ボクのブログでカテゴリーとして立てている「猪の早太」
その方の慰霊祭が隣の集落では今に至るまで連綿と続いているそうです。
没年と思われるのは1180年 なんと828年前!すごいね。
本年 11月30日 午後2時から 古市場南
地図はこのあたり
猪の早太 とは
カテゴリー こちらから
昨年からは「区」でお祭りしているというので、今年担当の山県石油のTさんにどんなことをするのか聞いた。
集まってお祈りするだけということだったが、びっくりした。参加者に「みかん」を配るのだという。
猪の早太の出身地が浜名湖の三ヶ日(現 浜松市)なのだ。それに由来するのかな?
もっとも、日本へのみかんの到来は室町時代。沖縄経由で中国から。三ヶ日で蜜柑栽培が始まったのは明暦年間(1655年~1657年)から万治年間(1658年~1660年)にかけてというから、だれかが後世に始めたことなのだろう。
以下、蜜柑 しらべ
☆ 出典 有田みかんデータベースより
1,他産地のみかん栽培史より
5)静岡県のみかんの起源
愛媛、和歌山に次ぐ産地が静岡県である。その静岡での産地は静岡県引佐郡三ヶ日町である。『静岡県柑橘史』で静岡のみかん栽培を調べてみると、明暦年間(1655年~1657年)から万治年間(1658年~1660年)にかけて庵原郡富士川町岩淵の常盤小左衛門が紀州よりみかん(紀州小ミカン)の苗木を持ち帰ったのが静岡における蜜柑栽培の発祥とされている。このことは明治45年4月、和歌山県農曾発行の『蜜柑の紀州』にも紹介されている。
また、寛政年間(1789年~1800年)以前に引佐郡三ヶ日町の鈴木忠八が紀州みかんの苗木を持ち帰る、とも言われているが、これは口伝で確証はない。
『三ヶ日町史』によると、三ヶ日町平山の人、山田弥右衛門(通称弥太夫)が享保(1716年~1735年)の頃に、紀州那智に参詣の折り、紀州みかんの苗木を持ち帰ったのが三ヶ日みかんの最初とある。また、弥太夫については、大正10年刊行の引佐郡誌にも、産業の振興に力を入れた人であり、蜜柑栽培による収益拡大を進め、紀州みかんの苗木を広く頒布した、と書かれている。同氏によって永い年月にわたって穂木が分与され、三ヶ日みかんの礎が築かれた。
文政・天保(1818年~1843年)の頃には三ヶ日平山村を中心に大福寺村まで栽培が広まる(平山町には三ヶ日蜜柑の祖、山田弥太夫の墓が残っている)。
三ヶ日町の温州みかん伝来は寛政年間(1789年~1800年)に紀州から藤枝市に導入された(『和歌山のかんきつ』)とある。
『静岡県引佐郡誌』には「山田弥右衛門(通称弥太夫)が西浜名村(三ヶ日町)における紀州みかん栽培の始祖であり、加藤権兵衛が温州みかんの元祖である」と記している。
加藤は天保年間(1830年~1843年)に三河国吉良地方(現愛知県幡豆郡吉良町、三河湾に面している)より苗木を購入し栽培する。これが温州みかんの最初とされている。
三ヶ日町の平山の加藤家には「温州みかん発祥地」としての標示板があり、三ヶ日稲葉山には紀州みかん導入の山田弥右衛門、温州みかん導入の加藤権兵衛、また、大正時代に現三ヶ日みかんの栽培技術を普及した中川宗太郎ら3人の「謝恩柑橘頒徳碑」が建立されている。
☆藤枝市へのみかん伝来(『藤枝市役所農林課』)
寛政年間(1789年~1800年)に温州みかん苗木が紀州から伝来。導入したのは藤枝市東北部に領地を持つ旗本、石川又四郎であり、また続いて、同地方の田中城、城主本多氏が紀州から苗木を取り寄せ領民に奨励した模様であるが、栽培技術が伴わず、同地方においては江戸時代には販売体制には至らず、農作物は米・茶が主産品であった。
藤枝市のみかん栽培が本格化するのは、明治15年前後からで、先進地の紀州から温州みかんの改良種を適宜購入しながら増殖している。この時期、熱心だったのは子持坂村の杉山力蔵氏であった。同氏はみかん増殖につとめるとともに夏みかんを取り寄せる。また明治25年には和歌山県那賀郡から「ネーブルオレンジ」を導入し、藤枝市のネーブル栽培の端緒を開いている(『静岡県柑橘史』)。明治20年代に入ると温州みかんの栽培が全市に広がり、焼津港から東京方面に出荷され、明治中期には同地方は、静岡県のみかん先進地となる。
☆温州みかん 由来 語源由来辞典より
その方の慰霊祭が隣の集落では今に至るまで連綿と続いているそうです。
没年と思われるのは1180年 なんと828年前!すごいね。
本年 11月30日 午後2時から 古市場南
地図はこのあたり
猪の早太 とは
カテゴリー こちらから
昨年からは「区」でお祭りしているというので、今年担当の山県石油のTさんにどんなことをするのか聞いた。
集まってお祈りするだけということだったが、びっくりした。参加者に「みかん」を配るのだという。
猪の早太の出身地が浜名湖の三ヶ日(現 浜松市)なのだ。それに由来するのかな?
