長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

10月28日礼拝メッセージ「マルタとマリア」

2018-10-27 23:15:30 | 説教メモ

「マルタとマリア」ルカによる福音書1038-42

 この箇所から多くのメッセージが生まれた。

その内容は、イエス様を家にお迎えした二人の姉妹は、一人は動き回ってもてなし、一人は足元に座って話を聞いていただけだった、と言うストーリー。ところが、動き回って接待をしていた側から、座って話を聞いている側に不満が噴出。イエス様に苦情がいってしまった。それに対するイエスの返答。その言葉の真意を汲取ろうとして、多くのメッセージが生まれたようだ。

 ▽イエス様からマルタへの返答(4142

イエス様は苦情を申し立てるマルタに、「マルタよ、マルタよ」と、二度名前を呼びかけている。これは、慈しみ、重んじているヘブル語的表現で、決してマルタの接待を否定している訳ではない。ただ、「多くのことに心を配って思いわずらっている」マルタの行き過ぎた状態を指摘。マリアに対しては、「マリヤはその良い方を選んだ」と、マリアの選択を喜ばれている。


 私は、この場面を「祈り」の姿勢からイエス様の真意を伺ってみた。

 九州聖会に於けるチョン・ビルド師メッセ―ジ「祈る人が祝福される」から。

信仰による祈りはきかれる。(自分を喜ばせようとするのでなく、神を喜ばせようとして祈る祈りはきかれる。)ヤコブ4:2「あなたがたは求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」ロマ14:23「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、幸いである。しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。」

みこころにかなう祈りはきかれる。Ⅰヨハネ3:21,22「もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが、神に求めるものは、なんでもいただけるのです。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。」神に喜ばれようとする心、主を愛するがゆえに祈る祈りは、祈る前から神はご存知である。

 イエス・キリストは、「マリアはその良い方を選んだ」と、マリアの選択を喜ばれたが、それは、マリアの中にあったイエスに対する愛から出たみ言葉への傾聴。それが主を喜ばせた。マルタもまた、主を愛するゆえの接待であれば良かったが、忙しさの中で、逸脱したのだろうか。賛美で主をお喜ばせする人もいれば、献げもので主をお喜ばせしている人もいるかもしれない。それが何であれ、その動機をみて、捧げられた奉仕、祈り、献げものを主は喜び受けられる。

 自分がしようとしていることに執着し始めると、み旨から、我がままに変形して、神様という名のもとで、自分の思いに仕えることになっていくことがある。み旨からでたことであったにも関わらず、自分の力で完成させようとする誘惑は日常生活のなかにも潜む。ガラテヤ1:10、ガラテヤ3:3は深く心に留めたい。更に、使徒パウロは、「最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13)と言ったが、これこそ、マリアからも、マルタからも、また、私たちからも決して取り去ってはならないもの。唯一のもの。そのマリアの選択を主は喜ばれた。


ゆったりと平凡に

2018-10-25 15:49:16 | ひとりごと

 

🍁

 

 

久しぶりに、岸辺を歩いた。

波の音、空の広さに癒される。

👣

何も考えず、

ただ、大自然に抱かれていよう。

👣

これでいいのカナ?

これでいいんだヨ!

どこからか聞こえてくる、

懐かしい、禁じられた遊びのメローディーも、

山々に響くチェーンソウの音も、

秋のメロディー。

 

さっき、すれちがったおとうさんも、お母さんも、

みんな一緒に秋を歩いているんだね。

 

 

 📖 

詩篇19篇

 

もろもろの天は神の栄光をあらわし、

大空はみ手のわざをしめす。

この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。

話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、

その響きは全地にあまねく、

その言葉は世界のはてにまで及ぶ。

神は日のために幕屋を天に設けられた。

 

 

 

                   

 

                                           

 

 

 

 


能力の尺度

2018-10-19 21:52:48 | ひとりごと

 

私なりに考えてみた

👣

もしかして、

他人の話した言葉を

どれだけ、理解して聞くことができたか?

これが、

一人一人がもっている

能力の尺度なのかもしれないナ~ ☆

🐾

それからすると、

私の能力は、

35センチくらいかもしれない

👣

この世は

わたしにとって、

あまりに理解できないことばが多すぎる

 

 


つぶやき

2018-10-16 17:04:30 | ひとりごと

 

親愛なる神様、

時折、

自分がとても愚か者に思える時がありますが、

このような時は、どうすれば良いのでしょう?

こうした時も、ただ祈るだけで、良いのでしょうか?

教えてください。

 

🐤

 

今、空を飛んで行った鳥たちは、

だれに教えられて、

あの高く広い空中を舞いながら、

居るべきところに間違うことなく

帰ってゆけるのでしょうか?

 

🐦

 

コンコンと丁寧に教えられていても、

ずれてしまうことがあるので

私は、チョット、恥ずかしくなります。

 

 

 

  

 

 

 


聖徒は一夜で造られず

2018-10-15 15:21:26 | ひつじかい日記(2)

 

2018年10月14日(日)

 

夕方、

本当は立山修道院の「黙想の家」に駆け込みたかったが、

めぐみの家でもそれはできると判断して、

聖書と聖書日課と携帯だけを持ち込んで、

一人、黙想と祈りの時をもつことにした。

 

まず、祈りは、

「一人になること」と、オズワルド・チェンバーズ先生の日課に書かれていたからだ。

 

初めての、

祈りの家での黙想体験。

大きな声を出しても大丈夫そうな2階の北側の個室を陣取り、

一人、聖書と聖書日課を開いて、主を待ち望んだ。

めぐみの家が与えられて三年ほどになるが、

初めての、2F個室で静まりの時だった。

 

6時過ぎに移動、入室。

一晩中、静かな深い神様との交わりを頂く予定だったが、

そのうち、

ドアの破れた部分や壁の汚なさが目につきはじめ、

二年前の夏に、この部屋にホームスティされた、フランス人大学生のテディのことが気になり始めた。

彼は、一ケ月近くも、あの暑さで、何も言わずに良くこの部屋で寝起きされたのものだ、

と、今更のように、気の毒に思えてきたりで、

何となく居心地が悪くなり、

結局、私は、11時前に、おずおずと退散して、自室に帰ってきてしまった。

徹夜で、しっかりと静まりの時をもつ予定だっただが。

 

立山「黙想の家」では、一晩、聖書だけで、心地良くゆったりと(寝?)静まれるし、

神様との親密な一夜を過ごせるが、

めぐみの家の2Fの個室は、何が違うのか、魂の落ち着きが感じられず、

これでは、むしろ礼拝堂の方が、「一人主の御前」のひと時をもてるとも思った。

 

聖徒は一夜ではつくられず、

それだけでなく、環境も大きく作用しているような気がした。

今夜の霊の山頂登山へのチャレンジは、もろくも、

山麓付近をウロウロと彷徨うだけで、全敗し、

「環境」という大壁にブチアタッタだけのような気がした。