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長崎を巡るの旅、最初の訪問地として、大浦天主堂を訪れました。
カトリックの教会としては外壁等の装飾も控えめな、気品のあるスッキリした佇まいの中、教会の中へ入ると、信者ならずとも心安らぐ穏やかな雰囲気に包まれました。
建立されてから約150年を閲し、様々の歴史的な出来事に遭遇した天主堂は、この日も訪れる総ての人々を祝福するように、優しげに迎え入れていました。
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秀麗な姿が美しい、大浦天主堂。
傾斜地を上手く利用した、教会へのアプローチも素敵です。
訪れるほとんど全ての方々が、この階段状から見上げるアングルで、カメラを構えます。
自然と構えさせてしまう魅力があるのです。
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華美な装飾を施さず、ストイックな気品を感じる教会堂です。
一般的な通称の「大浦天主堂」と呼ばれるこの教会は、正式には「日本二十六聖殉教者天主堂」といい、フランス人のプチジャン神父によって、元治2年(1865年)2月にこの地に建てられました。
その正式名称のとおり、日本二十六聖人に捧げられた教会です。
二十六聖人が殉教した、現在のJR長崎駅近くにある、西坂の地の方角に向けて建てられています。
大浦天主堂は、明治24年(1891年)から昭和37年(1962年)まで、長崎司教区(昭和34年(1959年)から長崎大司教区)の司教座聖堂でした。
昭和37年(1962年)から長崎大司教区の司教座は、浦上天主堂(浦上教会)に置かれています。
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教会堂へと登る階段の途中にあった、カトリックの前教皇、ヨハネ・パウロ二世の像。
ヨハネ・パウロ二世は、昭和56年(1981年)2月に大浦天主堂を訪問なさったそうです。
台座には、御訪問時になされた、修道女への御訓話の一節がはめ込まれています。
「こゝは日本の新しい教会の信仰と殉教と宣教の原点です」
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ヨハネ・パウロ二世像の傍らに立つ、プチジャン(Petitjean)神父の像。
自ら建築を指導した教会に抱かれるように、静かに佇んでいました。
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キリスト信者発見百周年祈念碑。
元治2年(1865年)、建立間もない大浦天主堂での「信徒発見」から百年後の昭和40年(1965年)に建てられたようです。
300年間信仰を隠し通してきた、「隠れキリシタン」の信徒の方々がこの天主堂を訪ねて、プチジャン神父に信仰を告白したという知らせが伝わると、当時のヨーロッパでは大ニュースとなったそうです。
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レリーフの台座にはめ込まれた、信徒発見百周年の記念碑文。
碑文のままに記しておきます。
記念碑文
紀元一八六五年(慶応元年)二月十九日、仏人宣教師プチジャン神父(後の初代長崎司教)により、大浦天主堂が建立されたが、同年三月十七日、天主堂参観の浦上の住民等十数名が同神父に近づき「私達もあなた様と同じ心の者でございます。サンタ・マリアの御像はどこ」と言った。彼等は三百年に亘る厳しい迫害を堪え忍びひそかに守り伝えたカトリックの信仰を表明した。
日本キリスト信者のこの信仰宣言は、史上に例のない事実として全世界を驚歎させた。その感動的な場面をこの碑に再現し、信者発見百周年記念としてこれを建立するものである。
一九六五年三月十七日 信者発見百周年行事委員会
碑文ここまで。
人間は、困難な状況にある時程己の意思をしっかりと持てるものですが、300年の長きにわたって貫き通した禁制の信仰心には、(私はクリスチャンではありませんが)素直に胸を打たれる気持ちが湧きました。
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「天主堂」の漢字が、強いインパクトを放っている、教会堂の正面。
建築様式としては、ゴシック様式とのことです。
煉瓦造りで、外壁を漆喰で塗り固めてあります。
教会正面の周囲には木々が茂り、この季節(4月~5月)では、緑に抱かれた教会のイメージです。
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教会堂正面入口に立っている、「日本之聖母」の像。
この聖母像も、信徒発見記念として立てられたようですね。
教会堂内部は撮影禁止なため、画像はありませんが、落ち着いた雰囲気の、薄暗い堂内の椅子に腰掛けていると、ステンドグラスから差し込む仄かな光の影響か、気持ちも和んでくるから不思議なものです。
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ゴシック様式でありながら、これ程直近から見上げるアングルでも重苦しさを感じさせないのは、流石にフランス人の手になる建築だからでしょうか。
大浦天主堂は、日本における代表的な初期洋風建築として、昭和8年(1933年)には国宝に指定され、昭和28年(1953年)に再び指定されました。
手前で被さる木の枝は、もみじですね。
