娘の担任の先生で、面白い通信を書いてくださる方がおられます。
きっと娘は、クラスが愉しいだろうと思います。
私は‘笑い’は、怒りや恐怖・痛みやかゆみを超える力があると思っています。
うちでは一人目の娘がまだ赤ちゃんのころ、アトピーが皮膚に出てかゆがって大変なときは、一日中マンションから出られずいたのですが、そんなときも主人が仕事から帰ると、主人が娘を前向きに抱っこして、私が柱やふすまなどに隠れてだったと思いますが、ワンエルのスペースの中でかくれんぼをして、娘は毎度のことでもいつも「キャッキャ キャッキャ」と笑って足をばたばたさせてそらを漕ぎ、その間は全く掻かずにすんでいて、私達は一日一回思い切り笑わせることをしていました。
娘はそんなアトピーになって教えないといけないほど、何もできずに母になった私でしたが、毎晩のお風呂前のベビマとおっぱいの質の良くなる食事(これは最悪のときを超えてから知りました)と、免疫を高める一日一回大笑い。これだけしか、私の子に生まれてくれた特典?がないようにと思っていたので、鼻先以外の皮が剥がれてしまって抱っこしているしかなかったとき以外は、欠かさずに、仕事だと思って続けたのでした。
また昨年の尿管結石の破砕手術のときに、1時間ほど、結石の止まっている箇所を何かの腺で集中的に叩かれるのですが、それがもう意識の遠のきそうな痛みで、時間の区切りがなかったら、本当に気を失ったかもしれないと思いました。
そのときの担当医者さんは男性お二人で、1時間の間ちょっとでも動いてしまうと、痛い思いはしても効果があまりなかったり、痛み止めに麻酔をすると後の処置が大変だと言われたので、できるだけ効果的に…と麻酔なしで受けた治療でしたが、始まってびっくりでした。
出産の痛みの軽かった私には味わったことのない、身体の中でキーン・キーンと金属音のような響きがして、まるでプロのボクサーに、一か所に何度も何度もパンチをされ続けているかのような感じでした。
それで最初は主人と娘たちの姿を思い浮かべて心の支えにしていた私でしたが、とうとう意識が薄れていき、家族の顔も浮かばないようになって、家族よりもお付き合いの長い存在、神様?がすっとそばに寄りそってきてくださったように感じました。
それで死ぬ時ってこんな風かもしれないな、とふと感じたのでした。
この世には母の胎内で育まれて、でも一人で生まれて一人で逝く。
それに私は家族を心の支えにしましたが、実際は家族からは心配もされていないだろうなとも思いました。相手の思いなんてわからないものですから。この病院での検査後の診断のときには主人と一緒に担当医のお話を伺ったのですが、ご説明からは、手術はコンサートに行ったときに身体に響く重低音ような感じで、それほど痛くなさそうな感じを受けたので、主人は本当に心配していなかったそうで。
だから私たちの心は、あるかどうかわいからない何かを支えにしているけれども、相手がこちらに対してどんな状態だろうと、自分の心の中にあることが大切なのかもしれない。
心の拠り所が、産んでくれたご両親やご家族やご先祖の人もいれば、信仰のある方は神様かもしれないし、恩師や故郷の景色かも、親友や仲間かも、ペットかもしれない。
でもそのときの痛みの中で私には、見えない拠り所より、「もう少しやからがんばってださいね」「ちょっとずつ石が小さくなってきましたよ」などという、その場におられる人からの優しさのある言葉掛けとか、何よりも痛みを少し離れられるような‘ちょっとした笑い’が欲しいなと思ったのでした。
男の人二人もいて、1時間全く笑わせてくれないばかりか、あとどれくらいの時間がかかるのかも、こちらから聞かないと言ってくれない。(治療だから当たり前のことかもしれないですね^^;)
もしここに主人がいたらきっと何らか笑わせてくれたか笑ってくれたやろうと、そのときにまーぼさんの大きさと優しさは身に染みました。なんだかそれほど、治療費を出してくれるとか、治療を受けさせてくれる環境とかより、きついときこそ‘笑い’が大切だと思ったのです。
実際娘が骨を折ってよれよれな状態で、娘と夫婦とで病院の待ち合いで待っている間も、以前の私の腎炎のときの受診待ちの間も(このときはもしかしたら癌かもしれないな、覚悟決めな…と思った時間でしたが)、主人は(昔交通事故であちらに逝きかけて戻ってきたような人で、いったい思いもしてきた人なので)娘と私の痛みをわかっていながら、誰も傷つけない笑いを与えてくれたのでした。
人の心の優しさや、存在の大きさをこんなときに確認するほど小さな私
今主人の‘ホーム’からうちに流れている大阪流のぼけとつっこみは、相手への思いやり・愛なんだと思います
きっと娘は、クラスが愉しいだろうと思います。
