さて、再び古代へと意識を飛ばしていこうと思います。しつこく繰り返しますが、これは歴史学研究にも考古学研究にも明るくない私の、個人趣味による歴史推測であって、あくまで「私はそう思う」であって「絶対そう!それ以外ない!」ではないことを、よくよくご理解くださいますようお願い致します。
また、初見の方はお手数ですが、宜しければ、「神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。1」をご一読くださると、ありがたいです。
では、お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
ちなみに、今回も、ほぼ全部、私の推察、推量、推定による、妄想に近いです(笑)。
<邪馬台国王の行方>
狗奴国との負け戦の責任を擦り付けられた邪馬台国王が、財産を没収され、身分を剥奪され、追放処分になったんじゃないかという話を、前回しました。
実際、倭国の誰かが追放処分になったなんて記録は、『魏書』などの文献にはないので、全部私の仮説ですけどね(笑)。
でも、スサノオが高天原から追放された神話や、ちょっと意味合いが違うかもしれませんが、軽王と軽大郎女の伝承のことなんかを考えると、古代日本では、高貴な身分の人間が、何かしらしでかして、その団体から追放されるということは、結構頻繁にあったことなんじゃないかなぁと思うので、とりあえず、その方面で仮説を続けさせてくださいませ(笑)。
倭国を追放された彼は、その後、どうなったか。
それを考えるには、彼がどこに追放されたかを、まず考えねばなりません。
現代の私達は、追放や流刑と聞くとすぐ「島流し」を想像してしまいます。
島流しは、律令制の時代、死刑の次に重い刑罰でした。しかし、卑弥呼が没した直後の、西暦248年頃の日本は、当然ですが、まだ律令国家じゃありません。日本が律令制を取り入れていたのは、七世紀から十世紀にかけてのことです。
ただ、子供の頃、祖父から聞いた話では、大昔から、不吉なもの(本来なら尊いものだけど、壊れたり欠けたりして、祟り神になる恐れがあるもの。代表的な例が「割れた鏡」)を島へ流して、災いを自分達から遠ざける風習(民間信仰?)があったらしいです。その「大昔」がいつくらいの「大昔」を指すのか分かりませんが、島流しに似ているなと思います。もしかしたら、その風習が日本における「島流し」の原型なのかなぁとも思いますが、私は、邪馬台国王の場合は、追放であって、島流しではなかっただろうと考えています。
当時の倭国がまだ、海外貿易が盛んだったことを考えると、離島とは言え、大陸と本国(倭国)を繋ぐ海の上に、罪人を野放しにするかなぁと、疑問に思うからです。だって、大陸や朝鮮の船が通りかかって、それに助けられちゃうことだって可能性としてはないとは言えないでしょう? 万が一、大陸の人と懇ろになって、大陸仕込の軍隊でも引き連れて復讐しに帰ってこられたら、たまったもんじゃないですよ。
だから、この時代の、少なくとも倭国の場合の追放は、もっと原始的(?)な追放だと思うんです。自分達の支配区域から放逐して、二度とこの地に足を踏み入れることまかりならん、みたいな。追放処分にあった者は、身包みはがされた状態で、方角が分からないように目隠しとかされて、支配区域から遠く離れた場所に連れて行かれて、ぽいって捨てられる。無論、追放後、強い地方豪族とかと結びつかれたら厄介だから、その付近にあまり人が住んでいないと分かっている未開の地を選んで、そこに置き去りにされたんじゃないかなぁと、私は考えます。
この当時の倭国は、『魏志倭人伝』によると、三十国余りの国々を従えていることになっています。
一つ一つの国の規模がはっきり分かっているわけではないので、完全に推測でしかないのですが、恐らく大体、今の福岡県、佐賀県、長崎県、大分県、宮崎県の北半分くらいまでは、ほぼ支配区域にあったんじゃないかと思っています。(勿論、この区域の中でもまだ、俗に言う『まつろわぬ民』が住んでいる場所もあったと思いますが)。
その支配区域から邪馬台国王を追放するとなると、熊本方面は、狗奴国があるので、危険です。山口方面も、だめです。何故なら、その方角の先に強大な出雲王国があることを、当時の倭国の人々は知っていると思うからです。
