2015年6月29日(月)
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今日は、牧師仲間が数名でなごみのひと時を持たせていただきました。
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若い牧師が言いました。
「最近、このような経験を致しました。
大変頭脳明晰な方なのですが、
教会に来られると、
必ず『神はいない』と、はっきりと断言されるのです。
しかも、来られる度にそう言われるのです。
ところが先日その方が病気になり、
入院先をお訪ねさせて頂きました。
毎回、『神はいない』と仰られているので、
お祈りすることを少し憚っていましたが、
帰り際、遠慮がちに、
『短いお祈りをさせて頂いても宜しいですか?』
とお断りをし、遠慮がちに、遠慮がちに、
聖書を読み、小さなお祈りをお捧げしましたら、
なんと、その方はポロポロと涙を流されたのです。」
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少し、年上の牧師が言いました。
「私は、牧師になる前に3回脳梗塞を患い、
半身不随で、左足も動かない状態に陥った時がありました。
その時、
まばゆいばかりの光が注がれるような中で、『自分の足で立って歩け』という神のみ声を聴いたのです。
ところが私の内側にあった絶望感は深く、その神のみ声さえも固く拒否して、
「左足も動かないこんな私では、誰かの援助がなければ生きていけない。
こんな私に神の栄光はない」と、言い訳するだけでなく、
むしろ、神に対して根強い怒りを覚えているほどでした。
ところが、翌朝看護士さんが来られて、
半身不随の私を起き上がらせてくださろうとしていたとき、
私は自分で動き、起き上がっていたのです。
看護士さんはそんな私を見て、『動いていますよ!』と、驚きの声をあげ、
私もまた、その看護士さんの声で、動くはずのない自分の足が動いていたことに気が付いたのです。
それは、ただ「めぐみ」でした。
それ以外に何もありません。
その日、私が祈ったから、私が信仰深かったので動かないはずの左足が動いたのでは全くありませんでした。
ただ、めぐみだったのです。」
少し年配の牧師は、梗塞を起こされた気配さえ感じられないお身体をいつくしむかの様に、
おっしゃられたのでした。
「今あるのは、神のめぐみです」
と。
☨
エリヤという預言者は、
「わたしのつかえる、イスラエルの神主は生きておられる」と言いましたが、
「全く」
と、思いつつ、
時津に車を走らせました。