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さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。
桔梗ヶ原がひとつの区として独立する前では、この地は平出と床尾に分散されておりました。
いきおい平出と床尾の衆は、なにかとライバル意識が働いて、小競り合いがおおございました。
それをおさめたのが、桔梗ヶ原神社でございます。
桔梗ヶ原神社は大正15年に建立されましたが、それ以前には玄蕃稲荷の小さな祠がぽつんと芝草の上にあるだけでした。
この祠は当時平出の地籍でありましたので平出の衆が祭典を行っていました。
あるとき、親睦をはかることを目的としてこの祭りに平出、床尾の衆が双方寄り集まって酒宴を張りましたところ、酔いが進むにつれ日頃のうっぷんがわき出でて。
とうとう乱闘騒ぎになる始末。以来床尾の衆はこの祭りにいっさい足を運ばなくなる事態に。
子どもらは、境を関係なくまつわって遊んだものでございますが、喉が乾けばにごり水といえど井戸の水に手を伸ばします。
それを「床尾の水を飲むじゃねえ!」 と大人にまくられたこともあったわね、との思い出話も御年配よりお聞きしました。
入植者はその境界によって平出、床尾に分散されておりましたので、
内心は「困ったねぇ」「一緒に頑張って開墾した仲間なのにねぇ」とその争いを憂いておりました。
そうしたこともあってか、大正12年、分断されていた桔梗ヶ原は、平出、床尾からそれぞれに離脱し、単体で桔梗ヶ原区とあいなりました。
がしかし、わだかまりはまだくすぶり、対立意識は残っておりました。
それを一掃したのが、桔梗ヶ原神社の建立でございます。
当時の資料には、その対立を緩和するためにも神社の建立が不可欠との、顔役たちの想いが強く書かれております。
果樹生産地として、作神が必要と篤志が建立に尽力を図ったことにより、
この農村地帯を一体とする神様をまつる神社となり、こまかな地籍を関係なく自然とみながお参りするようになり、ともに祭典を行うようになりました。
そして、神社建立は平出の衆が、深層井戸の掘削は床尾の衆が受け持ち、桔梗ヶ原として独立した移住の民を隣人として改めて受け入れてくれたのでございます。
その後は、もともとは移住者の集まり、土着の古いしきたりやしがらみのない開拓民のまちとなった桔梗ヶ原は、その開拓魂ととともにさらなる発展を遂げてまいりました。
前例びいきをもたぬ開拓者ならではの冒険心、やってみてダメならこだわらずに次!そのこだわりのなさが功を奏したわけでございます。
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桔梗が原神社には、生産の神とともに、今も玄蕃の丞の祠がちゃんとおいでなさいます。
一昨年には、駅前に設置されておりました玄蕃狐の石像も寄贈され、名実ともに、「桔梗ヶ原の玄蕃の丞」の神社としてこの地を見守ってくださっております。
お参りの際は、本社、向かって左に進みますれば、この鳥居。
この先に玄蕃稲荷がございますれば、ぜひ、お参りのほどを。
<終>
土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない.
