一日一歩

名古屋の下町育ちで、春日井市民歴42年。人間らしく生きることの大切さを、人生の中で学びました。

益川敏英先生の訃報・・西区の菓子問屋の想い出

2021-07-30 11:13:38 | 日記

ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英先生の訃報がオリンピック映像の字幕に映し出されました。

量子物理学の頂点にまで立たれた先生ですが、その生涯を通して反核、平和の問題に歯に衣着せぬ語りで活動されてきました。

戦後、広島・長崎原爆投下の反省に基づき発表されたラッセル・アインシュタイン宣言(1955)は、湯川秀樹氏をはじめ多くの科学者、哲学者が参加したパグウォッシュ会議の礎となりました。

2009年に名大の講堂で、益川先生を招いての講演があり聴きに行ったことがあります。                                 

お話によれば、益川先生は若い頃は、坂田先生の門下でパグウォッシュ会議の使い走りのようなことをされていたようです。その後、結成当時の学者が他界する中で、会議を支える第二世代とも云うべき時代のリーダーの一人となります。ノーベル賞受賞によりその活動の輪はさらに広がりを見せていたところでした。

昨年は学術会議の任命をめぐって、政府が介入する事態となり、益川先生も「戦争の反省の上に作られた学術会議に汚点を残す」と菅首相を厳しく批判されていました。

昨日の突然の訃報に、残念な思いもありますが、先生の意志が若い人々に受け継がれていくことを願いながら、ご冥福をお祈りしたいと思います。

 

西区の菓子問屋

 

実は私の父と、益川先生の父親とは商売上のお付き合いがありました。

その事を知ったのは、受賞されていろいろなインタビュー記事を読んでいたときです。

「西区の菓子問屋」という私の生まれ育ったエリアで、先生の父親が戦後、製菓業あいての砂糖の卸問屋を営んでいたという話を目にしたときでした。

父親が益川さんから、砂糖買っていたことを思い出しました。

私の父は、昭和30年代前半に、新道菓子問屋街の一角で菓子の製造を始めました。私はまだ小学校低学年で、小さな工場に砂糖袋や小麦粉袋、飴缶、醤油樽などを運び入れる兄ちゃんたちにかわいがってもらった記憶がありますが、その中に益川先生がいたかどうかは思い出せません。

当時は軽トラックのミゼットが国内ではじめて発売される直前で、配達は自転車とリヤカーの時代でした。明道町(当時は明道橋)から浅間町、更には浄心に抜ける通称江川線は舗装されていなくて、車が通れば砂埃が立つ時代でした。益川青年も自転車とリヤカーに重い砂糖袋を乗せて砂埃にまみれながら配達をされていたのでしょう。

夕方、銭湯で汗を流したあと、空の麻袋を売ったお金で買い求めた古本を、屋根裏部屋に持ち込んで読みふけっていた益川青年。

読書好き、父親との「なぜ月食は毎月起こらないか」という科学的な問答の影響もあり、物理学に目覚めていくのでした。

高校生で量子力学に興味を持ち、名大を志願するのですが、「砂糖問屋のせがれに学問は無用」と、父親は家業を継がせようしたのです。

息子の懇願に折れ、不合格ならば砂糖問屋という条件のもと、一回だけの名大受験というチャンスを与えられます。必死に勉強し見事念願の名大に合格したのでした。

 

益川先生の父親の店は、今はありません。新道の菓子問屋は昭和30年代ほどの生業はありませんが、私が生まれ育った菓子問屋街が、若き益川青年が物理学に目覚めて勉強した街だということを、私は誇りに思う次第です。

私の勝手な思いですが、名大の講演やテレビでのお姿を通して、先生の学者肌ではない親しみやすさの元は、西区の菓子問屋街で生業をする人々の市井の人情から来ているものだと感じています。

 

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参照

「僕は小商人のせがれ」 市井の目線貫いた益川敏英さん

 

 

 



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