リバーリバイバル研究所

川と生き物、そして人間生活との折り合いを研究しています。サツキマス研究会・リュウキュウアユ研究会

ポリネシアの環礁にて

2010-02-08 16:16:28 | アユの流し目/雑記帳
アンダマン諸島の2言語絶滅 最後の話者、相次ぎ死亡(朝日新聞) - goo ニュース

 25年ほど前、フレンチポリネシアのランギロア環礁にしばらく居たことがあった。
 ボクがドキュメンタリー番組のアシスタントカメラマンをしていた頃だ。潜っての撮影の手伝いなどをしていたが、空港へ荷物を取りに行ったり、ボンベに空気を入れに行ったりするために、島では希少なピックアップトラックを借り上げていた。
 毎日、だいたい同じ時間にトラックで移動するようになって、いつの間にか、村人が乗せてくれと集まるようになり、空港経由、リゾートホテルと村との往復定期バスのようになった。

 ある時、ものすごいお婆さんがやって来た。通訳のウトという女性がこんな事を言った。
 マルル マヌーは、ガンビエ諸島よりもずっと南の島の人で、その島にはもう人が住んでいなくて、彼女が話す言葉は彼女しかわからないの…。

 マルル マヌーは苦労して後部の荷台に登ろうとしていた。
 トラックの助手席は、カメラとか郵便物とか、大切なものを置くので空けておくようにしていたが、ずうずうしい女性はその巨大な身体で乗り込んでくる事があった。その時も、どこかのおばさんが我が物顔で座りこんでいた。
 
 ボクは助手席にまわり、わめいている太ったおばさんを引きずり出して、マルル マヌーを助手席に乗せた。
 それから、マルル マヌーは時々ボクの助手席に乗って、島内を移動することになった。

 ちょうど、ランギロアに初めて、電気が来た時にボクはいた。
  (偶然だけど、いま、通っている、メコンのコーン島にも電気が来た時にはいたなぁ。)

 その祝典で、マルル マヌーは女王のような扱いで、ひときわ立派な、花の冠をして壇上にいた。

 祝典が終わり、ボクはマルル マヌーや、その他の人々を満載して村に帰った。勿論、彼女が助手席だった。
 その冠は、白い、クチナシの仲間の花で出来ていて、とても良いにおいがしていた。

 村内を廻り、皆を下ろしてから、村はずれのマルル マヌーの家の近くで、彼女を下ろした。
 車から下りるとき、彼女はその冠を、そっとボクの頭に載せ、◎×△○と言って微笑んだ。
 その冠はとても強く香った。

 ゲストハウスに帰ったボクは、タヒチの言い伝えというのを思い出した。
花のレイを後ろ向きに投げ海に流すと、その人はまたタヒチに来ることが出来る。というものだった。
 ゲストハウスはラグーンの中だったが、、引き潮になると近くの水路と外海がつながる場所だった。
 ボクは引き潮を待って、その花の冠を流した。



 その後、思いがけない展開があった。
 また、書くことがあるかもしれない。

 ☆テキスト版
 アンダマン諸島の2言語絶滅 最後の話者、相次ぎ死亡


 【ニューデリー=武石英史郎】ベンガル湾に浮かぶインド領アンダマン諸島で、先住民が話していた二つの言語の最後の話者が相次いで亡くなり、両言語が絶滅した。現地の言語を研究しているネルー大学のアンビタ・アッビ博士が明らかにした。

 亡くなったのは、ボロさん(79)とボアさん(85)。2人は「大アンダマン島人」と呼ばれるネグリート(黒色人種)系先住民族の末裔(まつえい)で、同民族の中の各部族が話す四つの言語のうち、それぞれコラ語とボー語を母語とする最後の1人だった。

 2人は話し友達で、ともに2004年のインド洋津波で被災した。昨年11月にボロさんが亡くなると、ボアさんの衰えが目立つようになり、先月26日に死去したという。

 19世紀に英国が植民地化した時点で、大アンダマン島人は約5千人おり、10の言語が存在した。しかし、外部から入ってきた伝染病や戦闘などで人口も言語の種類も減り続け、今は約50人が保護区内で暮らすだけだという。
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