日本各地の遺跡から見つかる糸魚川産のヒスイや、各地に散らばった鏡(三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など)の存在を考えると、古代の倭人は、今私達が思っているほど、お互いの存在を知らなかったわけではないと思うんです。
以前は、糸魚川産のヒスイは、一度朝鮮半島に持ち込まれて、そこで加工されて、それから日本や中国などに運ばれたと考えられてきましたが、新潟県の長者ケ原遺跡から出土した大珠や玉の作りかけの翡翠、翡翠を加工するためのやすりとなる岩石のおかげで、今では、日本で加工したものを朝鮮半島などで取引していたことが判明しています。私はこれは結構、凄いことだと思うのですが、それについて話すと脱線するので(笑)、ちょっと横に置いといて。
とにかく、この時代の糸魚川産ヒスイ商人が、朝鮮半島との交易ルートを持っていたことは確かになっています。それならば、その途中の日本海沿岸の国々、出雲王国や倭国に立ち寄っていたと思ってもおかしくないでしょう。というか、寄らないほうが、おかしいです。当時の船の大きさや速度(何十人かによる手漕ぎ)を念頭において、朝鮮半島までの距離を考えると、途中で最低でも一度は必ず、水や食料を補給しないと持たないと思います。
当然、水や食料の補給と共に、交易が行われたでしょう。当時の倭人が今のように、統一言語を喋っているとは思いませんが、出雲国にも朝鮮系の渡来人が沢山いたでしょうし(それに、この頃には出雲国だって、書物に名前が残っていないけど、朝鮮半島と交易していた可能性はあると思う)、ヒスイ商人は朝鮮で交易をしているのだから、当然、向こうの言葉を喋れるわけで、言葉の問題はなかったはずです。そうなると、中国や朝鮮半島だけでなく、日本国内でも、国と国が交易していたということになり、今のように「みんな同じ日本列島に住む日本人」という意識はなくとも、自分達の土地の西や東にも、国があるという認識はあったんじゃないかと思うんです。海に面した土地の倭人だけでなく、内陸部の倭人にしても、江戸時代とかのように厳しい関があるわけでもなし、結構自由に人は行き来が出来て、広い範囲で流通があったんじゃないかと、各地に分布された鏡のことなどを考えると、そう思えるんです。
それに、私が思うに、倭国は二世紀頃から、鉄や勾玉(珠?)などの貴重物資を目当てに日本海経由で、出雲王国と交易していた可能性があります。
というわけで、残る地域は、宮崎県の南半分から鹿児島方面、つまり、南九州ということになります。
南九州は、条件さえ違えば、北部九州より先に大陸文化を発展させていてもおかしくない場所だったと思います。周の時代に越裳の人たちと一緒に、ウコンを朝貢していた倭人は、鹿児島方面か沖縄方面の倭人だったのではないかと、長年疑って(?)もいます。
しかし、鹿児島県の上野原遺跡の何十層もの火山灰堆積層が物語っているように、古代の南九州の人達はひたすら火山との戦いの中で歴史を刻んでいます。特に、約7300年前(縄文時代早期)の鬼界カルデラの噴火なんて、朝鮮半島南部や関東地方にまで火山灰飛ばしまくった、今のところ完新世(←地質時代区分の中で最も新しいもの。現代を含む)最大と言われている大爆発だったらしいですから、その時南九州に暮らしていた人達の多くが命を落とし、南九州に誕生していた縄文文化は壊滅的な大打撃を受けたのではないかと思われます。
そんな厳しい土地柄ですし、同じ時期の北部九州や出雲地方、吉備地方、近畿地方と比べ、人口が少なく、規模の大きな邑や国は出現していなかったものと推量できます。実際、南九州では今のところ、弥生時代のものとされる集落跡の発掘例は、酷く少ないです。
邪馬台国王は、そこに追放されたんじゃなかろうかと、私は考えているわけです。
彼はその後、どうなったでしょうか。食べるものがなくて、野たれ死んだでしょうか。その可能性もあります。
ですが、北部九州よりは遥かに人口が少なかったでしょうが、宮崎県南部にしろ、鹿児島県にしろ、当時全くの無人だったわけではありません。もしかしたら、行き倒れているところを、どこかの邑の人に助けられていたかもしれません。
随分前ネットで、ある日本人男性が、中国の田舎のほうの部族の村へ行った時の体験が紹介されている記事を読みました。その男性によると、そこの人達の暮らしは、弥生時代の日本人の暮らしを思い描かせるものがあるとのことでした。確かに、集落の外観は、吉野ヶ里遺跡を髣髴とさせるものがありました(というか、驚くほどそっくりでした)。そして、そこの酋長は男性が独身だと聞くと、嫁を世話してやるから村にとどまらないかと言ってきたそうです。部族の女を連れて村の外に行かれるのは困るけれど(子供が減るから)、外から男が入ってきてそこで暮らす分には、働き手も増えるし、外の血も入るし、大歓迎なんだそうです。
