硝子のスプーン

そこにありました。

神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。4-1

2012-10-22 04:56:14 | 日記(雑記)
さて、本日も古代へと意識を飛ばしていこうと思います。しつこく繰り返しますが、これは歴史学研究にも考古学研究にも明るくない私の、個人趣味による歴史推測であって、あくまで「私はそう思う」であって「絶対そう!それ以外ない!」ではないことを、よくよくご理解くださいますようお願い致します。
また、初見の方はお手数ですが、宜しければ、「神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。1」をご一読くださると、ありがたいです。

では、お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
ちなみに、今回はほぼ全部、私の推察、推量、推定による、妄想に近いです(笑)。


<二人の男性>

前回、卑弥呼には二人の男性の影があるという話をしましたね。
一人は、政治を助けたとされる弟。
一人は、食事の給仕や言葉を伝えていたとされる男性。

この弟が文字通り血縁関係のある弟であったか、多少疑念が拭えませんが、まあ、近親者(きょうだい)で政治を執り行うという形は、昔の日本でよく見られますし、弟にしておきましょう。
一方、食事の給仕や言葉を告げていたとされる男性。この男性を、弟と同一視する説もありますが、私はおそらく別人で、この男性は、卑弥呼の恋人(愛人)だったのだろうと思っています。

何もかも推測で、妄想の域から脱していないのですが(笑)、卑弥呼が、本当に霊力の強い巫女で、女王として共立される前から名高い存在だったとするならば、女王となった後も、彼女は以前と同じ土地に住んでいたと可能性が高いと思われます(その頃は精霊(自然)崇拝だから、山とか岩に神気が宿っていて、それらの「気」から一種の神がかり状態になって託宣をする彼女は、その神域から離れないと思うため)。では、彼女がいたのは、どこか。
『魏志倭人伝』などの資料には、「邪馬台国に、女王の都がある」とされています。
ちなみに私は、福岡県みやま市瀬高町周辺(旧名、山門郡)の、女山(旧名、女王山)の山裾から東西北に広がる範囲が、卑弥呼の女王国=邪馬台国があった場所だと思っています。そして、伊都国が、福岡県糸島市周辺から南に縦に伸びた範囲。奴国が、福岡県春日市周辺を縦横に大きく伸びた範囲。末蘆国が佐賀県唐津市周辺。不弥国は、福岡県宗像市から飯塚市の間らへん。対馬国は、長崎県対馬。一支国は、長崎県壱岐。ついでに、台与の女王国があった場所(卑弥呼の死後、遷都されたと思う)が、福岡県朝倉市(元甘木市周辺)だと思っています。

ですが、ひとまず、真偽の検証やら反論やらは余所に捨ておいてくださいませ(笑)。ここで大事なのは、卑弥呼が邪馬台国という国の人であるということです。

そしてまた、続けて余談ですが(笑)、「邪馬台国」は、「やまたいこく」ではなく、「やまとこく」と読むべきだろうというのが、私の持論です。この説には色々、議論・反論がありますが、そもそも、「邪馬台国」の「台」という字は、当用漢字を便宜的にあてているだけで、『魏志倭人伝』には、「邪馬壹國」と書かれています。これは現在の漢字に直すと、「邪馬壱国」で、「やまいこく」という読み方になるそうです。そして、『倭人伝』の後に書かれた『後漢書』では、「邪馬臺國」です。元々、「臺」と「台」は別の漢字らしいのですが、当用漢字には「台」しかないので、便宜上これを「邪馬台国」と表記するようになったそうです。「臺」という字が当時の中国で何と発音されたのか、現代の中国語すら喋れない私には全く分かりませんが(笑)、卑弥呼の後継者と言われている「臺与」(これも「台与」ではなく「臺与」が本文通り)を「台与」と書いて、「とよ」と読んでいるのだから、「邪馬台国」の「」だって、「」と読んでもいいじゃないですか。何故、そこまで頑なに、「やまたいこく」と表記するのか、分かりません。「やまとこく」と読むと、「大和国」(昔の奈良県の名前)とごっちゃになるからですかね? まあ、そんなわけで(どんなわけだw)、宜しければここでは、邪馬台国を「やまとこく」と読んでくださると嬉しいです。意味は全くありません(笑)。話にも殆ど関係ありません(笑)。←オイww