秋には綺麗に紅葉するのでしょうか…是非見てみたいものです。
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天主堂の隣に建つ、旧羅典(ラテン)神学校の建物。
現在は、キリシタン資料室となっています。
明治8年(1875年)にドロ(de Rotz)神父によって建築され、昭和47年(1972年)に国の重要文化財に指定されています。
洋館でありながら、どことなく和のテイストも感じさせるような、こちらも清楚でシックな建物です。
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こうした景色として見ると、日本ではない異国の街角、といった雰囲気ですね。
エキゾチックなムード満点で、とても絵になる、お気に入りの1枚です。
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質素な天主堂で唯一、華やかさを感じたのが、鐘楼の上に掲げられている、この十字架でした。
繊細な細やかさが好感の持てる上品な装飾となっているのは、流石に由緒ある教会だけのことはあります。
記事中何度も書いていますが、気品ある外観と柔らかな荘厳さに包まれる内部の雰囲気が大好きな、この大浦天主堂、今回の旅でも変わることのない魅力的な安らぎに抱かれていました。
センスの良い控え目さ加減が、日本人の美意識にも合致していると思います。
どちらかと言えばこぢんまりとした、控え目な教会ですが、じっくり時間を割いて訪れる価値は十二分にあったと、大いに満たされた気分で大浦天主堂を後にしました。
カトリックの教会としては外壁等の装飾も控えめな、気品のあるスッキリした佇まいの中、教会の中へ入ると、信者ならずとも心安らぐ穏やかな雰囲気に包まれました。
建立されてから約150年を閲し、様々の歴史的な出来事に遭遇した天主堂は、この日も訪れる総ての人々を祝福するように、優しげに迎え入れていました。
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秀麗な姿が美しい、大浦天主堂。
傾斜地を上手く利用した、教会へのアプローチも素敵です。
訪れるほとんど全ての方々が、この階段状から見上げるアングルで、カメラを構えます。
自然と構えさせてしまう魅力があるのです。
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華美な装飾を施さず、ストイックな気品を感じる教会堂です。
一般的な通称の「大浦天主堂」と呼ばれるこの教会は、正式には「日本二十六聖殉教者天主堂」といい、フランス人のプチジャン神父によって、元治2年(1865年)2月にこの地に建てられました。
その正式名称のとおり、日本二十六聖人に捧げられた教会です。
二十六聖人が殉教した、現在のJR長崎駅近くにある、西坂の地の方角に向けて建てられています。
大浦天主堂は、明治24年(1891年)から昭和37年(1962年)まで、長崎司教区(昭和34年(1959年)から長崎大司教区)の司教座聖堂でした。
昭和37年(1962年)から長崎大司教区の司教座は、浦上天主堂(浦上教会)に置かれています。
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教会堂へと登る階段の途中にあった、カトリックの前教皇、ヨハネ・パウロ二世の像。
ヨハネ・パウロ二世は、昭和56年(1981年)2月に大浦天主堂を訪問なさったそうです。
台座には、御訪問時になされた、修道女への御訓話の一節がはめ込まれています。
「こゝは日本の新しい教会の信仰と殉教と宣教の原点です」
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ヨハネ・パウロ二世像の傍らに立つ、プチジャン(Petitjean)神父の像。
自ら建築を指導した教会に抱かれるように、静かに佇んでいました。
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キリスト信者発見百周年祈念碑。
元治2年(1865年)、建立間もない大浦天主堂での「信徒発見」から百年後の昭和40年(1965年)に建てられたようです。
300年間信仰を隠し通してきた、「隠れキリシタン」の信徒の方々がこの天主堂を訪ねて、プチジャン神父に信仰を告白したという知らせが伝わると、当時のヨーロッパでは大ニュースとなったそうです。
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レリーフの台座にはめ込まれた、信徒発見百周年の記念碑文。
碑文のままに記しておきます。
記念碑文
紀元一八六五年(慶応元年)二月十九日、仏人宣教師プチジャン神父(後の初代長崎司教)により、大浦天主堂が建立されたが、同年三月十七日、天主堂参観の浦上の住民等十数名が同神父に近づき「私達もあなた様と同じ心の者でございます。サンタ・マリアの御像はどこ」と言った。彼等は三百年に亘る厳しい迫害を堪え忍びひそかに守り伝えたカトリックの信仰を表明した。
日本キリスト信者のこの信仰宣言は、史上に例のない事実として全世界を驚歎させた。その感動的な場面をこの碑に再現し、信者発見百周年記念としてこれを建立するものである。
一九六五年三月十七日 信者発見百周年行事委員会
碑文ここまで。
人間は、困難な状況にある時程己の意思をしっかりと持てるものですが、300年の長きにわたって貫き通した禁制の信仰心には、(私はクリスチャンではありませんが)素直に胸を打たれる気持ちが湧きました。
