おまえは「セッキョク馬鹿」か?
森山さんのアパートに上がりこむと、「しかし、家まで来る奴は、初めてだな」と森山さんは言い、「どこで住所調べたの?」と聞いた。僕は「あの、このあいだ…写真時代に引っ越しのエッセイが書いてあって…」と言うと、横に居た写真時代の編集者が、またケタケタと笑った。その人はよく笑う人で、その笑い声は僕の緊張をやわらげてくれた。もし森山大道と二人きりだったら、僕は失語症に陥っていたはずだ。森山さんは雨戸を開けて、「かなり積もりそうだね」と言った。 (つづく)
こんなことがあった。杏美画廊でリトグラフの空き箱をもらった。巨匠となるとリトグラフも立派な箱入りだ。空き箱でも絵を描くにはキャンバスより素材的に良い。家に帰って箱開けると、なんと脇田和のリトグラフが1枚残っている。またまた、俺、ばか正直に杏美画廊に返してきた。んー。何が言いたいのか…つまり、正直者は損をするちゅう事や。
杏美画廊でアルバイトしていた20歳の頃、信藤正雄さんと野見山さん宅に掃除に行った。倉庫に汚い紙が丸められていたが、野見山さんは「もうその紙は使えない、捨ててくれ」と言った。信藤さんは「奥村~っ、紙やるぞ。絵描けや」なんて言う。僕は新聞紙に絵を描くほどビンボーだったから紙はありがたい、と、家に帰って、ヒモをほどいた。ゲゲ~野見山さんの絵が描いてある。パリ時代の木炭画や!俺はばか正直に翌日野見山さんに木炭画返した。今の俺なら黙って、どこかに売ってしまうだろうけど…もったいない事したな~っ
さすがに第1日目は諦めて帰った。3日後の夜、凄い雪の日。明大前のさつき荘。台所に灯りがついている。ドアをノックする。すぐ開いて、森山大道さんが顔を出す。「森山さんですか?」その後に何を言ったらいいかわからず、「写真を教えて下さい」と、続けた。森山さんは困った顔し「僕は写真を教える事はしないけど…」「まぁ、寒いから入りなよ」と僕を部屋に入れた。中には写真時代の編集者がいて、ケタケタと笑っていた。 (つづく)
僕の両親は荒川区の三ノ輪の近くに住んでいた。アラーキーが「さっちん」を撮っていた、ちょうど、その頃に、僕は西日暮里の病院で、オギャーと産声を上げたのです。
僕は22歳の時、森山大道ストーカー第1号になった。1987年1月、冬のこと、明大前にアパートを見つけた。夜、ドアをノックするが、出て来ない。窓をみたら、スタンドランプが点いた。またノック。出て来ない。スイッチがストーカーモードに入り、5分おきにノックし続ける。諦めて電柱の脇で張り込んでいたら、だいぶ時間がたちアパートから、凄い美人が出てきた。んー 「そういう事か!どうりで出て来ない訳じゃ、まったく逗子の自宅に妻子残して、こんなボロいアパートで、いい暮らししていやがる。」と半分は羨ましく思ったよ!(つづく)