さて、しょっぱなから話がズレまくりましたが。
卑弥呼が邪馬台国の人であったならば、彼女は女王になるより前から、邪馬台国の人から、ある意味、神のように崇められていたと思われます。前回もお話しましたが、この当時の呪術者=霊媒者=巫女の影響力は、半端ないものと考えられるので、邑人から、畏れられ崇められていたと想定しても、間違いではないと思うのです。そして、それほど凄い巫女が邑にいるのに、その地の権力者が一切、接触を持っていないなんてことは、どう考えても有り得ません。なんせ、何か行動を起こすときには、いちいち占いをして吉凶を確かめる時代の人達です。邪馬台国の権力者、つまり、王であった人も、女王になる前の卑弥呼に、占いや呪いを頼んでいたはずです。そして、女王となった後の卑弥呼と、距離的に一番近い存在にいるのも、邪馬台国の王ということになります。

つまり、このとされる人物は、邪馬台国の王だと思うのです。
血の繋がりがあったかどうか、私はちょっと疑問なのですが、卑弥呼邪馬台国の女王とするならば、邪馬台国の元々の王が、その弟に格下げされても、道理には適うかなと思います。もしかしたら、卑弥呼は元々、本当に王家の人間だったのかもしれませんが。力の強い人間を、今の言葉で言うところの養子縁組などで自分の身内に引き込むことは、地方権力者にはよく見られることですし、女王になるより前から、邪馬台国王家が卑弥呼を身内として迎えていても、不思議ではないのかもしれません。まあ、何にせよ、邪馬台国の王卑弥呼は義理でも何でも、世間的には姉と弟という立場にあったという結論に、とりあえず、落ち着かせてください(笑)。

邪馬台国の王は、一応、王家の人間ですし、それなりにある程度は政治を手助けすることも出来たと思います。また卑弥呼が邪馬台国にいる限り、そしてまた、『魏書』などで言われているように、滅多に人前にでなかったとするなら、伊都国奴国末路国不弥国、その他諸々の国と内政などを話し合う場には、彼が代わって出ていたと思います。それが、『魏書』などに記された「有男弟佐治國」の実態ではなかろうかと、私は考察しています。


一方、もう一人の男性。
卑弥呼の恋人であろうと私が考える男性、それは、伊都国王です。
この時の伊都国王が、建国(建邑?)から何代目の王だったか、はっきりとは分かりませんが、少なくとも帥升からは、四代目あたりでしょうか。私が考えるに、彼は大変頭がよく、そして、怖いくらい野心家だったんじゃないかと思います。

勿論、彼は、卑弥呼が女王に就任する以前、または就任した当初から、恋人関係にあったわけではないと思います。それに彼には、きちんとした正室や側室がいただろうから、卑弥呼は今で言うところの愛人です。そこに、愛があったかなかったかは、知りませんが。また、彼は恐らく、『魏書』などに「年長」と書かれた卑弥呼より年下です。年長って言っても、この時代のことですから、物凄い長寿の人でもせいぜい五十年くらいしか生きられないだろうと想定して、魏に使者を送った時の卑弥呼は、三十代前半くらいだったんじゃないかと思います。そして、帥升が倭国大乱の少し前に没したと考えて、その跡継ぎを一人頭三十年前後で計算すると、四代目の彼は当時、二十四歳くらいですかね? ちょっと計算が怪しいですが(←オイw)、まぁ大体それくらいの年齢の男女を想像してくださいな。

伊都国王が代々、一大率を仰せつかっていたことは前回お話しました。一大率は外国に使者を出したり、また外国の使者を迎えたりしなきゃいけないのですから、当然裕福でないと無理ですし、語学にも通じていなければなりません。伊都国が代々海外交易で栄えた王家であったことを考慮すれば、伊都国王が一大率に選ばれたのも納得できます。また、諸国を検察する役目も、倭国同盟時代に伊都国が、その富によって諸国間でトップクラスの権力を握っていたことを想定すると、不思議ではありません。
これは、伊都国にとって、大変な幸運だったと思います。実際は、運だけで掴んだ役職ではなかったかもしれませんがね(苦笑)。

しかし、私がお話している卑弥呼の愛人の伊都国王は、ずっと一大率の任についていたわけではないと推測します。
彼は恐らく、卑弥呼が魏に朝貢して、翌年帯方郡から大夫が魏の使者として来る頃には、弟か従兄弟、またはそれに匹敵する血族の誰かに、家督を譲っていると考えるからです。

卑弥呼が女王として奉りあげられた当初、つまり、倭国の基盤が作られた時期ですが、その頃は彼はまだ、名実共に伊都国の王だったと思われます。そしてその頃彼は殆ど、自国ではなく、邪馬台国にいたのではないかと、思うのです。
倭国の官制度や、統治の仕組みは、中国のそれを真似ています。当時、それらの知識を知り得たのは、中国文化と馴染みが深く、そして知識=学を身につけられるほど裕福だった、特権階級中の特権者だけだったはずです。伊都国王は、その点で、ぴったり当てはまります。私の考えでは、一大率を置くという案も、彼自身の発案だと見ています。一大率という官の名前が、古代中国の城郭の四方を守る将軍である大率に由来することや、刺史に似たその役目から考えても、これを思いつくには、中国の文化や統治制度にある程度造詣がある人でないと、無理ですもの。
もちろん、奴国王や他の国々の王との協議もあったでしょうが、一大率に伊都国王が就任していることから考えても、殆どが彼の案ではないかと考察できます。

