何かで、この作品の一節が引用されていて、気になっていた。
学徒出陣で戦車部隊に配属された司馬氏は、終戦間際、本土決戦に備える北関東の部隊にいた。上陸してくる米軍を邀撃する作戦の説明に『大本営から人がきたことがあった』。説明後、司馬氏は質問した。
『戦車が南下する、大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているのだろうか』
『その人は相当な戦術家であったろう。(中略)このため、この戦術という高級なものを離れた素人くさい質問については考えもしていなかったらしく、しばらく私を睨みすえていたが、やがて昂然と、「轢っ殺してゆけ」と、いった。』
この部分の真偽が話題に上っていた。このような威勢の良い勝手なセリフを吐くのは、若い参謀だろう。部隊にわざわざ出向き、下級将校の質問にも応じるくらいだから、少佐か大尉くらいの参謀であろう。もしかしたら、その随員の中尉クラスだったかもしれない。
嘘か本当かという議論が私には違和感があった。実際に「轢っ殺してゆけ」と言い放った者がいたであろうと思う。問題はそれが、大本営の公式見解と捉えるほどに大物の参謀だったかどうかであり、私はこの点では疑わしいと感じた。『大本営から人がきた』という書きっぷりから、その人を庇う一方で、その人の肩書等をぼかす意図をも感じたからである。
と、本題から大いにずれてしまったが、学徒兵の司馬遼太郎が元戦車乗りとして語るとき、これほど饒舌になろうとは意外だった。ここでは歴史小説を書くにあたってのさまざまな制約から解放された、この書き手の本心が見えて、大変興味深かった。これほどまでに反軍的な思想の持ち主だったとは意外である。それもこれも、戦車という棺桶に、日本陸軍の宿痾が集約または象徴されていたからだということ。これが辛辣な三作品(『戦車・この憂鬱な乗物』、『戦車の壁の中で』、『石鳥居の垢』)から滲み出ている。いや、もはやこれは噴出しているといってよいくらいだ。
他は近世や幕末の話題であるが、大河ドラマ的な小説ではないので、枕頭において気楽に楽しめた。楽しむとはこういうことを指すのだと思った。歴史に思いを馳せる。連関に気づく。活かすべきことを学ぶ。気概に心を震わせる。そして日々の我がなりふりを顧みる。
酒をやめて良いことは多々あるが、寝る前に心静かに書見ができるのも、大きな余得の一つである。
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