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
全国における果樹栽培地の成功例をみますと、どの土地もなにかひとつよい条件を持っていることが分かります。
一つも条件がそろわぬ桔梗ヶ原の地に果樹栽培が成功したのは異例中の異例、と
昭和29年に調査に入った名古屋大学大学院の教授がその調査論文を書かれております。
とはいえ、いまのように初めから一面ブドウ畑だったわけではございません。
(明治39年)には諏訪から入植したものが、養蚕業を広めたことでクワ畑が一時急増したが、
1920年(大正9年)の不況で衰退してしまいました。
また、大正にはいりまして鉄道が引かれたり、道が良くなってまいりますと、さまざまな野菜を栽培し
特にキャベツは貨物列車で県外にも出荷するほどでございました。
またヤギを多く飼い、その乳を塩尻、松本に配達販売をしていた人もあったそうです。
そうして試行錯誤をしながら、徐々に技術の進歩とともに土壌の改良がかない、
今の繁栄を手に入れていったのでございます。
とくに水の確保が一番の課題でした。
井戸はいくつも掘りましたが、なかなかに良い水が出ず、枯渇も多かったので使い勝手が悪く。
そのうちに、1人が始めてみて、おお、これはいいと、雨水をためるタンクを各家々が持つようになり。
もっぱら井戸水よりも雨水の利用が主流を占めるようになりました。
また開花時や結実時期の遅霜も天敵で。
夜を徹して、畑のそこここに焚き火をし、霜を防いできたとのこと。
車が普及した頃には、もらいうけた古タイヤが程よくくすぶって有効だと、タイヤ火を使う農家が増え。
旧塩尻から、桔梗ヶ原を見降ろすと、その上の空が黒々と大きな柱がたつように黒煙が包んで見えたそうです。
今なら環境問題で大騒ぎになりそうおはなしです。
当時農家の子どもだった方々のなかには
「窓を閉めて寝ているのに、朝、鼻をかむと、黒い鼻水がでたものだ」と述懐なさっていました。
さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。
いろいろと小競り合いも出てまいります。
その収拾に一役買ったのが、「桔梗ヶ原神社」の存在。
以下、つぎのおはなしに。
民の命を救う薬草の栽培は長く続き大正の初めまで残っておりました。
さて、みそぎを終えた桔梗ヶ原の地には、明治に入っていよいよ開拓の手が入ることとなってまいります。
まずは、明治2年に平出村から単身で桔梗ヶ原へ移住し開拓を始めた田中勘次郎
続いて藤原義右衛門(ぎえもん)
さらに里山辺から入植した豊島理喜治は20種余りのブドウ3,000本を植えました、これが当地におけるブドウ栽培の始まり。
明治41年には、諏訪地域から入植した小泉八百蔵がコンコードの栽培を開始。山梨から学んだ「棚造り」を導入。
さらに平野村(岡谷市)から入植して果樹栽培を始めた林五一は、1918年(大正7年)から本格的にワインの醸造を開始することとなりました。
次々と外から入植者が入ってくることができた背景には、
お国の政策で分割払い下げを受けた平出や床尾の所有者が、
おうように、この土地を入植を希望する人たちに売り渡してくれたことに起因します。
当時の入植者の名簿を見ますとそのほとんどが近隣の村ではなく、少し離れた土地の人々。
諏訪辺りからが多かったようです。
地元のものは長らく開墾がかなわなかった不毛の土地、「無用の長物」と思っていたのかもしれません。
土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない、
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
その紆余曲折は、また次回。
つづく
幾多の開拓計画がとん挫したあと、
その大地は、その地についえた命の数を超えて
人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。
葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。
「桔梗ヶ原ものがたり」1
