これも国語便覧の文学史年表から抽出した未読著名作品である。1900年代からは本作と岩野泡鳴『耽溺』を選んだ。同時代の作品には他に漱石の初期作品群、あるいは藤村『破戒』、花袋『蒲団』などがあり、たいていは読んでいる。白鳥や泡鳴が抜けていたのは単純に文庫本が流通していなかったからだ。
講談社文芸文庫は痒いところに手が届いて好感が持てる(高いから新刊では滅多に買わないけれど)。全集なんかは欲しくないし、今後もこのシリーズにはお世話になりそうだ。
さて『何処へ』以下八編の短編集である。表題作は青春彷徨の明治バージョンであって、偽悪的な素振りがなんとなく痛い。過渡期というか、いわば習作的時代ゆえに許容された作風だろうと思う。
『微光』は妾稼業の女を中心に、その界隈を描く。半端な終わり方で後味が悪かったものの、面白い視座で描かれた作品だと思った。なにを言わんとしたのか、なにを描きたいのか、その方向性が見えずに読み流し気味ではあったが。
『入江のほとり』以下5編は家族を描いたもの。こうして並べて読むと、ひとつの大河小説みたいにも読める。死んでいった両親や弟への哀惜が書かせたものだろうか。あまり作中人物には深入りしない描き方で、良く言えばドライで読みやすい。しかし著者晩年のものに関しては、妙に随筆じみてきて、白鳥という人を知る資料としては役立つだろうが、繰り返し読みたいとは言えないものだった。
商業主義的なものに賛同はしないが(それによって多くの芸術がつぶされていったわけだ)、文庫本として生き残らなかったのは一般的にウケも悪かったからだろう。
白鳥の若いころから晩年までの短編をうまく編んでおり良い買い物をしたが、しかし正宗白鳥という人の宗教的変遷についてはこれら作品群の語るところでなかった。いかなる懐疑、いかなる回心があったのだろうか。他にめぼしい小説はなさそうだから、いつか本書を再びひもといてみるしかあるまい。
