山口県長門市の「まち」「ひと」「しごと」をつなぐお手伝い

NPO法人つなぐ(長門市しごとセンター内)で働くことになりました。
そこでの活動日記

ながとの歴史と文化財について、学んでみようと思う

2019-08-16 13:15:31 | #7 長門市での日々

明日、ながとの観光コンシェルジュの試験があります。

あっという間に今日を迎えました。
ということで、テキスト眺めてみようと思います。

体調不良で休んだ会は「青海島」について
山大大学院教授の 今岡照喜氏が解説されたようです。


基礎知識:
H30の長門市の観光客は253万人!

◆青海島の希少性について


青海島は、陸繋島(りくけいとう) 

青海島には「青海湖」と「波の橋立」がある。
青海湖は、山口県最大規模の潟湖。別名ラグーン ←ラグーンは基本塩湖だけど、青海湖は淡水!
波の橋立は砂州。

あ、youtubeに映像が
[[4Kドローン空撮]長門市の青海島、波の橋立から海上アルプスへ]

青海島は「海上アルプス」と呼ばれる
1919年 横山健堂が命名 今年で100年目!

青海島は、多くは火山灰の堆積による「凝灰岩」。

「幕岩」と名付けられたて「マグマ混合絵巻物」と呼ばれる面がある


青海島の十六羅漢にある「セムラ」
⇒画家 東山魁夷 が皇居新宮殿の大壁画「朝明けの潮」のモデルにしたといわれる
 



次は、sea Againのダイビングインストラクターの方のお話
◆青海島のダイビングについて

海の特徴は、暖流と寒流が混じる場所で、温帯域と館帯域の生物がまじりあうこと
湧昇流という深海からの流れがあり、沿岸と深場の海水が入れ替わる現象が起こる

特有の生物
・アカモク
・クサウオ
・オオカズナギ
・シリアケイカ ←卵に墨を塗って、中が見えないようになっている
・ハナイカ ←日本で一番、このあたりにいる
・ムラサキダコ ←夏だけいる



次は、村田清風記念館 館長 のお話から

◆村田清風について

・天明3年(1783年)4月26日生まれ
・子供の頃のあだ名は「どん亀」

・萩明倫館に入学 片道20キロを歩いて通う!!

・20歳で、江戸へ旅する
 「来てみれば 聞くより低し富士の峰 釈迦も孔子もかくやあるらん」と詠んでいる!

・天保の大改革
 長州藩は慢性的な借金苦(借銀8万5千貫)

 ⇒厳しい節約、産業振興(4白政策:塩、蝋、米、紙)



次は、香月泰男美術館 学芸員のお話から

※館内は飲食禁止、禁煙、指定箇所以外の撮影禁止

香月泰男について
昭和を代表する洋画家
画家になると決めて、離別し別居する母親にお願いして「絵具箱」をGET
招集された際もっていく、シベリアで捕虜となり没収されるが、のちに返され、ロシアへの似顔絵を描くなど

「ここが<私の>地球」と呼んだ、ふるさと三隅で過ごす


・香月泰男美術館について

1993年 三隅町立香月泰男美術館として、画伯の誕生日の10/25にオープン
設計者は、息子さん

自然光のダメージを避けるため、ライト設置

作品は3000点!
年3~4回入れ替えて、常に企画展

晩年は、おもちゃを作成
三隅川氾濫時の廃材利用

中庭の「サン・ジュリアン」の木は、香月がシベリアから持ち帰った豆で育てた


※手元に長門市教育委員会発行の、「小学校社会科 わたしのまち ながと」(2017年4月1日発行)という資料がありまして、
そこの香月泰男についての記述より

香月泰男(1911~1974)
三隅をこよなく愛し、人類愛と平和をテーマに創作活動を行い、近代日本洋画界に大きな足跡を残した ※要約してます※

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ながと観光コンシェルジュ養成講座 基本コーステキスト
制作:一般社団法人長門市観光コンベンション協会


・御所原大神宮の銅鏡 in西深川

⇒これは、平安時代後期(1150年ごろ)のものといわれている
 末法思想が横行したときに、経塚に埋葬され、約340年前に二代目藩主綱広公が見つけて、御所原大神宮に奉納したと考えられている


