【4-1からのつづき】
<追放された弟と女王の死>
前伊都国王(ややこしいので、以後、仮に月読とします)が、引退して卑弥呼の愛人となったのを西暦240年頃と想定して、247年には、『魏志倭人伝』によると、倭国は、狗奴国との戦争の最中にあります。
その七年間の間に、前述した二人の男、月読と邪馬台国王の関係が、修復不可能なまでに悪化したのではないかと私は睨んでいます。
原因は、主に月読による特権の独占だろうと思いますが、卑弥呼と邪馬台国王の間にも男女の関係があったとするなら、そこに嫉妬なんかも絡んできます。
恐らく月読は、愛人になってから一、二年で、卑弥呼を完全に篭絡できていたのでしょう。他に身近に接する男性がいないのだから(邪馬台国王を除いて)、若くて聡明な月読に卑弥呼がのぼせあがったとしても、致し方ないかと思いますし、付き合って一年弱くらいが一番男女の愛が盛り上がる頃なんじゃないかなと思うので(笑)、大体それくらいには、卑弥呼は月読に完全にたらしこまれていたと思います。
月読は卑弥呼を傀儡として、裏で国政を牛耳ることが目的だったから、それを怠るわけもなく、恐らく三、四年経った頃には、彼はもうある意味、倭政権の裏の支配者と言っていい存在になっていたのではないかと推測します。一応引退している身ですから、表向きは国政から退いているふうを装っていたとしても、彼には伊都国王という傀儡がいます。伊都国王を通して、自分の意に適った政索案を世に打ち出すことが可能だったはずです。公の国政の場で、伊都国王に自分の政索案を発表させ、自分は裏で、男女の情を利用し、卑弥呼にそれを承認させる。月読の当初の計画通りです。
月読のこの行動は、間違いなく他の王達の反感を招いたと思いますが、彼は外交に長けていて頭が良い人物ですから、自分にとって有益な人間には、美味しい餌を気前よく振舞って、自分の下に引き込むことも忘れていなかったと思います。彼の財布となる伊都国は元々裕福ですし、月読の計らいにより以前にも増して利益を独占し富を蓄えることが出来ていたはずですから、政治資金には困らなかったはずです。
そうやって甘い汁をご馳走になって、月読の傘下に入る王もいれば、月読の聡明さや政治手腕を目の当たりにして、敵わないと悟り、自ら傘下にまわる王もいただろうと思います。また逆に、曲がったことが許せない厳格な性質の王や、月読から不必要と判断され、甘い汁にありつけない王達は、彼に対し、より一層反感を募らせていったことでしょう。
邪馬台国王がそのどちらだったかは定かではないですが、邪馬台国王にとって月読は、何とも憎憎しい存在だっただろうことは想像できます。
本来なら、邪馬台国王が月読の立場にいてもおかしくなかったはずですし、普段から女王のお膝元にいる邪馬台国王には他の王より、女王の寵愛の陰に隠れた月読の専横を、ひしひしと肌で感じていたはずです。そこに男女の間の嫉妬心があったかは分かりませんが、自分のものを取られたという怨み嫉みは、当然あったと思います。
政索案などでの対立もあったことと思われます。政索案の決議は、形式上は卑弥呼の占いの吉凶によって、最終的に決まるという形を取っていたでしょうが、卑弥呼の寵愛が続く限り、その占いの結果は必然的に月読に味方するものが多かったでしょう。また月読が打ち出す政索案は、おのずと自分側に有利なものばかりだったでしょうから、月読側に属さないグループにとっては、大層面白くなかっただろうことも理解できます。しかし、彼の考えた政索に真っ向から反対しようとしても、月読は狡猾な知恵者ですから、彼の案よりも優れた案、月読が反論できないほど優れた案を出すというのは、なかなかに難しいことだったに違いないと考えます。