その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく人類の棲息をも許さなかった、この土地、桔梗ヶ原。
桔梗ヶ原周辺、平出には、すでに縄文文化以来の古い集落もあり、早くから人々の生活が営まれていたにもかかわらず、この桔梗が原は原野のまま長らく取り残されておりました。
が、しかし。
いまや全国有数のブドウ生産地としてその存在を認められるに至り。
点在するワイナリーの知名度も年々その勢いを増しております。
本日は、ここにいたるまでの、先人の開拓の歴史、かいつまんでしばし語らせていただきます。
桔梗ヶ原の地名が登場する文献といたしましては、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されております。
その後行くたびかこの地はいくさばとなっておりましたが。
ただ、つとに伝えられております、「天文年間における武田、小笠原両軍のいくさ、桔梗ヶ原で大激戦」という伝承には誤りがございます。
実際にはこの戦は塩尻峠を介したものでございましたが、のちに山本かんすけらの子孫が、父祖の功績を誇張して伝えんがため書かれた武田3代記の中に、この桔梗ヶ原の名をつかったものでそれがまことしやかに今に残っているのだそうでございます。
この桔梗ヶ原という名称の由来は定かではありませんが、いくつかのいわれが残っています。その代表の二つ、
かつて経典を携えた僧侶が京都から善光寺に向かっていたとき、連れてきた牛が当地で倒れてしまい、「帰京」を余儀なくされたことから「キキョウ」の名が付けられたとする伝承、
また、原野にかつては多くの桔梗の花が咲き乱れていたとする説が有力とも言われています。
まぁ、桔梗は市花でもございますし、思い浮かべる原風景といたしましてもこちらのほうを採用いたしたい想いもございますが、みなさまはいかがでしょうか。
さて、江戸時代に入りまして1700年(元禄13年)、松本藩はこの桔梗ヶ原の開拓を命じます。
ところが、このころは近隣の村々の、いりあいのまぐさばとしてなくてはならない原野となっておりましたので、各村民の反対が強くそのおふれは中止となりました。
以後、1742年(寛保2年)、塩尻陣屋代官・山本平八郎が開発を計画いたしましたが、今度は松本藩も一緒になって農民らと幕府への直訴、計画中止。
1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、これも間もなく立案者の死去によって頓挫してしまいました。
あたかも、この地を開拓してはならぬという玄蕃の丞の念でございましたでしょうか。あるは合戦の地となった因縁か・・。
が、しかし。
幕末のころに、平出の川上なにがしが道筋に薬草を植えたのを始まりに、この原野はまたたくまに薬草の栽培地となりました。
当帰、黄芩(おうごん)茴香(ういきょう)等の種類で、その強い香りは中山道を往来する人々の鼻をついたほどとなりました。
戦場として多くの命がついえたこの土地は、
その数以上の人々の命を救う薬草の大地として浄化されていったのでございます。。。。。
つづく
(昭和27年発行 「桔梗ヶ原」より語り台本を作成)
※この伝記は、古書、屋代熊太郎編「税所敦子刀自」と、平井秋子著 「楓内侍」のニュアンスが異なるエピソードを摺合せ、ほかの伝聞、資料を加味し現代風にアレンジしたものです。
賢女としてのエピソードには事欠かない税所敦子女史ですが、完璧すぎることに物足りなさがあり、もっと人間臭い敦子女史に出逢いたく、文章化を試みました。
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税所敦子物語 (1) ーあつこ、関白亭主に仕えるー
あつこは、京都、錦織で生まれた。
生家は宮家付きの武士の家。
うまれつき、利発で、心根が特別優しい娘であったが、体が弱くその分両親の慈しみはことさらだった。
また、あつこは、虚弱なぶん、思考が大人びており、知的好奇心が旺盛でほかの子供たちとは一風変わっていた。
6歳の時、父が友達と歌会を催した、そばに居た娘、あつこ、見よう見まねで歌を作ってみせた。