そしてそういった国の大事(徴税や賦課などの取り決め、都作り(宮殿含む)の場所や時期の良し悪しなど)を話し合う場合、必ずそこに「占い」があったと思うので、王達(もしくはその代理の王子とか)は、卑弥呼のいる邪馬台国に集まっていたと思うのです。勿論、全員が全員で自国を留守にするわけにはいきませんから、集まっていたのは王家の中でも特権クラスにいた者達だけでしょう。
また、『魏書』によれば当時の日本には、牛も馬もいなかったわけですから、当然、余所の地に行くには歩くしかないわけです。しかも電灯があるわけじゃないから、日が暮れたらもう進めなくなるわけで、当時の国と国を繋ぐ道がどんなものだったかは定かじゃないですが、獣道とまではいかずとも、現代のように整備されているわけではなかったことは確かですから、その道程は、結構なものだっただろうと想像できます。ですから当然、現代のように、「用事が終わったらすぐ帰る」なんてことはなかったでしょう。少なくとも最低二、三ヶ月は、逗留したことと思います。
その滞在期間中に、伊都国王は何らかの形で、卑弥呼と最初の接触をもったものと考えられます。勿論、この時はまだ、愛人関係ではありません。ただし、伊都国王は、自分の野心のために卑弥呼を利用できると、この時既に感じていたかもしれません。

その後、少しの期間をあけて、彼は一大率という官職を利用し、再度、卑弥呼に接近します。恐らく、魏への最初の朝貢の直前(一、二年前くらい)でしょう。あの魏への素早い対応は、伊都国王によるものだと、私は思います。一大率であると同時に、海外交易の太いパイプを持っている伊都国の王である彼は、最新の海外情勢を、他の国の王より一早く掴める立場にいますから、魏の勢いが盛んであることも、逆に公孫氏の勢力が下火になりつつあることも、情報から推察し、把握できたと思います。その情報を携えて、卑弥呼の下へ判断を仰ぎに(=占いをしてもらいに)向かったものと思われます。無論、それだけが目的じゃなかっただろうと、私は思いますが。

一方、その当時、卑弥呼の傍にいる男性と言えば、邪馬台国の王だけです。卑弥呼はもしかしたら、彼ともそういう関係にあったかもしれませんが、この時はまだ伊都国王にとって、邪馬台国の王は多少邪魔であっても、取り除いてしまうほどの厄介な存在ではなかったと思われます。
ですので、最初のうちは、滞在中の伊都国王と、常駐の邪馬台国王の二人で、卑弥呼の補佐的な役割をはたしていたと考えられます。卑弥呼は、彼や邪馬台国王からアドバイスを受け、それを占い、吉凶を判断した後に、女王の言葉=託宣として、それをまた彼らに伝え、彼らが諸国の王に使者を出すという形で、政治がなされていたと思われます。

しかし、徐々に、伊都国王邪馬台国王より、補佐として重鎮されるようになっていきます。別に、邪馬台国王が馬鹿だったと言っているわけではなく、これはもう、環境の差としか言いようがありません。分かりやすい言葉を当てはめるなら、伊都国王洗練された都会っ子で、邪馬台国王は、野山の大将と言ったところでしょうか。まあ、この二人のことは、また後で詳しくお話します。

話を戻して。
先ほども言いましたが、この頃、卑弥呼の傍にいて、卑弥呼と直接会話を交わせる立場にあるのは、邪馬台国王だけでした。しかし、そこに数ヶ月間という短い期間とはいえ、伊都国王が入り込んできます。
伊都国王は、邪馬台国の宮殿の中だけで暮らしている卑弥呼が知りえない海外の情報を豊富に持っているわけで、また、恐らく字も読めたであろうから、ある程度の知識・教養も備えていたと考えられます。卑弥呼にとって、邪馬台国王よりも、政治の相談相手としては勿論、ただの話し相手としても、伊都国王のほうが遥かに優れていただろうことは、想像に難くありません。それに恐らく、伊都国王は、卑弥呼に対し好意をちらほらと匂わせていたでしょうから、余計、楽しかったと思います。伊都国王がハンサムだったかどうかは分かりませんが、若くて利発で、また物知りで話の面白い彼は、それだけで充分魅力的だったはずです。伊都国王の滞在中、卑弥呼が好んで、彼を傍に侍らせても、無理もないことだと思います。
そうして、伊都国王は、卑弥呼のお気に入りになったわけですが、彼が伊都国王である限り、一大率の仕事もありますし、国へ帰らなければなりません。
きっと、別れの際にも何か、心憎いことを言ったりして、卑弥呼の心を鷲づかみにしておいてから、彼は、諸々の準備をするために、一旦自国へと引き上げていったんだろうと思います。私の見解では、この時点で、男女の関係があったと推察します。