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「天主堂」の漢字が、強いインパクトを放っている、教会堂の正面。
建築様式としては、ゴシック様式とのことです。
煉瓦造りで、外壁を漆喰で塗り固めてあります。
教会正面の周囲には木々が茂り、この季節(4月~5月)では、緑に抱かれた教会のイメージです。
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教会堂正面入口に立っている、「日本之聖母」の像。
この聖母像も、信徒発見記念として立てられたようですね。
教会堂内部は撮影禁止なため、画像はありませんが、落ち着いた雰囲気の、薄暗い堂内の椅子に腰掛けていると、ステンドグラスから差し込む仄かな光の影響か、気持ちも和んでくるから不思議なものです。
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ゴシック様式でありながら、これ程直近から見上げるアングルでも重苦しさを感じさせないのは、流石にフランス人の手になる建築だからでしょうか。
大浦天主堂は、日本における代表的な初期洋風建築として、昭和8年(1933年)には国宝に指定され、昭和28年(1953年)に再び指定されました。
手前で被さる木の枝は、もみじですね。
秋には綺麗に紅葉するのでしょうか…是非見てみたいものです。
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天主堂の隣に建つ、旧羅典(ラテン)神学校の建物。
現在は、キリシタン資料室となっています。
明治8年(1875年)にドロ(de Rotz)神父によって建築され、昭和47年(1972年)に国の重要文化財に指定されています。
洋館でありながら、どことなく和のテイストも感じさせるような、こちらも清楚でシックな建物です。
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こうした景色として見ると、日本ではない異国の街角、といった雰囲気ですね。
エキゾチックなムード満点で、とても絵になる、お気に入りの1枚です。
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質素な天主堂で唯一、華やかさを感じたのが、鐘楼の上に掲げられている、この十字架でした。
繊細な細やかさが好感の持てる上品な装飾となっているのは、流石に由緒ある教会だけのことはあります。
記事中何度も書いていますが、気品ある外観と柔らかな荘厳さに包まれる内部の雰囲気が大好きな、この大浦天主堂、今回の旅でも変わることのない魅力的な安らぎに抱かれていました。
センスの良い控え目さ加減が、日本人の美意識にも合致していると思います。
どちらかと言えばこぢんまりとした、控え目な教会ですが、じっくり時間を割いて訪れる価値は十二分にあったと、大いに満たされた気分で大浦天主堂を後にしました。
日本の燃え上がるような紅葉の下でこの教会を見上げて見てみたいです。教会のグレーと緋色のコントラストが美しいだろうなっと思います。
次回長崎へ訪れる時は天主堂へ必ず行かなくてはと思いました。
教会堂内は撮影禁止でしたが、年月を経た光沢を放ちつつ、暖かみのある木材と、外からの光に浮かび上がるステンドグラス等により、ベンチに何時間でも腰掛けていたくなる、とても和らいだ雰囲気の空間でした。
紅葉に彩られた天主堂、綺麗でしょうね…次は秋に訪れたいです^^
大浦天主堂は、私の主観では一押ししたい位にお勧めの場所です。
長崎へご旅行の折には、是非お訪ねになってみてください!
外国では教会には聖人の名前をつけるのが普通ですが、26聖人に捧げられているとなると、どの名前を選べばよいのか分かりませんね。
300年というと何世代になるのでしょうか?
1世代25年だとしても10世代以上。
キリスト教徒であることを隠しながら、子孫にキリスト教徒としての信仰心を伝えていく、そして伝えられた子孫もその教えを固く守っていく。
どれだけ意志の強い人々だったのでしょう。
大好きなブロガーさんが五島列島隠れキリシタンの旅をつづられていました。
http://blog.goo.ne.jp/lunta_november/e/f0379d45146baed390fb1bc2c084d36f
とても興味深い記事なので、お時間のある時にご覧になってみてください。
確かに、外国では教会に聖人個人の名を冠するのが一般的ですね。
26聖人全体に捧げるのは、日本的な思考にも感じましたが、イタリアやブラジルにも、26聖人に捧げられた教会があるようで、彼等の処刑はカトリックにとっても決して小さな事件ではなかったことが窺えます。
信者発見のエピソードを初めて知った時は、とても衝撃を受けた記憶があります。
気の遠くなる年月の経過にも廃れることなく、信仰を強く維持してきた事実に、これぞ奇跡とすら思えました。
luntaさんの素敵なブログをご紹介くださり、ありがとうございます!
隠れキリシタンの正確な定義を初めて知ったり、五島列島の魅力が伝わってくる、素晴らしい旅行記でした。
隠れキリシタンとは無関係なのですが、ちょうど今、五島列島が舞台の漫画を読んでいて、五島列島に興味が湧き始めているところなのでした(^^;
週末はゆっくりできるので、改めてluntaさんの旅行記をじっくりと拝見させていただこうと思っています。