その出来栄えのよさにおとな一堂びっくり。お父さん内心大いに鼻が高かったが、そこは女の子。
当時女子がおりこうぶるのは、疎まれたので、あからさまには褒めてはあげられなかった。
11歳の時、いきなりの行方不明、親が青くなって探しまわるが、見つからない。
3日2晩のちに見つかったのは、虚空蔵様のお堂の中。眼をつむり正座したまま飲まず食わずで顔は青ざめ。
やれやれなにはともあれ生きててよかったと連れ帰ろうとした両親に「お願いですからこのままに。」と懇願。
「いったいどうしたんだ」 すわ乱心かと心配した親が恐る恐るたずねると、
「このお堂で17日間断食祈願すると、智慧と学問を授けてくださると聴いたの。お願い、17日ここで祈願させてください。」との答え。
この時代、女子に学問は必要なしの風潮、いかにあつこが聡明であっても男子のように学問の道は与えられず、あつこはそのことが歯がゆくてならなかったのだ。
さてそのいきさつが評判となり、当時、歌聖と謳われていた千種有功卿の耳に入り。
「わたしが歌や学問を教えてあげようではないか。」とお声掛け。
あつこ、舞い上がって喜び、両親も喜んで卿のもとへ、あつこを通わせることとした。
学びを得たあつこは、乾土に水がしみるがごとく、どんどん知識を吸収、卿と交友のある他の師の元にも通いめきめきと実力をつけ
門下生の中でも秀才と誉を受けるまでに。
数年後、18の歳にいつくしんでくれた父が亡くなる。
悲嘆にくれたあつこであったが、その2年後20歳のおり、税所篤之氏のもとに嫁ぐこととなる。
篤之は、前妻とは死別のバツイチ子持ち。
娘二人の父であったが、その子らを、九州の実家母に預け、京に単身赴任していた。
仕事もできるがなかなかの洒落男。
書も、画も、歌もたしなみ、あつこの師である千種卿のところにも出入りしていたので、あつことは面識はあった。
ときにきまぐれにあつこに手ほどきもしたことだろう。
大好きな父を亡くしたあつこの眼には、かなり年上で才能ある篤之が理想の人に見えた。
「ああいう人のお嫁さんになりたいなぁ」とつぶやいたことがきっかけで
婚儀話はトントンと進み、晴れて夫婦に。
ところが、他人として接するのと、夫婦となった男女とでは対する態度は大違い。
元来が男尊女卑気質の激しい薩摩の男。
門下でも秀才と誉を受けていたあつこに対して、まぁ、厳しい、厳しい。
「世間知らずめ」「こんなこともできんのか」「おそいおそい」と叱咤が続き。
時に手を上げることもあった。
しかも、女買いも独身時代と変わらず続けやがる。
心配した親友、そっとあつこを訪ねることにする。きっとストレスたまっているはず、愚痴の一つも聴いてあげなきゃ。
で、あつこに尋ねる。
「わたしたちのあこがれである才女のあなたがなんでこんな仕打ちを受けなきゃいけないの、ひどいわご主人。つらいでしょう。」
あつこは、答える。
「私の大事な旦那さまを悪く言わないで。そりゃ、私は少しばかり学問をかじったけど、まだまだ未熟だし、大事に育ててもらった分世間知らずでどうしようもないのよ。旦那様はわたしが愛おしい気持ちが強くてつい声を荒げるの、手もでるの、わたしが可愛い反動なのよ。
それに、うぶなままなわたしでは大人の旦那様は物足りないのも仕方がないのよ。だから玄人の女の人に行く。
色恋ではない相手よ、
それは旦那様の誠意だわ。殿方なんだから仕方がないじゃない。
それを焼きもちなんか焼いたら、罰が当たるわ。辛抱して、お気に召すよう努め続ければきっと旦那様は私をあわれに思って改心してくださるに違いないのだから、ほっといて。」
でました!あつこの性善説思考と超ポジティブシンキング。
てっきり、よよと泣き崩れて嘆くであろうあつこを、しかと抱きしめ慰めようと心してきた親友、あんぐり拍子抜け。
「あなたって人はまぁ。。。」と苦笑するやら、感嘆するやら。
その言葉どおり、あつこの一念は、篤之の心を懐柔し、3年後には、模範亭主に様変わり。
あつこを愛でて、彼女一筋となり、数年後ようやく娘も授かった。 ーつづくー
日支事変より4年半。
昭和16年12月8日発せられた、開戦の詔の意味解説書。
翌17年2月に発行されている。