・東後畑棚田(ヨミ:ひがしうしろばた)

⇒ここの棚田は粘土質で、良質な米がとれることで好評。「防長米」
 水源の大部分はため池。ほか湧水も


・二尊院の四天王立像 in向津具(ヨミ:ムカツク)

⇒主神 帝釈天に使える (1)東方の持国天、(2)南方の増長天、(3)西方の広目天、(4)北方の多聞天
 仏師不明
 修復作業時の紙片から、鎌倉時代後期のものとされる
 桧の寄せ木造り


・西圓寺 in青海島の大日比(ヨミ:おおひび)

⇒もともと真言宗の寺で、1696年から浄土宗の寺。
 本堂、山門、棟札が県指定文化財
 大日比は、往古には商人千軒と言われる邑だったが、寂れていった。
 
【特記1】天文20年に、大内義隆公が 陶晴賢(すえ・はるたか)の逆乱で追われ西圓寺に寄寓。のちに大寧寺で自害
     そのさい、義隆公は、護持していた千手観音を寄進した
【特記2】文禄後期に、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に、大日比と紫津浦から漁師700名を召し出し、帰ってきたのは約100名!


・泊り台場跡 in油谷向津具下

⇒天保13年(1843)幕府の発した海防強化令により、大砲の台場を構築
 吉田松陰が、萩藩の命を受けて、海路で北浦巡検
 萩藩主毛利敬親は陸路で巡視

 幕藩体制の崩壊寸前で、西洋れ国からの外圧による内憂外患の時代


・地蔵菩薩

⇒市内におそらく数百体が鎮座
 地蔵信仰は10Cごろ、浄土教の進展に伴い始まった


・一位ケ岳

⇒672m。長門山地の最高峰 
 山頂周辺に、ベニドウダンツツジが自生
 ふもとには、河鹿が鳴く清流の「七段の滝」という名所がある。雨ごいの場所だったとの記録も

 雨ごいしてたら出てくるという雨蛇 はウナギの子か?との記載あり。
 

・長門深川廃寺

⇒西深川の板持の丘陵地域 飛鳥時代に高層の棟のある寺院があった
 一辺がほぼ50mの方形の境内
 約半世紀後、奈良時代になって金堂(本堂)が追加建立されている
 →屋根瓦によって時代考察したのだとか
 (高さの記述がないけど、、5層の棟だったよう)
 もともと松林で、田畑に開作する中で、廃寺跡が見つかったっぽい
 
 郡の長官の私寺で、権威を示し、民衆支配のための象徴寺院だったと考えられている

調べたら、youtubeの映像出てきました。
感謝


・二位の浜とハマオトモ群落 in日置

⇒壇ノ浦の戦いで、幼帝安徳天皇とともに入水した「二位の尼」の亡骸が漂着したとの伝説あり
 で、地名が「二位の浜」となった
 北西の風に乗って、漂着の多い海岸

 ハマオトモ(別名:はまゆう)の群落がある!常緑多年草
 おそらく、対馬海流にのって木浜にたどり着いたと思われる
 自生するハマオトモの北限!


・油谷湾の製塩

⇒古代から、油谷湾では、塩造りが行われた
 古墳時代:藻塩焼製塩法 刈り取った藻に海水をかけ濃縮、土器に入れ煮沸
 中世後期:浜における塩浜製塩技術 ※山陽で盛ん。山陰はあまり。
 近世前期(1610頃)長門国の生産高の半分(53.7%)を油谷湾で生産! →しかし17世紀から18世紀にかけて、入浜式塩田は瀬戸内海岸に移行


・八幡人丸神社 in油谷新別名

⇒九州から石見へ向かう途中、ここに寄った柿本人麻呂を祀る神社
 景観に魅せられて、3年過ごしたそう。
 朝夕の眺望を「ムカツクの奥の入り江のさざ浪に海苔かく海士の袖はぬれつつ」と読み残し都へ帰還
 (???都へ?石見へ?)
 和歌の神として、歌人から寄せられた書籍などが多数
 うち、5点は「八幡人丸神社伝来の寄進奉納の書跡・典籍類」として市指定有形文化財に
 
 明治時代に弓弦葉山(ゆずりはやま)八幡宮と合祀
 ヒノキの巨木もある
 境内には、古典樹苑がある。
 室町時代以前の古典に登場する草木を約180種集め、それぞれに古名・現名、和歌が添えられた説明付き
 


・能満寺 in俵山

※調べたら、じゃらんの口コミに、意外や25件も!!

