先週の日曜に近所のクリニックで、カミさん共々特定健診を(私は風疹の抗体検査と胃癌リスクの検査も)受けてきた。
で、今朝はその結果を聞いてきた(胃癌のリスク検査はまだ結果が届いていなかった。検査が混んでいるらしい。検査機関の皆様ご苦労様です)。
まあ二人とも特に問題無しである。
ただ、カミさんが年齢なりに代謝が落ちた影響が数字に出たかな、といったところか。
その結果を受けたカミさん曰く「漢方薬か、もう少し小まめに鍼を打つか」だそうだ。
そしてその言葉を聞いた私は、ちょっぴり気持ちがざわついたのであった。
何故って?「漢方薬よりも鍼よりも、運動して今少し食事内容を見直した方が手っ取り早い」と思ったからである。
いや、落ち着いて考えれば、カミさんも私も鍼灸師なのだから、「漢方薬や鍼」という反応は王道であり、私の方が少々斜め向きかもしれない。
…いやいや、私はそもそも漢方薬や鍼灸とは、産業革命以前の、心身と向き合うことを前提とした日常生活を送るような人達の不調に対してこそ、その真価を発揮すると考えているので、「まず運動」というのはそれほど斜めではない?
兎に角、何らかの課題に対する考え方が、其々の立場によって変わるのは自然なことだ。
例えば私は健康に関する問題については、「まず身体を動かすこと」を選択するタイプで、今現在も筋肉増量と脂肪減少に向けて鋭意努力中である。
だがその内容は自重トレーニングが主であり、ダンベルなどを使って鍛えている人から見れば、「何故そんな非効率的な方法にこだわるのか」と疑問に思われることだろう。
いや、私自身の中ではこの問題は解決しているのだが、残念なことに「自重トレは非効率的」と考えている人を説得できるほどのロジックは持ち合わせていない。
ん?「考え方は人其々なのは自然」なのに、何故「残念」なのかって?
それは私が「考え方は人其々」という言葉を疑っているからである。
「考え方は人其々」ということを前提に、まず歩み寄る姿勢を持とう、というのなら同意できる。
だがこの「考え方は人其々」というフレーズは、「だからあなたの意見を聞く気は無い。私のことも放っておいてくれ」という本音をカモフラージュするために使われることの方が多いように思えるのだ。
もし、大多数の本音がそうだとしたら結構な問題である。
何故なら人間の力とは、個の特性を活かした上での集団の力(個の力を揃えた、ではない)であり、それなくしては人間など自然の中では全くの無力(テクノロジーに囲まれて、独りでも生きていけるような錯覚に陥ると忘れがちなことだが)だからだ。
…少々話が大袈裟になったので、的を絞ってみる。
健康のために「運動だ」「鍼だ」「サプリだ」というのが「色々な考え方」といえばそうなのかもしれない。
だが本当に大事なことは、「なるべく健康で快適な生活を送りたい」という願いであり、この点においてはあまり個人差は無いと思う。
であれば、運動や鍼や何やらというのは、「目的地に移動するための手段」であり、それは確かに検討するべきことではあるが、どこかで「あくまでも手段」だと割り切った方が健全なのではなかろうか。
いや、割り切れないから揉め事になるのか。
では「考え方は人其々」というフレーズは、何であれその手の揉め事を抑止するための方便ということで良いのか?
…それは嫌だなあ。
まあこの辺の尖り具合が、存外私の健康の秘訣かもしれない。
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