私が考えるに、小さな集落で暮らしていた縄文時代や弥生時代の倭人も、そういった考え方だったのではないかと思うのです。(その日本人男性は、丁寧にお断りさせていただいた、とのことでしたw)
だから、もし、邪馬台国王が、南九州のどこかの邑の人に運よく助けられていた場合、彼はそこに留まり、そこで新たに妻を貰って暮らしていた可能性が高いと推測します。
さて、古代、宮崎県の南部から鹿児島県にかけての地方が、何て呼ばれていたか、ご存知ですか。
「襲の国」です。
古代では、人吉・球磨地方を「熊の県」といい、宮崎県の南部から鹿児島県にかけての地方を「襲の国」と呼んでいて、これらの国を合わせて「熊襲」と言っていたといわれているそうです。しかし、『日本書紀』の景行天皇の熊襲征伐の場合は、もっぱら「襲の国」の討伐が中心となっていて、「熊の県」の勢力は抵抗勢力にはなっていません。つまり、「襲の国」だけを「熊襲」と呼んでいた可能性があるわけです。
また、宮崎県では、弥生時代の集落跡が少ない代わり、古墳群が沢山見つかっています。最も有名な西都原古墳群には、九州最大の前方後円墳もあります。このような古墳群は、宮崎平野を中心として、かなり広範囲に広がっています。しかし不思議なことに、宮崎県南部には、都城盆地、小林盆地、えびの盆地などかなり広い盆地があるにも関わらず、古墳群の数は比較的少なく、規模もさほど大きくないものしかありません。大きな古墳群は、大淀川から更に北にある一ツ瀬川の流域に密集していて、古墳群の中では、大淀川と一ツ瀬川の間(一ツ瀬川寄り)に位置する西都原古墳群が古く、一ツ瀬川を越えた北部の古墳群のほうが、時代的には新しいといわれています。これらの資料を読むたびに、大淀川を挟んで、宮崎県の南部と北部では違う文化圏が派生していたという印象を受けざるをえません。
何を言いたいかといいますと、邪馬台国王の追放の件はともかく、記紀などで大和政権に逆らったとされる「熊襲」の国は、宮崎県南部から鹿児島県あたりにあったのではないかということです。
そして、これは根拠らしい根拠のない私個人の妄想に近い考えですが、倭国を追放された邪馬台国王が、その「熊襲」の祖的な存在なのではないかと、勝手に推定しているわけであります(笑)。
<参考資料> 糸魚川産のヒスイの流通予想ルート

ちょっと、次が長くなりそうなので、今回はここで区切ります。って、これももう充分長いですけどね(笑)。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次回は、悲劇の女王・台与と、倭国の変化、そして二人の天才について、あくまで自分なりに(笑)、考えていきたいと思います。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
○●○ちょっと一息、歴史雑学豆知識○●○
<橋牟礼川遺跡~日本のポンペイ>
橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)は、鹿児島県指宿市十二町にある縄文時代~平安時代の重層遺跡。それまではっきりしていなかった縄文時代と弥生時代の時代関係を初めて学術的に証明した遺跡として有名である。戦前は指宿遺跡として知られていた。国の史跡。1918年(大正7年)、近所の中学生が、縄文土器と弥生土器を拾ったことがきっかけとなり、発見された。
(以上、ウィキペディアより)
橋牟礼川遺跡は、火山の被害を受けた遺跡で、イタリアのポンペイと比べ、先史時代のポンペイと呼ばれている。火山の噴火で降り積もった火山灰で埋まる直前の、その日その時の集落の姿が、そっくりそのまま発見されたことから、古代の人達の暮らしを知る貴重な資料となった。また、その後の研究によって、この集落は、九世紀に編集された『日本三代実録』に記録されている、西暦847年3月25日の開聞岳の大噴火によって埋もれたものだと判明しており、古代の日付まではっきりと分かる遺跡は大変珍しいことからも、注目を浴びた。