私は‘笑い’は、怒りや恐怖・痛みやかゆみを超える力があると思っています。
うちでは一人目の娘がまだ赤ちゃんのころ、アトピーが皮膚に出てかゆがって大変なときは、一日中マンションから出られずいたのですが、そんなときも主人が仕事から帰ると、主人が娘を前向きに抱っこして、私が柱やふすまなどに隠れてだったと思いますが、ワンエルのスペースの中でかくれんぼをして、娘は毎度のことでもいつも「キャッキャ キャッキャ」と笑って足をばたばたさせてそらを漕ぎ、その間は全く掻かずにすんでいて、私達は一日一回思い切り笑わせることをしていました。
娘はそんなアトピーになって教えないといけないほど、何もできずに母になった私でしたが、毎晩のお風呂前のベビマとおっぱいの質の良くなる食事(これは最悪のときを超えてから知りました)と、免疫を高める一日一回大笑い。これだけしか、私の子に生まれてくれた特典?がないようにと思っていたので、鼻先以外の皮が剥がれてしまって抱っこしているしかなかったとき以外は、欠かさずに、仕事だと思って続けたのでした。
また昨年の尿管結石の破砕手術のときに、1時間ほど、結石の止まっている箇所を何かの腺で集中的に叩かれるのですが、それがもう意識の遠のきそうな痛みで、時間の区切りがなかったら、本当に気を失ったかもしれないと思いました。
そのときの担当医者さんは男性お二人で、1時間の間ちょっとでも動いてしまうと、痛い思いはしても効果があまりなかったり、痛み止めに麻酔をすると後の処置が大変だと言われたので、できるだけ効果的に…と麻酔なしで受けた治療でしたが、始まってびっくりでした。
出産の痛みの軽かった私には味わったことのない、身体の中でキーン・キーンと金属音のような響きがして、まるでプロのボクサーに、一か所に何度も何度もパンチをされ続けているかのような感じでした。
それで最初は主人と娘たちの姿を思い浮かべて心の支えにしていた私でしたが、とうとう意識が薄れていき、家族の顔も浮かばないようになって、家族よりもお付き合いの長い存在、神様?がすっとそばに寄りそってきてくださったように感じました。
それで死ぬ時ってこんな風かもしれないな、とふと感じたのでした。
この世には母の胎内で育まれて、でも一人で生まれて一人で逝く。
それに私は家族を心の支えにしましたが、実際は家族からは心配もされていないだろうなとも思いました。相手の思いなんてわからないものですから。この病院での検査後の診断のときには主人と一緒に担当医のお話を伺ったのですが、ご説明からは、手術はコンサートに行ったときに身体に響く重低音ような感じで、それほど痛くなさそうな感じを受けたので、主人は本当に心配していなかったそうで。
だから私たちの心は、あるかどうかわいからない何かを支えにしているけれども、相手がこちらに対してどんな状態だろうと、自分の心の中にあることが大切なのかもしれない。
心の拠り所が、産んでくれたご両親やご家族やご先祖の人もいれば、信仰のある方は神様かもしれないし、恩師や故郷の景色かも、親友や仲間かも、ペットかもしれない。
でもそのときの痛みの中で私には、見えない拠り所より、「もう少しやからがんばってださいね」「ちょっとずつ石が小さくなってきましたよ」などという、その場におられる人からの優しさのある言葉掛けとか、何よりも痛みを少し離れられるような‘ちょっとした笑い’が欲しいなと思ったのでした。
男の人二人もいて、1時間全く笑わせてくれないばかりか、あとどれくらいの時間がかかるのかも、こちらから聞かないと言ってくれない。(治療だから当たり前のことかもしれないですね^^;)
もしここに主人がいたらきっと何らか笑わせてくれたか笑ってくれたやろうと、そのときにまーぼさんの大きさと優しさは身に染みました。なんだかそれほど、治療費を出してくれるとか、治療を受けさせてくれる環境とかより、きついときこそ‘笑い’が大切だと思ったのです。
実際娘が骨を折ってよれよれな状態で、娘と夫婦とで病院の待ち合いで待っている間も、以前の私の腎炎のときの受診待ちの間も(このときはもしかしたら癌かもしれないな、覚悟決めな…と思った時間でしたが)、主人は(昔交通事故であちらに逝きかけて戻ってきたような人で、いったい思いもしてきた人なので)娘と私の痛みをわかっていながら、誰も傷つけない笑いを与えてくれたのでした。
人の心の優しさや、存在の大きさをこんなときに確認するほど小さな私
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今主人の‘ホーム’からうちに流れている大阪流のぼけとつっこみは、相手への思いやり・愛なんだと思います
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