「マルタとマリア」ルカによる福音書10章38-42節
この箇所から多くのメッセージが生まれた。
その内容は、イエス様を家にお迎えした二人の姉妹は、一人は動き回ってもてなし、一人は足元に座って話を聞いていただけだった、と言うストーリー。ところが、動き回って接待をしていた側から、座って話を聞いている側に不満が噴出。イエス様に苦情がいってしまった。それに対するイエスの返答。その言葉の真意を汲取ろうとして、多くのメッセージが生まれたようだ。
▽イエス様からマルタへの返答(41、42)
イエス様は苦情を申し立てるマルタに、「マルタよ、マルタよ」と、二度名前を呼びかけている。これは、慈しみ、重んじているヘブル語的表現で、決してマルタの接待を否定している訳ではない。ただ、「多くのことに心を配って思いわずらっている」マルタの行き過ぎた状態を指摘。マリアに対しては、「マリヤはその良い方を選んだ」と、マリアの選択を喜ばれている。
私は、この場面を「祈り」の姿勢からイエス様の真意を伺ってみた。
九州聖会に於けるチョン・ビルド師メッセ―ジ「祈る人が祝福される」から。
①信仰による祈りはきかれる。(自分を喜ばせようとするのでなく、神を喜ばせようとして祈る祈りはきかれる。)ヤコブ4:2「あなたがたは求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」ロマ14:23「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、幸いである。しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。」
②みこころにかなう祈りはきかれる。Ⅰヨハネ3:21,22「もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが、神に求めるものは、なんでもいただけるのです。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。」神に喜ばれようとする心、主を愛するがゆえに祈る祈りは、祈る前から神はご存知である。
イエス・キリストは、「マリアはその良い方を選んだ」と、マリアの選択を喜ばれたが、それは、マリアの中にあったイエスに対する愛から出たみ言葉への傾聴。それが主を喜ばせた。マルタもまた、主を愛するゆえの接待であれば良かったが、忙しさの中で、逸脱したのだろうか。賛美で主をお喜ばせする人もいれば、献げもので主をお喜ばせしている人もいるかもしれない。それが何であれ、その動機をみて、捧げられた奉仕、祈り、献げものを主は喜び受けられる。
自分がしようとしていることに執着し始めると、み旨から、我がままに変形して、神様という名のもとで、自分の思いに仕えることになっていくことがある。み旨からでたことであったにも関わらず、自分の力で完成させようとする誘惑は日常生活のなかにも潜む。ガラテヤ1:10、ガラテヤ3:3は深く心に留めたい。更に、使徒パウロは、「最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13)と言ったが、これこそ、マリアからも、マルタからも、また、私たちからも決して取り去ってはならないもの。唯一のもの。そのマリアの選択を主は喜ばれた。