⇒唐から今の佐賀県に帰国した空海(弘法大師)が翌年807年に建立
 帰国後初の建立と言われている
 本堂の格天井(ごうてんじょう)の杉板には、見事な雪舟画と言われる花鳥の絵
 境内には、宝物館
 裏山には、シイノキ巨樹群
 
 俵山は、「西の高野」として知られ、かつては21もの末寺があり、長門国での真言宗の中心寺院であった
 

・村田清風と楫取素彦(かとり・もとひこ)


周布 政之助(すふ まさのすけ)
 

大寧寺 初めの名は、康福寺

⇒曹洞宗
 1410年 深川城主・鷲頭弘忠の創設

wikipediaより[天文20年(1551年)に大内義隆が家臣の陶隆房の謀反に遭い、山口から脱出後にこの寺に逃れたが、陶軍に包囲される。異雪慶殊(いせつけいじゅ)より戒名を授かった義隆は自刃し、寺も焼失した(大寧寺の変)。その後、毛利氏の庇護を受けて再建された。

寛永17年(1640年)、火災により本堂・山門などが焼失。延宝5年(1677年)に益田元尭により山門が再建され、文政12年(1829年)に衆寮[4]を建替・増改築によって本堂も再建された。しかし、明治維新を経て、藩の保護がなくなると維持管理が行き届かなくなり、また廃仏毀釈により明治末期に山門は倒壊、諸堂なども破壊された。
]


・雨乞台遺跡 縄文時代前期・後期    ※長門における、人間活動の痕跡の最古のもの

⇒日置と油谷にまたがる雨乞山(347M)の中腹
 縄文式土器がみつかる 撚糸文(よりいともん)土器などの破片
 石器も。県内や九州、中国地方の原石が見つかっており、交易の広さ
 


・糘塚(すくもづか)横穴墓群 古墳時代後期~飛鳥・白鳳時代初期

⇒現在の大津高校の隣接地域
 副葬品が多数。儀式的なものなので、かなりの権力者だったと思われる
 大正10年に開作工事に伴い壊された

 ※前後して、長門深川廃寺が建立


・兎渡谷(とどろく)の神楽舞

⇒三隅には、「滝坂」と「兎渡谷」の二地区に神楽舞がある。
 神楽は出雲で発祥、全国へ広まった
 神楽舞は、五穀豊穣と牛馬の疫病封じを願い神々に奉納するもの

 なお、兎渡谷の神楽舞は、五穀豊穣と牛馬の安全祈願に加え、山岳信仰と佛教(天台宗)が習合し権現社となりその修験者が豊穣、水利、海上守護を祈ったもの
 毎年10月13日夜に、とどろく公会堂で行われる
 20数種類あり、順に踊ると朝になる
 かつては焚火の明かりの中で神仏に祈りささげてきたもの


・重要文化建造物の 早川家住宅 

⇒漁家として貴重
 所有者の、早川義勝氏は、くじら資料館館長で、通鯨組網頭18代目当主


・引揚港仙崎


・国指定史蹟青海島鯨墓

⇒古い時代の捕鯨:紀州捕鯨、土佐捕鯨、西海捕鯨、長州捕鯨
 通浦では、1673年くらいから、網取り法による鯨組がスタート 明治末期まで長州捕鯨の中心

 この鯨組創業時、向岸寺五世の讃誉上人 ←何て読むの?さんよしょうにんであってる???
 1679年に隠居所の清月庵に観音堂を建立し、捕獲した鯨の回向を行った
 1692年には、鯨組網頭連中によって、捕獲した鯨の胎児を埋葬した鯨墓が建立された
 通浦の場合、家のすぐ近くで捕獲した関係もあってか、浦人たちのクジラへの哀れみの情は特に強かったと思われる


<追記>

8月17日は、朝6時過ぎに起きて
7時過ぎに、JOYFUL到着



朝ごはん チキン南蛮定食 711円。 
がっつり食べて、さあ続き!





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