そして更に発掘は進み、なんとその下に、古墳時代の遺跡(大集落跡)までもが、埋もれていることが分かった。古代ファンとしては、更なる何かを期待して更なる発掘を望むところなのだが、現在は、国の史跡に追加指定され、遺跡には竪穴式住居が復元され、遺跡の概要を見学できる公園となっている。
また、初見の方はお手数ですが、宜しければ、「神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。1」をご一読くださると、ありがたいです。
では、お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
ちなみに、今回も、ほぼ全部、私の推察、推量、推定による、妄想に近いです(笑)。
<邪馬台国王の行方>
狗奴国との負け戦の責任を擦り付けられた邪馬台国王が、財産を没収され、身分を剥奪され、追放処分になったんじゃないかという話を、前回しました。
実際、倭国の誰かが追放処分になったなんて記録は、『魏書』などの文献にはないので、全部私の仮説ですけどね(笑)。
でも、スサノオが高天原から追放された神話や、ちょっと意味合いが違うかもしれませんが、軽王と軽大郎女の伝承のことなんかを考えると、古代日本では、高貴な身分の人間が、何かしらしでかして、その団体から追放されるということは、結構頻繁にあったことなんじゃないかなぁと思うので、とりあえず、その方面で仮説を続けさせてくださいませ(笑)。
倭国を追放された彼は、その後、どうなったか。
それを考えるには、彼がどこに追放されたかを、まず考えねばなりません。
現代の私達は、追放や流刑と聞くとすぐ「島流し」を想像してしまいます。
島流しは、律令制の時代、死刑の次に重い刑罰でした。しかし、卑弥呼が没した直後の、西暦248年頃の日本は、当然ですが、まだ律令国家じゃありません。日本が律令制を取り入れていたのは、七世紀から十世紀にかけてのことです。
ただ、子供の頃、祖父から聞いた話では、大昔から、不吉なもの(本来なら尊いものだけど、壊れたり欠けたりして、祟り神になる恐れがあるもの。代表的な例が「割れた鏡」)を島へ流して、災いを自分達から遠ざける風習(民間信仰?)があったらしいです。その「大昔」がいつくらいの「大昔」を指すのか分かりませんが、島流しに似ているなと思います。もしかしたら、その風習が日本における「島流し」の原型なのかなぁとも思いますが、私は、邪馬台国王の場合は、追放であって、島流しではなかっただろうと考えています。
当時の倭国がまだ、海外貿易が盛んだったことを考えると、離島とは言え、大陸と本国(倭国)を繋ぐ海の上に、罪人を野放しにするかなぁと、疑問に思うからです。だって、大陸や朝鮮の船が通りかかって、それに助けられちゃうことだって可能性としてはないとは言えないでしょう? 万が一、大陸の人と懇ろになって、大陸仕込の軍隊でも引き連れて復讐しに帰ってこられたら、たまったもんじゃないですよ。
だから、この時代の、少なくとも倭国の場合の追放は、もっと原始的(?)な追放だと思うんです。自分達の支配区域から放逐して、二度とこの地に足を踏み入れることまかりならん、みたいな。追放処分にあった者は、身包みはがされた状態で、方角が分からないように目隠しとかされて、支配区域から遠く離れた場所に連れて行かれて、ぽいって捨てられる。無論、追放後、強い地方豪族とかと結びつかれたら厄介だから、その付近にあまり人が住んでいないと分かっている未開の地を選んで、そこに置き去りにされたんじゃないかなぁと、私は考えます。
この当時の倭国は、『魏志倭人伝』によると、三十国余りの国々を従えていることになっています。
一つ一つの国の規模がはっきり分かっているわけではないので、完全に推測でしかないのですが、恐らく大体、今の福岡県、佐賀県、長崎県、大分県、宮崎県の北半分くらいまでは、ほぼ支配区域にあったんじゃないかと思っています。(勿論、この区域の中でもまだ、俗に言う『まつろわぬ民』が住んでいる場所もあったと思いますが)。
その支配区域から邪馬台国王を追放するとなると、熊本方面は、狗奴国があるので、危険です。山口方面も、だめです。何故なら、その方角の先に強大な出雲王国があることを、当時の倭国の人々は知っていると思うからです。
日本各地の遺跡から見つかる糸魚川産のヒスイや、各地に散らばった鏡(三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など)の存在を考えると、古代の倭人は、今私達が思っているほど、お互いの存在を知らなかったわけではないと思うんです。
