母の古い写真をアップして父の昔話を思い出した。
あと半年戦争が長引いていたら学徒出陣に引っかかって戦地だったはずの父。
だから軍服姿の写真がないことが嬉しい。
大学は出たものの、戦後の混乱期で就職した貿易会社は半年でつぶれ、海外赴任の話もパー。
横浜の歯ブラシ工場でアルバイトをした。回収されてきた古歯ブラシを洗浄漂泊して毛先を整え箱詰めをする。
今じゃ考えられない衛生観念(笑)
治安が悪く、懐には皆、護身用のナイフを持ち歩いていたそうだ。
その道の男たちはチャカ(ピストル)を当たり前に持ち歩いていたそうで。
危険と混沌と、そしてエキサイティングがないまぜな港町で
数年そうやって日銭稼ぎと遊びと、ふらふらした後、地元に帰り地方官吏になった。
後年の、公務員気質ばりばりだった父からは想像できない昔話に、
ほえ~、ふ~んと聴き入ったのは、亡くなる数か月前の病床で。
あの頃は日が暮れるまでよく話した。
話せてよかった。
今日は、亡き母の誕生日。
というわけで、彼女の若かりし日の一枚。
保存が悪くて、しみもちらほらだけど、
どこかの録音室らしく、前方にマイクが。
へぇ、こんな仕事もしてたのねぇ、独身時代。
かえるのこは、かえるってことか。
はっぴばーすでぃ、ママ。
声がそっくり、ってよく言われたよね、わたしたち。
実家で同居していた養祖父。小中学の教員だった。
最後列左から二番目。
祖父の年齢からして、前列の児童は今は80歳代であろう。
上の息子の出産間際、亡くなって久しいこの祖父が夢の中で、汗をびっしょりかいて玄関に訪ねてきてくれた。
その子が今中学の教員をしている。
大学受験間際に急に思い立ち理学部から教育学部に進路変更をした。
この祖父が息子の指導霊になってくれているような気がしてならない。
短歌を愛する歌人でもあった。まるで引き寄せてくれたように、短歌のまちに居を構えることになり、毎年全国短歌フォーラムの司会をさせていただいている。
祖父の遺した書籍はほとんどが、塩尻短歌館ゆかりの歌人のものだ。
わたしたちが縁のない土地と思っていたこのまちで暮らすのは、必然なのかもしれない。