前述したように「大東そば」は「いちごいちえ」に引き継がれ、店舗はそのままで経営は続けられていた。しかし、経営形態は大きく変わり、昼間は定食を提供しているが、夜間は居酒屋となって酒がメインとなった。夜のメニューにはフライやチャンプルー、丼物もあるが料理の種類が少なくなり、酒のツマミが主流である。すると、今まで夕食を富士食堂の「大東そば」店に頼っていた人達はたちまち夕食難民となった。
夕食難民は、生存のために夕食を入手できる方法を考える必要が出た。「大東そば」の代わりとなる飲食店を見つけるのが一番なのだが、他の飲食店は皆居酒屋であり、酒のついでに食事を提供しているような業態である。酒を注文せずに食事だけを頼むのであれば店に入り難い。すると、手軽に夕食を楽しむとなれば「弁当」となる。すでに、在所集落では、スーパーミナミ、ケンチャンストア、仲程商店、Aコープで弁当(サンドイッチ、惣菜などもある)を販売している。弁当は、食堂が休業している時や閉店した夜更けなどに小腹を満たしたい人達にとって便利である。これらの商店で販売している弁当は、自店舗内で調理したものではなく、近所の誰かが製造したものである。弁当がどこで製造しているかは確認できなかったが、調理経験者が自宅で製造しているのではないかと推測された(自宅の調理場は保健所の許可を受けているはず)。
夕食難民はこの弁当で救われることになったが、各商店に並べられている弁当の種類や数量は限られている。お昼の時刻に少し遅れて商店に到着すると、弁当が売れ切れになることもある。このような事情を「商機」と判断したのか、弁当の専門店が開業していた。島の歓楽街の中程にある「百ちゃん」である。店舗の床は左右に細長く、奥行きが狭いもので、土間には細長いカウンターが設置されていた。一目見て、以前はカウンターバーかスナックであったことが理解できる。バーかスナックであった店舗を改造もせず、居抜きで借り上げたようである。これは島特有の「有るものをそのまま使う」という事情からである。島は沖縄本島から遠く離れているので、建築資材を注文して搬送すると運賃が高額になる。このため、家屋、造作などはなるべく手を加えず、そのまま利用することが島の習慣となっている。この弁当屋「百ちゃん」も同じ精神で、設備、造作にはほとんど手を入れずにそのまま転用していた。カウンターには多数の弁当、惣菜が並べられ、ここが飲み屋ではなく、弁当屋であると意思表示をしていた。
狭い店内では2人の高年女性が忙しく働いていた。ただ、この店内で全てを調理するのではなさそうであった。全ての料理を店内で調理していたなら、これだけ大量の弁当を製造することができない。ご飯は業務用の巨大なガス釜で炊くのだが、おかずは外部から調達しているようであった。即ち、揚げ物、煮物、サラダなどは近所にある協力者から仕入れ、店内では盛りつけをするだけのようであった。島では、手の空いている人が忙しい人を補助し、それぞれが儲けるという助け合いが常識なのである。