リバーリバイバル研究所

川と生き物、そして人間生活との折り合いを研究しています。サツキマス研究会・リュウキュウアユ研究会

長良川と足尾銅山

2010-02-09 20:22:36 | あなたをわすれない
 立松さんが亡くなった。やはり、という思いでいる。
ある偶然から、立松さんの具合が悪いことを知っていた。昨日の夜、妙なことに、彼を案内した長良川河畔、鵜屋のことを思い出していた。

 立松和平さん死去=小説「遠雷」「道元禅師」など(時事通信) - goo ニュース


上昇気流 名古屋 より
 もの語る旅」新シリーズ

 「これから書くことは毎日新聞の宣伝。
 中部本社管内だけだが、作家の立松和平さんに、毎週金曜の朝刊に「もの語る旅 東海の道を歩く」という紀行文を寄せてもらっている。2003年1月10日が第1回で、先週が128回。
 最初のシリーズは「伊勢へ伊勢へと」で、続いて「鵜の目から見た長良川」、「宇宙からの光」ではスーパーカミオカンデを取り上げてもらった。「伊勢再訪」「芭蕉のいる風景」「熊野古道をゆく」「伊勢みたび」「円空の祈り」と続き、根強い人気がある。」

 関連書掌の中の月

 この連載の過程、「鵜の目から見た長良川」の取材の時にお会いした。8年ほど前のことだろうと思う。
 友人の新聞記者から、長良川のアユがなぜ小さくなったのか立松さんが知りたいというので、貴兄を推薦したという電話があった。

 それならと、ホテル杉山で会うことにして、指定の時間に出かけた。
そのあたりは、(当時) 6年ほど前まで住んでいた。ホテルの並びの川沿いのマンションに暮らしていた。

 ロビーでは、立松さんが貧相な猫背の男と話していた。杉山の女将がいうには、立松さんが岐阜にいらしているということを知って訪ねてきたという。当時、今もだが、細江という岐阜の市長だった。

 町おこしだか、活性化だかというつまらない依頼をしていたが、しかたがないから、近くで新聞を読みながら待っていた。

 市長が帰って、昼も近くなってしまったので、げんとく亭にそばを食べに行った。
 立松さんはとても岐阜に詳しくて、たびたび訪れているということだった。

 たぶん、ボクがもともと岐阜の人間ではないということを話したのだと思う。大学が愛媛だという話になった。木曾三川河口資源調査団参照

 突然、話題は福岡正信の話になった。
 その作者は伊予市の方だった。

 立松さんは彼と足尾銅山の緑化運動のシンポジウムやらで会ったという。
「福岡さんの著書も読んでいるし、業績も尊敬しているのだけれど、会場から発言されて、自分の緑化方法の正当性をとうとうと主張されて…。」あまり、楽しい出会いではなかったようだ。

 ボクも学生時代、その方の本を読んで、自然農法の田んぼを見に行ったことを話した。

 宇和海に潜りに行く途中に何回か立ち寄ったけれど、いつもいなくて、田んぼは草ぼうぼうだった。 そんな 話をした。

 立松さんは長良川河口堰反対運動を支援していた。
 ただ、彼が集会などに参加したころには、ボク自身は運動の中心とは違う所にいた。
 長良川河口堰が完成し、静かになってしまった長良川で立松さんと話すというのは妙な気持ちがした。

 田中正造の話を少し聞いたと思う。ちょうど、立松さんが執筆しているころだろうか。

 ボクは、旧谷中村、渡瀬遊水池ではちょっとした仕事をしたことがあった。
 その滑稽な係わりについては、話したかどうか?覚えていない。

 ともかく、よくしゃべる方だった。
テレビや講演での印象では、訥々と宇都宮べんで、と思いがちだが、普段の会話は滑らかで、別人のようだった。とにかく、ボクが聞き役に回るくらい、能弁であったと記憶している。

 そのうち、立松さんの田中正造を読みたいと思っていたが、絶版のようだ。

 だれか、譲ってください。

毒―風聞・田中正造 (河出文庫―文芸コレクション)
立松 和平
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ポリネシアの環礁にて | トップ | メコン 本流ダム »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

あなたをわすれない」カテゴリの最新記事