やがて倭国の権力者達は、月読側と、それを快く思わない者達=邪馬台国王側に二分されるようになり、月読にとっても、度々自分の案を妨害したり、ケチをつけたりしてくる邪馬台国王は、目障りでしかない存在になっていきました。
そんな頃、ずっと敵対関係にあった狗奴国との間に、きな臭い匂いが漂い始めます。
私の考えでは、狗奴国は恐らく、今の熊本県の菊池郡あたりに本拠地を置く大国だったとされます。そして恐らく、この戦いの火種は、倭国側にあったと考えています。熊本は鉄鉱石が出る上に、海外交易の拠点としても、あの場所は魅力的です。ですが、そこを手に入れるには、どうしても狗奴国が邪魔なのです。
私はずっと、この狗奴国との戦いが始まる前に、この戦いにおける重要な、何らかの政索の失敗が原因で、邪馬台国王がその責任を問われ、財産を没収され、家族・親類を滅されるなどの刑罰を受けた後に、倭国から追放されたのではないかと考えていたのですが、先日お話したY氏から、戦争が間近に迫っているご時勢に、自国の内部情報を持つ人間を追放処分にはしないんじゃないかというご指摘を受けました。確かに言われてみれば、敵側に寝返る危険がありますもんね。
ですので、ちょっと考えを改めました。
邪馬台国王は恐らく、この戦いにおける重要な政策で、その責を問われる重大な失態を犯しているものと推察しています。その失態を犯した時期が、戦争前だったか戦争中かは分かりませんが、そのことで、邪馬台国王はもう、月読と真っ当に敵対しあえるほどの権力や人望をなくしたものと考えられます。
そして、西暦245~7年の間に、卑弥呼や伊都国王といった傀儡の裏に潜む真の支配者・月読の指示による、狗奴国の領土を狙った倭国軍の侵攻が始まったのです。
しかし、この戦いは、月読の思い通りには運びませんでした。狗奴国の強さを月読は読み違えてしまったのです。狗奴国の都まで倭国軍は達することが出来ず、国境周辺の邑を襲う形での戦いが両国間で何度か繰り返された後、倭国には敗戦の色が強くなっていきます。侵略するどころか、逆に侵略されるかもしれない窮地に倭国は立たされてしまったのです。
この窮地に、卑弥呼の月読に対する熱も、徐々に冷えてきます。敗戦の責を叱咤する気持ちもあったでしょうし、男女の仲になって七年近く立っているわけですから、愛情が冷めてきたとも考えられます。そうなってくると卑弥呼は度々、月読の案ではなく、違う人間の案を取り上げるようになっていくはずです。月読の勧めに従って、戦争をしかけてこの様なのですから、それも当然かと思います。
しかし、それは月読にとって、大変、不都合です。月読が政治を牛耳り国を動かすことが出来たのは、女王卑弥呼という傀儡があってこそ。その傀儡を失っては、彼にはもう権力を揮う術がないに等しい状況になってしまいます。それは、聡明な野心家であった彼にとって、何が何でも避けたい事態だったでしょう。
しかし、狗奴国との戦争の情勢は日に日に悪くなっていきます。『魏志倭人伝』によると、この頃(247年)、倭国は魏に助太刀を願って使者を送っていますが、魏からは援軍が送られませんでした。まあこれ(←援軍が送られなかったこと)は、その時の彼らには知りようもないことですが。ただ、この時もし、魏が倭国の望み通り、援軍を送る手配をしてくれていたとしても、中国からの援軍が駆けつける頃まで、倭国が持ちこたえられたかどうか。魏に泣きついていることから考えても、それくらい旗色が悪くなりつつあったのだろうと推測されます。