発令後、天皇のお言葉が難しすぎて大多数の国民が、どう読むのでしょう、どういう意味なのでしょうと問い合わせが相次ぎ
解読本の発行となった。
解説者はあとがきに、こう書いている。
『さるにても諸君よ、開戦と同時に我が陸軍、海軍、空軍のまざましき活躍は何と評すべきか、古今東西実に較ぶべきものなく。
世界中、皆、舌を巻きて驚嘆し人間業に非ずというてをるではないか。が、諸君よ、是は皆、平素の命がけの訓練と錬熟との賚(たまもの)ではないか。命を棄てて国に殉じたる故ではないか。
そこで百僚有司に立つ人も、一般の庶業に従事する人も、皆、命を棄てて国に殉ずるという心で一致協力、夫々の道に躍進すれば、戦争が長引いて五年となろうが、十年、百年となろうが決して恐る事はない、必ず最後の勝利が日本に在るに決まって居るのだ。』
<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/34/402cf3ba214797ac9a06b739d9baedb9.jpg">
夫とその弟の幼少期、これしか残っていない貴重な1枚。
亡き夫の父、おじいちゃんが撮ったもの。
おじいちゃんは、朴とつな人で、馬力があるが気短で、人と群れることが嫌いな一匹狼気質だった。
個人でトラックの運転をして家族を養っていた。
有限で石材を扱う建材店を営んだこともある。
子供らへの接し方も、いまどきパパとは大きく異なり、昔の親父そのものだったようだ。
子連れで出かけかねればならなかった日。
自転車の後ろに座布団も縛らずひょいと幼い夫を載せ、走り出したはいいけれど、幼子の夫はうまく捕まることができず転がり落ち。
泣いていたがる息子のえり首をウサギを持つようにつかみあげてまた、どすんと後ろに座らせ、
「しっかりつかまってろ!この小僧!」とげんこつをくらわした。
さらに泣くとまた殴られそうで嗚咽をこらえて必死に荷台の枠につかまった、と夫は述懐したことがあった。
それを見ていた近所の衆が「まぁず、もうらしいことをするじゃねぃかい。」と声を上げたのを覚えていて
「そうだよ、俺はもうらしい(かわいそう)んだ」とひそかに理不尽に納得がいったとの話。
そんなおじいちゃんだが、愛し方が下手なだけで、子煩悩だった。
昼夜働く、その原動力は、女房子供を腹いっぱい食わせたい、その思い。
貧乏でも飢えることはなかった、腹を空かせて切ない日はなかったと夫は父親の愛を受け止めていた。
この写真を見ると、おじぃちゃんの愛が見える。
たぶん、トラックに子らを乗せて走ったんだろう。車で寝ていた子たちをたたき起こして、
ほれ、そこに立て!と立たせて、撮ったんだろう。
子供らは、なんのことやらねぼけたまま、いうとおりにしたので、ポーズもカメラ目線もない。(笑)
甘い言葉かけなど無縁ながら、当時貴重なフィルムを、子供たちのために使った。
カメラを通した、おじいちゃんの父親目線が、愛おしい。
母の古い写真をアップして父の昔話を思い出した。
あと半年戦争が長引いていたら学徒出陣に引っかかって戦地だったはずの父。
だから軍服姿の写真がないことが嬉しい。
大学は出たものの、戦後の混乱期で就職した貿易会社は半年でつぶれ、海外赴任の話もパー。
横浜の歯ブラシ工場でアルバイトをした。回収されてきた古歯ブラシを洗浄漂泊して毛先を整え箱詰めをする。
今じゃ考えられない衛生観念(笑)
治安が悪く、懐には皆、護身用のナイフを持ち歩いていたそうだ。
その道の男たちはチャカ(ピストル)を当たり前に持ち歩いていたそうで。
危険と混沌と、そしてエキサイティングがないまぜな港町で
数年そうやって日銭稼ぎと遊びと、ふらふらした後、地元に帰り地方官吏になった。
後年の、公務員気質ばりばりだった父からは想像できない昔話に、
ほえ~、ふ~んと聴き入ったのは、亡くなる数か月前の病床で。
あの頃は日が暮れるまでよく話した。
話せてよかった。
今日は、亡き母の誕生日。
というわけで、彼女の若かりし日の一枚。
保存が悪くて、しみもちらほらだけど、
どこかの録音室らしく、前方にマイクが。
へぇ、こんな仕事もしてたのねぇ、独身時代。
かえるのこは、かえるってことか。
はっぴばーすでぃ、ママ。
声がそっくり、ってよく言われたよね、わたしたち。