真っ黒で重たくて、ドロドロした暗闇が身体に纏わりつき...思考を止める。自分の心拍さえも感じない...暗闇に引きずり込まれる感覚..
頭の中は「消えて無くなりたい、死にたい」その言葉だけがぐるぐる回る...頭は締め付けられる
何の感情もないのに涙だけが止めどなく流れる...
夜が来るのが怖くて、眠れず...たまに眠ると悪夢で目がさめる。
そして髪の毛をむしる...腕を噛む...叫びたい
枕に顔を埋め、「助けて」と、声にならない声で叫び泣き続けた。
部屋の隅っこに居ても黒い闇のヘドロみたいな「それ」は足元から襲ってきて、捕まえに来る。
私の居場所はどこにもなかった。
意識は朦朧とし人の話が理解できず、自分も言葉を発する事が出来ず...ひたすら泣いていた。頭の中にあるのは「消えて無くなりたい」という事だけ。
気がつくと私は精神科の閉鎖病棟のベットの上で点滴に繋がれていた。鈴虫の声だけが聞こえていたのを今も覚えている。
私は、今から12年前の夏頃、突然こんな状態に陥った。重度の鬱病と診断され入院したのだ。
事故を起こしたり、仕事でミスが続くようになり、常に思考が混乱し、家庭ではトラブルが続き、仕事中強烈な睡魔に襲われ、気がつくとパソコンに顔をぶつける...
会議中に無意識に眠る等の前兆はあったが、病気だとは思いもせず病院へも行かず「責任者としての責任を果たす」事だけを考え早朝から眠れぬまま出勤し続けた。
そんなある日、「最近おかしいよ...」「暫く休んだら?」と周りから声を掛けられたが、こんな自分は会社にいる資格も責任者としての資格もないと、結果退職という選択を選んだ。
結果的に、病状は退職後、更に悪化した。
まさに抜け殻のようだった。当時の記憶は未だに曖昧なままだが、黒いドロドロな「あれ」の記憶だけは鮮明に残っている。
のっけから重た~い話になりましたが、この経験が私を生まれ変わらせてくれたと今となっては感謝している。
結局、退職から10カ月経った頃
社長のご厚意で会社に復職する事になったが、
暫くは通院を余儀なくされたが何とか仕事ができる状態にまで回復していった。
私は、もう二度とあんな地獄を味わいたくない...
うつ病なんて怠け者がなる病気だと思っていた私が、何故心があんな風に壊れるのか?人格が崩壊するのか?その理由や仕組みを知りたいと思った事が生まれ変わる、生き直すきっかけになったのだ。
そんな自分の経験から、会社では、秘書業務の傍ら、新卒のメンタル面のフォローに当たっており毎日何かしらトラブルが続いていた。
そんなある日、就職して一年が経った自分の娘が、たて続けに事故を起こしたり、眠れないと訴えていたが、仕事でいっぱいいっぱいだった私は、そんな娘のケアすらできず、娘が何度も会社で倒れていた事を会社からの連絡で知る事になった。
「まさか...」最悪な事が頭を過ぎった。
娘の診断結果は、パニック障害だった。
休職を勧められ3ヶ月休職する事になった娘は、休職してなお一層病状は悪化していった。
毎日毎日「仕事ができない自分はダメな人間だ」と自分を責め続け、そのうちリストカットを繰り返すようになった。
夜になると過呼吸と自殺未遂を繰り返し、白目を剥く発作を起こし、何度も病院へ搬送する。何かに取り憑かれたかのように別人格の娘がそこにいた。お祓いにも行った。
目を離すと手当たり次第に薬を全部飲む。結果的に娘も一度目の入院をしたが、病室で自傷行為を繰り返し2日で自宅に戻され、更に病状は悪化の一途だった。
「このままではまずい...私も引っ張られてしまう」仕事しながらの壮絶な日々が続き、私の精神状態も限界に近づいていた。
そして、娘の病気を認めたくない主人は娘に手を上げたこともあったり...家庭の中も荒んでいった。
ダメだ...私がしっかりしなければ皆んなダメになってしまう。そう思い、仕事、家庭のこと、娘の世話の傍ら心理学の講座に通い学ぶ事を続け、カウンセラーの資格を取った。心が壊れる..その理由がわかってきた。
娘は、一旦復帰するも再発し、薬だけが増える一方だった。セカンドオピニオンで病院を転々と変わるが、一向に改善の兆しがない。
すがるような思いで、これまでの経緯を全て大学病院の精神科のある教授宛にメールし、1ヶ月間大学病院へ入院する事になった。
丁度、大学病院の精神科では、あるプロジェクトのようなチームがあり「こころの診療科」というその病棟に入院する事になった。
しかし、病院に向かう車の中で娘からこう罵られた「どうせ、私が邪魔なんでしょ。だから入院させるんでしょ.,」と。涙をこらえ病院へ連れて行くと教授自ら玄関まで迎えに来てくださった。
病棟で娘は、自分より重度の患者と接する中で、客観的に少し自分を見られるようになっていった。
そして娘の正式な診断結果は、境界性人格障害、大うつ病、パニック障害と3つの病名である事を知らされた。
それから暫くは、私も含めた三者で大学病院でカウンセリングに通った。
そして、運が良い事に、娘は主治医から特別なDBTという治療を受ける事になった。治療というより、訓練や学習のようだった。初めは苦しくて泣いていたが、娘も治りたい一心で病院へ通い続け、徐々に薬も減り、仕事にも復職し、3年経った頃には、薬も通院もなくなっていた。
娘もある意味、自分で自分がコントロールできない苦しい壮絶な時間を経験した事になる。
娘の主治医からは、完治の見込みが低い、あったとしても長い戦いになりますよ...
それだけは覚悟してくださいと言われていたが、娘は、自ら学んだり努力することで、この壁を乗り越え、新しい仕事にもチャレンジしたり...明らかに強く、そして優しくなっていき、去年母親になった。
そんな娘を、私は心から誇らしく思う。
そもそも、私の波乱の人生の中、生まれてきてくれた娘、その娘も共に紆余曲折の人生を私と生き、戦ってきた。私たちは親子であり、姉妹であり、親友であり、戦友であり、同志だと思っている。
今となっては、そんな過去も2人で笑い話として語れるようにった。そしていろんな事に感謝できる人間になれた。何より生まれ変わり、生き直してると私たちは思っている。
諦めなければ必ず本来の自分を取り戻し、暗闇を抜け、そして強くなれる。
更には人生を楽しめるようになる。生きることが楽になる。
だから、私たちは、この経験に心から感謝している。だから隠さないし恥ずかしいと思わない。
そして、いつかこの事を、同じ病気で苦しんでいる人のために、もっと詳しく書いてみたいと思っている。