そんな状況の中、月読が、何とか卑弥呼の心を取り戻そうとしたところで、敗戦の軍師ではそれも侭なりません。女は(人によるでしょうがw)、一度愛情が冷めると、驚くほどシビアになります。卑弥呼の月読に対する態度も、以前とは天と地ほどの違いになって表れ始めていたでしょう。
さて、彼はどうしたか。
簡単ですね。
卑弥呼を亡き者にしてしまえばいいのです。
彼にとって必要だったのは、傀儡としての女王卑弥呼であり、傀儡でなくなった女王卑弥呼はもう必要ありません。卑弥呼を葬って、代わりに自分の思い通りになる駒を、その地位につければいいだけです。むしろ、男女の情を努力して引き繋いで卑弥呼を傀儡とするより、そんなものがなくても自分の思い通りに動く駒のほうが、彼にとっては扱いやすいでしょう。
考え方によっては、卑弥呼を消すには、戦争のゴタゴタで国家が混乱している今この時が最適だとも言えます。
そして、卑弥呼は殺されました。
実際に手を下したのが月読本人だったかどうかは、また別の疑問ですが、そうだと仮定して、宮殿のどの場所も顔パスである月読には、大して難しいことじゃなかったと思います。
恐らく、寝室で眠っている卑弥呼を絞殺した後に、宮殿に火を放ったものと、私は推測しています。
その火事の責は、女官に押し付けてもいいし、或いは、狗奴国の間者の仕業としても、時期的には誰も疑わないでしょう。いえ、疑う者がいたとしても、表立ってその論を口に出来るものはいなかったと思われます。卑弥呼の寵愛を失いかけつつあったにしろ、その頃の月読は既に、国の真の支配者たる、それだけの財力も権力も、充分に蓄えていたはずですから。
その後、彼は暫定的に、自分の身内である伊都国王を王座に据えたものと考えられます。そして、敗戦色が濃くなっている戦争をやめるべく、女王卑弥呼の死を理由に国内の諸侯を納得させ(←勿論、狗奴国側には卑弥呼の死を公表なんてしませんよ)、女王卑弥呼の名の下に、完全降伏まではいかなくとも、不利な条件を呑んで狗奴国との間に休戦協定を取り付け、この敗戦の原因が、先の重要な政策で失態を犯した邪馬台国王にあると、その責を彼になすりつけました。
敗戦の責を問われた邪馬台国王は、当然、反発したことでしょう。恐らく、月読側VS邪馬台国王側の二勢力間で、内乱が起きたと思います。それが『魏志倭人伝』に記された「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。」のことだと、私は考えます。
抗った邪馬台国王側ですが、結果的に月読側に負け、邪馬台国王は、財産を没収され、その妻や、親戚は奴隷(もしくは庶民)の身分に格下げされ、彼本人も身分を剥奪されましたが、邪馬台国の王家の血筋であることを考慮されて、死刑ではなく追放という措置が取られたのだと、推測します。
またこの時、月読は自分にとって邪魔なものを徹底的に排除したと考えられます。
さて、暫定的に倭国王とされた伊都国王ですが、月読は彼にずっと王座につかせるつもりは最初からなかったと思います。
長年(?)、伊都国の王として国内で権力を握ってきて、その味を知っている彼には、倭国王という巨大な権力は魅力的過ぎます。最初のうちは月読に従っても、そのうち、権力に酔いしれて、月読に従わなくなる可能性が高いです。それでは、本末転倒ですよね。ですから、傀儡として王を考える場合、権力の味を知っていて野心に溺れがちな男王ではなく、まだ歳若い、年長の男のいうことをよく聞く女王が好ましかったのです。
幸い、彼はそれに相応しい駒を持っていました。
娘の台与です。
月読は、倭国王=伊都国王を先の内乱(造語:邪馬台国王の乱)の責任を取らせる形で王の座から退けさせ、同時に、「男王ではなく女王のほうが国を上手にまとめられる」という卑弥呼が作り上げた前例を持ち出して、まだ十三歳かそこらだった台与を、倭国の新女王に据えたと、私は見ています。
