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フェニックスホールで開催された
コンサートにお誘いを頂き
母を誘ってでかけた。
早く行こうとせかす母。
ホールは平和公園に隣接している。
改装されてきれいになった
レストハウス2階で軽いお昼を食べる。
喫茶室には古いピアノがある。
被爆して亡くなった女の子が
弾いていたそうだ。
元安川たもとの元安橋を母と歩く。
8月6日には灯篭流しが行われる。
何千人もの人出となるこの場所で
ヒロシマの歌を数度も
歌わせてもらったが
遠い昔のことになったなと思った。
待ち合わせまで時間があるので
原爆資料館へ入った。
何十年ぶりかの資料館だ。
最近折り鶴を折る母だが
折り方をすぐに忘れるので
折っては広げてを繰り返し
しわしわのみすぼらしい折り鶴が
こたつの上に何個も並ぶ。
母の不在を狙って先日処分した。
「オバマさんの折り鶴は
凄く綺麗でかっこよい」というと
母は興味津々で眺めていた。
原爆投下直後の惨状が
大パノラマ写真として展示
されている。
跡形もなく破壊された広島は
ガラガラと崩れたわけではなく
業火が命あるもの無いものの
区別なく隅々まで
焼きつくした結果だ。
まるで当時の広島市に
立っているかのようだった。
全てを破壊され抹殺されただけでなく
その後何十年にもわたり
心身を蝕むことになる放射線が
かろうじて命を繋いだ人たちに
静かに襲いかかっていたとは。
亡き父は呉市の学徒動員から
帰還する時、広島駅に降り立った。
「何もなかった。比治山まで見えた」
と言っていた。
「お父さんもこの惨状を見たんだろう」
と思った。
16歳の少年だった父は
大きな心的ダメージを受けたに
違いない。
当時の父と同じような若い子らが
大勢亡くなった。
敢えて「焼き殺された」と書きたい。
亡くなった子らの顔写真と
亡くなる直前の言葉、
そして遺品が展示されている。
嗚咽をこらえるのがやっとだった。
「むごいことしたで」と
ポツリ母が言う。
アメリカのことだ。
原爆を作ったドイツのことでもある。
日本の同盟国だったドイツがなぜ?
そして妙なプライドからか?
戦争の早期終結をためらった軍部や
我が国のリーダーの責任は重い。
明らかに体調に異変を感じた。
展示品が凄惨だから・・
というのではなく
苦悶し慟哭したバイブレーションは
時空を超えて存在する。
私はそれに同調しているらしかった。
(思いだして文章にしていると、
左の腎臓あたりが激しく痛み始めた。
息苦しさも併発)
母も「疲れたの~」とぐったりだ。
私を生み出した人だから同じ
体質に違いない。
「喉が渇く」と母。
ガラス越しに座って水分補給だ。
まっ青な空に平和公園の新緑が
まぶしいほど。
幸せは身近にある。
こんな何気ない日常を「幸せ」と
呼ばなくなった時きっと
戦争が誘発される。
一人一人の自覚にこれからの
平和維持がゆだねられている。
遺品を見ながら強烈に思った。
「ヒロシマ」はまだ終わらない。
皆の苦しみを放っておけない。
「私が歌にするからね」
と声を掛けた。
8月1日被爆建物の旧日銀で
コンサートを主催する。
偶然を装ってその為に
ここに来たのだろうと思った。
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