以前は、糸魚川産のヒスイは、一度朝鮮半島に持ち込まれて、そこで加工されて、それから日本や中国などに運ばれたと考えられてきましたが、新潟県の長者ケ原遺跡から出土した大珠や玉の作りかけの翡翠、翡翠を加工するためのやすりとなる岩石のおかげで、今では、日本で加工したものを朝鮮半島などで取引していたことが判明しています。私はこれは結構、凄いことだと思うのですが、それについて話すと脱線するので(笑)、ちょっと横に置いといて。
とにかく、この時代の糸魚川産ヒスイ商人が、朝鮮半島との交易ルートを持っていたことは確かになっています。それならば、その途中の日本海沿岸の国々、出雲王国や倭国に立ち寄っていたと思ってもおかしくないでしょう。というか、寄らないほうが、おかしいです。当時の船の大きさや速度(何十人かによる手漕ぎ)を念頭において、朝鮮半島までの距離を考えると、途中で最低でも一度は必ず、水や食料を補給しないと持たないと思います。
当然、水や食料の補給と共に、交易が行われたでしょう。当時の倭人が今のように、統一言語を喋っているとは思いませんが、出雲国にも朝鮮系の渡来人が沢山いたでしょうし(それに、この頃には出雲国だって、書物に名前が残っていないけど、朝鮮半島と交易していた可能性はあると思う)、ヒスイ商人は朝鮮で交易をしているのだから、当然、向こうの言葉を喋れるわけで、言葉の問題はなかったはずです。そうなると、中国や朝鮮半島だけでなく、日本国内でも、国と国が交易していたということになり、今のように「みんな同じ日本列島に住む日本人」という意識はなくとも、自分達の土地の西や東にも、国があるという認識はあったんじゃないかと思うんです。海に面した土地の倭人だけでなく、内陸部の倭人にしても、江戸時代とかのように厳しい関があるわけでもなし、結構自由に人は行き来が出来て、広い範囲で流通があったんじゃないかと、各地に分布された鏡のことなどを考えると、そう思えるんです。
それに、私が思うに、倭国は二世紀頃から、鉄や勾玉(珠?)などの貴重物資を目当てに日本海経由で、出雲王国と交易していた可能性があります。
というわけで、残る地域は、宮崎県の南半分から鹿児島方面、つまり、南九州ということになります。
南九州は、条件さえ違えば、北部九州より先に大陸文化を発展させていてもおかしくない場所だったと思います。周の時代に越裳の人たちと一緒に、ウコンを朝貢していた倭人は、鹿児島方面か沖縄方面の倭人だったのではないかと、長年疑って(?)もいます。
しかし、鹿児島県の上野原遺跡の何十層もの火山灰堆積層が物語っているように、古代の南九州の人達はひたすら火山との戦いの中で歴史を刻んでいます。特に、約7300年前(縄文時代早期)の鬼界カルデラの噴火なんて、朝鮮半島南部や関東地方にまで火山灰飛ばしまくった、今のところ完新世(←地質時代区分の中で最も新しいもの。現代を含む)最大と言われている大爆発だったらしいですから、その時南九州に暮らしていた人達の多くが命を落とし、南九州に誕生していた縄文文化は壊滅的な大打撃を受けたのではないかと思われます。
そんな厳しい土地柄ですし、同じ時期の北部九州や出雲地方、吉備地方、近畿地方と比べ、人口が少なく、規模の大きな邑や国は出現していなかったものと推量できます。実際、南九州では今のところ、弥生時代のものとされる集落跡の発掘例は、酷く少ないです。
邪馬台国王は、そこに追放されたんじゃなかろうかと、私は考えているわけです。
彼はその後、どうなったでしょうか。食べるものがなくて、野たれ死んだでしょうか。その可能性もあります。
ですが、北部九州よりは遥かに人口が少なかったでしょうが、宮崎県南部にしろ、鹿児島県にしろ、当時全くの無人だったわけではありません。もしかしたら、行き倒れているところを、どこかの邑の人に助けられていたかもしれません。
随分前ネットで、ある日本人男性が、中国の田舎のほうの部族の村へ行った時の体験が紹介されている記事を読みました。その男性によると、そこの人達の暮らしは、弥生時代の日本人の暮らしを思い描かせるものがあるとのことでした。確かに、集落の外観は、吉野ヶ里遺跡を髣髴とさせるものがありました(というか、驚くほどそっくりでした)。そして、そこの酋長は男性が独身だと聞くと、嫁を世話してやるから村にとどまらないかと言ってきたそうです。部族の女を連れて村の外に行かれるのは困るけれど(子供が減るから)、外から男が入ってきてそこで暮らす分には、働き手も増えるし、外の血も入るし、大歓迎なんだそうです。
