行きつけの、地元の古書店に行った。ベンヤミン『暴力批判論』を手にする。開くとアンダーラインと書き込みだらけ。前にもこれに気づいて買うのをためらったのを思い出した。
次に手にしたのはカミュの創作ノート。いまいち食欲をそそらない。
ぶらぶらしながら何気なく『天声人語』の文庫版。60年代末期・70年代初頭のものを棚から抜く。当時の世相をもっと知りたい。しかし…あの熱い時代の伝聞に接する度、ある羨望と現実の冷たさの乖離に悩まされる。
それに、最近、濃いものを食しすぎた気がする。胃を悪くして、ソバやうどんが欲しくなるような気分だ。私はコンビニで手持ちぶさたに煙草を買うふうな心持ちで、久々に春樹を手にしていた。
「一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。」
そうだ。出口が必要なのだ。しかし、瓢々と語られていくこの物語は、深刻さを軽快に、無意味を意味ありげに(否、意味を無意味げに?)、タイピングされた後、二ヶ月経ち、
「そして一日、窓の外を通りすぎていく十一月の日曜日を眺めた。何もかもがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だった。」
と、終わってしまう。
私もふと、窓の外を見る。偶然ここにも、私の「十一月の静かな日曜日」がある。
そして出口は…
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ワッタ
ふぁな
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