、とうとう彼女は、俺をも受け容れたんだ。彼女は今こそ俺のものなんだ』
『金閣よ。やっとあなたのそばへ住むようになったよ』
『今すぐでなくていいから、いつかは私に親しみを示し、私にあなたの秘密を打ち明けてくれ。あなたの美しさは、もう少しのところではっきり見えそうでいて、まだ見えぬ。私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。又もし、あなたが地上で比べるものがないほど美しいなら、何故それほど美しいのか、何故美しくあらねばならないのかを語ってくれ』
『金閣と私との関係は絶たれたんだ』
『これで私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎり渝らぬ事態・・・』
有為子は二重に裏切り、彼の岸へ飛躍し、語り手にとっては、絶対に手の届かない美の象徴となってしまう。
おそらく有為子とは、三島が憧れていた、若くして戦死した先輩らの投影ではないかと今回は思った。
また、戦争で明日にも焼け落ちる可能性を纏った金閣寺は、戦争による滅亡という目前の運命を私と共有していただけに、終戦が大きなターニングポイントとなる。作者は巧みに、己の辿った心象風景を、作中人物に託しているかのようだ。
今回はそういう感想を抱きつつ読んだ。
中盤以降、二重括弧は極めて劇的に表れていく。その唐突さが不自然にならないようお膳立てがされ、そのままでならわざとらしくて素通りしてしまいそうな言葉を、忘れ得ぬものにしてしまう。
『それにしても、悪は可能であろうか?』
『金閣を焼かなければならぬ』
『私の内界と外界との間のこの錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に拭きかようようになるのだ。釣瓶はかるがると羽ばたかんばかりにあがり、すべてが広大な野の姿で私の前にひらけ、密室は滅びるのだ。・・・それはもう目の前にある。すれすれのところで、私の手はもう届こうとしている。・・・』
そして最後の最後に、引き絞られ続けた弓が弛む。若いとき、私はこの部分に着目しなかったように思う。それは当時の私が、本作で語られる哲学的な、地に足のつかないような世界観の中にいたからかもしれない。
もしかしたら、と思う。三島由紀夫は、最後のこの一文を綴るために、『金閣寺』を書いたのではないか。もはやそれは二重括弧からも解放され、平たいままに、実感としてこう語られるのだ。
【別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。】
こう単純化してはいけないかもしれないが、成長の物語だったのかもしれない。観念的な美から脱却し、ここに至る顛末は、もちろん三島由紀夫と戦争の関係をも連想させる。
とするならば、『楯の会』というのは、三島が作った新たな“金閣寺”だったのだろうか。