もっとも、日本へのみかんの到来は室町時代。沖縄経由で中国から。三ヶ日で蜜柑栽培が始まったのは明暦年間(1655年~1657年)から万治年間(1658年~1660年)にかけてというから、だれかが後世に始めたことなのだろう。
以下、蜜柑 しらべ
☆ 出典 有田みかんデータベースより
1,他産地のみかん栽培史より
5)静岡県のみかんの起源
愛媛、和歌山に次ぐ産地が静岡県である。その静岡での産地は静岡県引佐郡三ヶ日町である。『静岡県柑橘史』で静岡のみかん栽培を調べてみると、明暦年間(1655年~1657年)から万治年間(1658年~1660年)にかけて庵原郡富士川町岩淵の常盤小左衛門が紀州よりみかん(紀州小ミカン)の苗木を持ち帰ったのが静岡における蜜柑栽培の発祥とされている。このことは明治45年4月、和歌山県農曾発行の『蜜柑の紀州』にも紹介されている。
また、寛政年間(1789年~1800年)以前に引佐郡三ヶ日町の鈴木忠八が紀州みかんの苗木を持ち帰る、とも言われているが、これは口伝で確証はない。
『三ヶ日町史』によると、三ヶ日町平山の人、山田弥右衛門(通称弥太夫)が享保(1716年~1735年)の頃に、紀州那智に参詣の折り、紀州みかんの苗木を持ち帰ったのが三ヶ日みかんの最初とある。また、弥太夫については、大正10年刊行の引佐郡誌にも、産業の振興に力を入れた人であり、蜜柑栽培による収益拡大を進め、紀州みかんの苗木を広く頒布した、と書かれている。同氏によって永い年月にわたって穂木が分与され、三ヶ日みかんの礎が築かれた。
文政・天保(1818年~1843年)の頃には三ヶ日平山村を中心に大福寺村まで栽培が広まる(平山町には三ヶ日蜜柑の祖、山田弥太夫の墓が残っている)。
三ヶ日町の温州みかん伝来は寛政年間(1789年~1800年)に紀州から藤枝市に導入された(『和歌山のかんきつ』)とある。
『静岡県引佐郡誌』には「山田弥右衛門(通称弥太夫)が西浜名村(三ヶ日町)における紀州みかん栽培の始祖であり、加藤権兵衛が温州みかんの元祖である」と記している。
加藤は天保年間(1830年~1843年)に三河国吉良地方(現愛知県幡豆郡吉良町、三河湾に面している)より苗木を購入し栽培する。これが温州みかんの最初とされている。
三ヶ日町の平山の加藤家には「温州みかん発祥地」としての標示板があり、三ヶ日稲葉山には紀州みかん導入の山田弥右衛門、温州みかん導入の加藤権兵衛、また、大正時代に現三ヶ日みかんの栽培技術を普及した中川宗太郎ら3人の「謝恩柑橘頒徳碑」が建立されている。
☆藤枝市へのみかん伝来(『藤枝市役所農林課』)
寛政年間(1789年~1800年)に温州みかん苗木が紀州から伝来。導入したのは藤枝市東北部に領地を持つ旗本、石川又四郎であり、また続いて、同地方の田中城、城主本多氏が紀州から苗木を取り寄せ領民に奨励した模様であるが、栽培技術が伴わず、同地方においては江戸時代には販売体制には至らず、農作物は米・茶が主産品であった。
藤枝市のみかん栽培が本格化するのは、明治15年前後からで、先進地の紀州から温州みかんの改良種を適宜購入しながら増殖している。この時期、熱心だったのは子持坂村の杉山力蔵氏であった。同氏はみかん増殖につとめるとともに夏みかんを取り寄せる。また明治25年には和歌山県那賀郡から「ネーブルオレンジ」を導入し、藤枝市のネーブル栽培の端緒を開いている(『静岡県柑橘史』)。明治20年代に入ると温州みかんの栽培が全市に広がり、焼津港から東京方面に出荷され、明治中期には同地方は、静岡県のみかん先進地となる。
☆温州みかん 由来 語源由来辞典より
多分違うでしょう。
だってうちの地区だって年初の寄り合いには必ず「みかん」を配ってるでしょ。
単に人が集まった時には「みかん」が一番配り易いからだと思う。
話としては面白いですけどね。