私が考えるに、小さな集落で暮らしていた縄文時代や弥生時代の倭人も、そういった考え方だったのではないかと思うのです。(その日本人男性は、丁寧にお断りさせていただいた、とのことでしたw)
だから、もし、邪馬台国王が、南九州のどこかの邑の人に運よく助けられていた場合、彼はそこに留まり、そこで新たに妻を貰って暮らしていた可能性が高いと推測します。
さて、古代、宮崎県の南部から鹿児島県にかけての地方が、何て呼ばれていたか、ご存知ですか。
「襲の国」です。
古代では、人吉・球磨地方を「熊の県」といい、宮崎県の南部から鹿児島県にかけての地方を「襲の国」と呼んでいて、これらの国を合わせて「熊襲」と言っていたといわれているそうです。しかし、『日本書紀』の景行天皇の熊襲征伐の場合は、もっぱら「襲の国」の討伐が中心となっていて、「熊の県」の勢力は抵抗勢力にはなっていません。つまり、「襲の国」だけを「熊襲」と呼んでいた可能性があるわけです。
また、宮崎県では、弥生時代の集落跡が少ない代わり、古墳群が沢山見つかっています。最も有名な西都原古墳群には、九州最大の前方後円墳もあります。このような古墳群は、宮崎平野を中心として、かなり広範囲に広がっています。しかし不思議なことに、宮崎県南部には、都城盆地、小林盆地、えびの盆地などかなり広い盆地があるにも関わらず、古墳群の数は比較的少なく、規模もさほど大きくないものしかありません。大きな古墳群は、大淀川から更に北にある一ツ瀬川の流域に密集していて、古墳群の中では、大淀川と一ツ瀬川の間(一ツ瀬川寄り)に位置する西都原古墳群が古く、一ツ瀬川を越えた北部の古墳群のほうが、時代的には新しいといわれています。これらの資料を読むたびに、大淀川を挟んで、宮崎県の南部と北部では違う文化圏が派生していたという印象を受けざるをえません。
何を言いたいかといいますと、邪馬台国王の追放の件はともかく、記紀などで大和政権に逆らったとされる「熊襲」の国は、宮崎県南部から鹿児島県あたりにあったのではないかということです。
そして、これは根拠らしい根拠のない私個人の妄想に近い考えですが、倭国を追放された邪馬台国王が、その「熊襲」の祖的な存在なのではないかと、勝手に推定しているわけであります(笑)。
<参考資料> 糸魚川産のヒスイの流通予想ルート

ちょっと、次が長くなりそうなので、今回はここで区切ります。って、これももう充分長いですけどね(笑)。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次回は、悲劇の女王・台与と、倭国の変化、そして二人の天才について、あくまで自分なりに(笑)、考えていきたいと思います。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
○●○ちょっと一息、歴史雑学豆知識○●○
<橋牟礼川遺跡~日本のポンペイ>
橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)は、鹿児島県指宿市十二町にある縄文時代~平安時代の重層遺跡。それまではっきりしていなかった縄文時代と弥生時代の時代関係を初めて学術的に証明した遺跡として有名である。戦前は指宿遺跡として知られていた。国の史跡。1918年(大正7年)、近所の中学生が、縄文土器と弥生土器を拾ったことがきっかけとなり、発見された。
(以上、ウィキペディアより)
橋牟礼川遺跡は、火山の被害を受けた遺跡で、イタリアのポンペイと比べ、先史時代のポンペイと呼ばれている。火山の噴火で降り積もった火山灰で埋まる直前の、その日その時の集落の姿が、そっくりそのまま発見されたことから、古代の人達の暮らしを知る貴重な資料となった。また、その後の研究によって、この集落は、九世紀に編集された『日本三代実録』に記録されている、西暦847年3月25日の開聞岳の大噴火によって埋もれたものだと判明しており、古代の日付まではっきりと分かる遺跡は大変珍しいことからも、注目を浴びた。
そして更に発掘は進み、なんとその下に、古墳時代の遺跡(大集落跡)までもが、埋もれていることが分かった。古代ファンとしては、更なる何かを期待して更なる発掘を望むところなのだが、現在は、国の史跡に追加指定され、遺跡には竪穴式住居が復元され、遺跡の概要を見学できる公園となっている。