また、この時に起こった一連の出来事(狗奴国との戦い、卑弥呼の死、邪馬台国王の追放、新女王・台与の就任)が、時代の経過と共に古い歴史となり、歴史から伝承になり、少しずつ、他の色んな伝承と混ざって形を変えていき、いつしか神話となって、今私達が知っている日本神話の、スサノオの狼藉から始まるアマテラスの岩隠れ(天岩戸伝説)、そしてその責によるスサノオの追放の一連のお話になったと、そう考えてもいます。
そして、父親から駒として使われた娘・台与の時代へと、流れていくわけですが。
またまた、ものすっごい長くなっていることに気づいたので(笑)、ここで一旦区切ります。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次回は、悲劇の女王・台与と、追放された邪馬台国王の行方に、スポットをあてていきたいと思います。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
○●○ちょっと一息、歴史雑学豆知識○●○
<卑弥呼が眠る場所?>
福岡県みやま市瀬高町。
瀬高町(せたかまち)は、かつて福岡県の南部、山門郡(やまとぐん)にあった町。
福岡市より南に約50km、博多駅からは鹿児島本線特急にて40分ほどの距離である。2007年1月29日に同郡の山川町および三池郡高田町との合併により消滅し、みやま市となった。
(以上、ウィキペディア「瀬高町」より)
この町の東部には、かつて女王山と呼ばれた山があり(現在は女山に改名されている)、その周辺には、それはもう沢山の遺跡や古墳群がある。
その中のひとつ、瀬高町坂田の古墳塚(塚というより、見た目は土を盛り上げたなだらかな丘に近い)は、権現塚と呼ばれ、周りに堀のある段付円墳で、規模は径45m、高さ5.7mの円墳で、周囲113.5mで、深さ1.2mの堀跡が囲んでいる。資料によると残念ながら、墳丘は大きく損傷して半ば破壊された状態となっているらしい。私自身、この目で見たことがあるが、遠目では正直、のどかな田園地帯の中にあるなだらかな丘にしか見えなかった。が、しかし近づくと、妙な迫力というか、強い存在感があったことだけは、記述するに値すると思う。ちなみに一緒に行った友達は、なんか足が重たいと言っていた。これはさすがに、雰囲気に酔いすぎなんじゃないかと思う(笑)。
それはともかく、魏志倭人伝に、「卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者百餘人」=「卑弥呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬するは百余人」と記された卑弥呼の墓は、ここだと主張する説があるのは事実である。
作られた年代も、目的も、はっきりしていないが、大化の改新の際、規模の大きい古墳を造るなどの厚葬を禁じており、それから察するに大化の改新以前のものとされている。伝説によると、神功皇后が田油津媛を討った際に多くの戦死者を出したので葬った塚とも、または、卑弥呼の塚とも言われているが、どちらも定かではないとのこと。
↑権現塚。
なんでも、昔(戦国~江戸時代くらい?)から繰り返し、田んぼを作るためなどに、塚を削って土地を作ったり、その土で堤を作ったりと、利用されまくってきたらしい。もし、これが本当にお墓だとしたら、ここに埋葬された人たちは、どんな気持ちだろうか。人の暮らしに役に立ててよかったと思ってくれているなら、それが一番ありがたいけれど…。
あなたのおっしゃる月読=伊都国王は、難升米ですか?