さて、自国に戻った彼は、魏への朝貢の準備と同時に、家督を次の伊都国王へと譲る準備を始めます。もしかしたら、一族には反対の者もいたかもしれませんが(奥さんとか)、彼が一族の長である限り、その決定は絶対です。
何故、まだ若い彼が、家督を譲る必要があったかというと、もう皆さんお分かりでしょうが、卑弥呼を裏で操るため以外にありません。彼女を傀儡として、国を自分の思い通りに動かすには、常に彼女の傍にいる必要があります。伊都国で一大率をしていては、それは無理です。だから彼は、家督を譲ることで表向きは引退し、伊都国から邪馬台国の卑弥呼の傍へと居を移す計画に出たのです。家督を譲ると言っても、次の伊都国王は自分の息がかかった一族の者ですから、その実態は、卑弥呼と同じ、傀儡に過ぎません。事実上、彼にとっては何の問題もないわけです。そうして、彼は着々と準備を進めていきます。この計画には何より卑弥呼が必要ですから、伊都国にいる間も、彼女へのご機嫌取りは忘れなかったでしょう。財力に物を言わせて、中国製の贅沢品(鏡とか布とか勾玉とかガラスの璧とか)を献上品として、彼女に贈っていたことが、想像できます。

そして、帯方郡の太守である弓遵が魏の使者としてやってくる西暦240年頃には、彼はもう、卑弥呼の傍で愛人として暮らしていたものと思われます。弓遵卑弥呼の通訳をしたのも、恐らく、彼でしょう。
卑弥呼は彼の頭の良さを知っていますから、私生活だけでなく、政治のこともよく相談していたものと考えていいと思います。倭国一と言っても過言ではないほど裕福な家で育ち、大陸文化に触れる機会も山とあった彼には、卑弥呼邪馬台国王にはない、学や知恵がありますから、卑弥呼の目には頼もしく映ったことと思います。そして彼も、最終的に卑弥呼を完全な傀儡とするために、最初のうちは、それと分からないように彼女が好みそうな政索を薦め、彼女のご機嫌を取ることで、ますますその寵愛を勝ち得ていったものと思われます。
また、彼に代わって新しい伊都国王となった人物も、伊都国の内政以外の仕事(外交や倭国内の王会合、また、倭国の名の下に行う交易など)については、彼の指示を仰いで動いていたと考察できます。女王卑弥呼のお気に入りの愛人である前に、彼は伊都国王家の人間ですから、伊都国があらゆるケースで有利になるよう、度々裏で画策していたことは想像に難くありません。その恩恵を受けている新伊都国王は、もし、自分の落ち度で何かしら失態があったとしても、それがよほど取り返しのつかない大失態でない限り、彼によって庇護されるのですから、彼に逆らって、わざわざ不況を買う必要はどこにもないし、むしろ、彼に従って、裏で利便を図ってもらったほうが、新伊都国王にとっては、都合が良かったのではないかと思います。

というわけで、『魏書』などに記されたもう一人の男性の正体は、彼だと思うのです。勿論、全部、仮説で妄想の域を出ませんが(笑)。でも、後々に起こったことなどを考えていくと、私にはそうじゃないかと思えるのです。
愛人であれば、卑弥呼が食事を取る時は傍に侍り、また、その私室に自由に立ち入ることが出来ることも頷けますし、また、元伊都国王であれば、彼の口から、邪馬台国王などに卑弥呼の言葉を伝えたとしても、不自然はないかと思います。彼が伝えていた卑弥呼の言葉が、実際本当に、彼女自身の考えから出た言葉だったかどうかは、怪しいですけどね。
また、仮に当時の風習でも、巫女が未通であることを重んじられる立場だとして(卑弥呼は既に女王なので、そのことで彼女を諌めることが出来るような臣下はいないと思いますが)、表向きの彼の立場は、卑弥呼の世話係、今で言うところの執事みたいな感覚で、説明されていたのではないかと推量できます。
長々と説明してしまいましたが、要約するとつまりは、「唯有男子一人」は、卑弥呼の愛人であり、その出自は伊都国の王であり、倭政権の裏の支配者だったというのが、私の解釈です。



【4-2につづく】

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