今日も無駄足をやってしまった。新聞に1日から体育館も解除されると出ていたので、久し振りに卓球ができる喜びを胸に体育館に行くとなぜか閑散としていて不吉な予感が走った。それは当たって一般開放は15日からとのことでがっかり。まもなく昨晩約束した仲間も現れ互いに落胆しながらも元気な姿を見られてよかったと慰め合い別れた。でも、また2週間も待たされるとは。
20-6-1
いきなり真夏の暑さに季節感もめちゃくちゃ。それでなくてもコロナのせいで月の感覚が狂わされているというのに、そこに暑さも加わわりさらに複雑に。空白の5月のおかげで6月に入った実感がいまいち乏しかったはずなのに今度は6月も飛ばして7月に入ったのかと錯覚してしまいそう。気候までもが生活のリズムに悪影響を与えている。気候も含めて穏やかな日常は何処に。
20-6-2
コロナとインフルエンザの関係。いつも楽しみにして読んでいる新聞の『生きるしくみ』という欄の話。11月からインフルエンザの流行が始まり、12月から1月にかけては大流行になる危険性があったのに2月の初旬以降急激に減少したとのこと。コロナの感染拡大との関係はまだ解明されておらず、来る冬の同時拡大を心配していた。ひとつでも大変なのにふたつ重なったら。
20-6-3
出掛けるときの持ち物チェックの数がひとつ増えて7つが8つに。そう、マスクが増えたのだ。3月頃まではしてない機会も多かったのだが、4月になりスーパーでの買い物のときにはするようにしているうちに習慣化して、マスクは忘れてはならないものに加わった。アベノマスクはすでに回収ボックスに投入済みだが、手に入らないという理由はなくなったのでなおさら忘れれれない。
20-6-4
6月に入りようやくカルチャーセンターも再開して、久し振りに教室を開けた。心配だった出席率も約8割と嬉しい結果になり一安心。そこで、9月末から10月初めの教室展の開催について話し合ったところ、中止やむなしの意見が多く、こちらは残念な結論に。約4ヶ月後であってもどうなっているかわからない不安と制作時間の少なさも上げられた。コロナはここにも侵害。
20-6-5
中止にはしたけれど個展を予定していたそのときまでは頑張って制作しようと思っていたはずなのに5月末には崩れ始め、6月に入ってからはすっかり気が抜けてしまった。もともとないものを目指す難しさはあったが、日常に近づきつつある気配に気が緩み、外での仕事が再開するようになってからは元からの生活に押し流されたというわけ。また新たにリズムを作り直さなくては。
20-6-6
列車の楽しみは何と言っても車窓の風景、なのだが窓ガラスが汚れて曇っていては台無しになってしまう。洗車をしてないのか、それとも劣化した古い車両なんだろうか。どうやら後者の気がするがどっちにしても残念だ。快晴なので新緑がまぶしいはずなのに曇りの日と勘違いしそうになるくらいもやーっとしている。まるで、淡い乳白のアクリル板越しに見ている風景のよう。
20-6-7
広大な田園地帯の田んぼはひと区画が随分広くなっている。昔の子供の頃と比べるとゆうに10倍は超えている感じだ。人の手で一本一本丁寧に植えていたときとは大違いで、今は大型の田植機を使っているから狭ければ効率が悪いのだろう。テレビで見たアメリカではもっと広くなっていた。田園風景も時代と共に様変わりするものだけど風になびく苗の初々しさは変わらない。
20-6-8
制作が途切れたあとにハマってしまったのが持ち物の整理と処分。かなり以前からやってきたはずなのにやる物はまだたくさんある。スッキリして身軽になるのはいいのだが困ったことも起きる。続けていろいろ整理と処分をすると、どこにあるかだけでなく残したのか捨てたのかさえすぐに思い出せない場合もあるのだ。探し物の苦労をなくすためなのに、そこで悩むのは悲しい。
20-6-9
続く。そして、不思議なものでそれまで何年も必要とされていなかった素材だから捨てたというのに、今回その直後にあればよかったのにと思ってしまった。でも、どうしようもないので諦めて工夫をしたら無事に乗り越えられた。結果的に最初に思いついた案よりいいものが得られた。いつか必要になるのではと考えるから捨てられないわけで、なければないなりに工夫をすればいい。
20-6-10