難升米のことは、存じております。理解出来ているいないはまた別として、多少は私も魏書などを読み齧っておりますゆえ。
しかし、私がここでお話している伊都国王(仮に月読)は、難升米ではありません。
ご説明しますと。
まず、難升米は官(魏書に大夫難升米とありますよね?)であり、王ではないと思います。王について表記がない国は、倭国の基盤が作られた時に、王が官に置き換えられたとも考えられますが、伊都国については、王の記述が、官とは別にあります。わざわざ記述してあるということは、官とは別に王がいて、官と王は別人だということではないでしょうか。
私見ですが、難升米は、伊都国の官(爾支)を務めていた人物で、彼の直属の上司は、新伊都国王(月読の跡継ぎ)だと考えます。
この返答で、ご納得いただけますでしょうか。
歴史小説とか漫画の作者がいろんな史資料読みながら、物語の想像を膨らませていく過程を見てるみたい。。
のんさんの文章を読みながら、私も卑弥呼たちのおはなしを考えてみた♪(単なるとっても得手勝手な想像で~す)
卑弥呼が女王に立つ以前の倭の国々(邑々)は、伊都国(邑)が大陸との繋がりを武器に他国(邑)のやや上の立場にあって、それとなくまとまっていたけれど、鉄の製造が国内でも活発になり大陸からの難民が流れ込んだりで、国家間(邑間)の力のバランスが崩れて大乱が起こり、それを収めるため国(邑)共立で卑弥呼を女王に。
「男弟」は巫女である卑弥呼の近親者で、邪馬台国(邑)の王(長)であるかもしれないし、単純に卑弥呼と王(長)の仲立ちだったかもしれないけど、連合国家(以下、当時の北九州の連合国家を「倭国」と表記します)成立以前から「邪馬台国(邑)の政事」のために卑弥呼の卜占の結果を聴き、邑の政事に関わる者だったのだと思う。
いずれにせよ「男弟」が「倭国」の女王としての卑弥呼の言葉を取り次ぐ役目では、倭国のなかでも邪馬台国の王が大きな力を持つことは避けられないとの考えから、伊都国王の年少の近親者が卑弥呼の取次役として新たに置かれた。(後の舎人のような護衛も兼ねていたと思う。でも、伊都国王自身がこの役につくのでは他国が黙ってはいないように思うのよ)
卑弥呼の役割はおそらく、諸国の話し合いで作られた政事の吉凶や方角を占う程度のものと考えられるから、取次役は「伊都国王の御心に添う」よう、卜占の結果(託宣)を諸国の王に伝えたのだと思う。
でも、その取次役が成長するに従って、卑弥呼と親密になり野心を持ってしまう。狗奴国に闘いを挑むも苦戦し、卑弥呼は「巫女として」の責任をとって自害してしまう。結果、取次役は倭国から放逐。臨時で伊都国王が倭国王として立ったけれど、諸国は納得せず、卑弥呼と縁続きの台与を立てた。
……と。こんなのどう?取次役は卑弥呼の近くにいた間に様々な政事のノウハウを手に入れていたはずだから、放逐先(たぶん伊都国王と繋がりのある地域の有力者の元)で、いい国を作ったかもね。
長文、ごめんなさ~い。。ところで、のんさん、卑弥呼を主人公にした歴史小説とか書かないの?
しかも卑弥呼、自殺してるから、なんか悲劇のラブロマンスっぽくて、いい~~~~vvvv よし、河村恵利先生に、漫画にしてもらいましょう!ww
白状しますと、むか~し十代の頃、卑弥呼の時代にタイムスリップした女の子のお話(ある意味、異世界召還もの)を書いたことは、あります(笑)。それは、歴史よりも神話に基づいて考えたから、卑弥呼=アマテラスで、ツキヨミ、スサノオも、腹違いではあったけれど姉弟設定でした。
あのツキヨミは、物凄い優しいお兄さんだったのに、どうしてこうなった(笑)。
ちなみに、その女の子は、スサノオにも、ツキヨミにも、狗奴国の王にも愛されるという、逆ハーご都合物語でした(大笑)。
「タイムスリップした女の子」で思い出したんだけど、篠原千絵先生の『天は赤い河のほとり』も古代オリエントのヒッタイトに女の子がタイムスリップするお話だったっけ。。「製鉄」も絡んでいて、良く出来た漫画だった記憶がある。うん、篠原先生に漫画描いてもらうのも良いなぁ←勝手な夢、膨らませ過ぎ(笑)
あれは本当によく出来たお話でしたよね~。そういえば、あの主人公の女の子も、逆ハー状態でしたね、ある意味ww
河村先生も篠原先生も、歴史のこと凄い隅々まで調べて描いてくれるから、歴史上の人物に、ついつい、愛と浪漫を求めてしまう私には、たまらないものがあります(笑)。
きっと、先生方も好きなんでしょうね、歴史が。