のんこ昔ばなし

隠れ家的な。

桔梗ヶ原ものがたり2

2015-09-01 00:34:21 | 昔の本

 


民の命を救う薬草の栽培は長く続き大正の初めまで残っておりました。

さて、みそぎを終えた桔梗ヶ原の地には、明治に入っていよいよ開拓の手が入ることとなってまいります。

まずは、明治2年に平出村から単身で桔梗ヶ原へ移住し開拓を始めた田中勘次郎

続いて藤原義右衛門(ぎえもん)

さらに里山辺から入植した豊島理喜治は20種余りのブドウ3,000本を植えました、これが当地におけるブドウ栽培の始まり。

明治41年には、諏訪地域から入植した小泉八百蔵がコンコードの栽培を開始。山梨から学んだ「棚造り」を導入。

さらに平野村(岡谷市)から入植して果樹栽培を始めた林五一は、1918年(大正7年)から本格的にワインの醸造を開始することとなりました。

次々と外から入植者が入ってくることができた背景には、

お国の政策で分割払い下げを受けた平出や床尾の所有者が、

おうように、この土地を入植を希望する人たちに売り渡してくれたことに起因します。

当時の入植者の名簿を見ますとそのほとんどが近隣の村ではなく、少し離れた土地の人々。

諏訪辺りからが多かったようです。

地元のものは長らく開墾がかなわなかった不毛の土地、「無用の長物」と思っていたのかもしれません。

土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、

苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない、

この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。

その紆余曲折は、また次回。

つづく


  
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桔梗ヶ原ものがたり 1

2015-08-31 14:31:07 | 昔の本

 

かつて戦場であった桔梗ヶ原。
幾多の開拓計画がとん挫したあと、
その大地は、その地についえた命の数を超えて
人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。
葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。



「桔梗ヶ原ものがたり」1

その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく人類の棲息をも許さなかった、この土地、桔梗ヶ原。

桔梗ヶ原周辺、平出には、すでに縄文文化以来の古い集落もあり、早くから人々の生活が営まれていたにもかかわらず、この桔梗が原は原野のまま長らく取り残されておりました。

が、しかし。

いまや全国有数のブドウ生産地としてその存在を認められるに至り。

点在するワイナリーの知名度も年々その勢いを増しております。

本日は、ここにいたるまでの、先人の開拓の歴史、かいつまんでしばし語らせていただきます。

桔梗ヶ原の地名が登場する文献といたしましては、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されております。

その後行くたびかこの地はいくさばとなっておりましたが。

ただ、つとに伝えられております、「天文年間における武田、小笠原両軍のいくさ、桔梗ヶ原で大激戦」という伝承には誤りがございます。

実際にはこの戦は塩尻峠を介したものでございましたが、のちに山本かんすけらの子孫が、父祖の功績を誇張して伝えんがため書かれた武田3代記の中に、この桔梗ヶ原の名をつかったものでそれがまことしやかに今に残っているのだそうでございます。

この桔梗ヶ原という名称の由来は定かではありませんが、いくつかのいわれが残っています。その代表の二つ、
かつて経典を携えた僧侶が京都から善光寺に向かっていたとき、連れてきた牛が当地で倒れてしまい、「帰京」を余儀なくされたことから「キキョウ」の名が付けられたとする伝承、
また、原野にかつては多くの桔梗の花が咲き乱れていたとする説が有力とも言われています。

まぁ、桔梗は市花でもございますし、思い浮かべる原風景といたしましてもこちらのほうを採用いたしたい想いもございますが、みなさまはいかがでしょうか。

さて、江戸時代に入りまして1700年(元禄13年)、松本藩はこの桔梗ヶ原の開拓を命じます。

ところが、このころは近隣の村々の、いりあいのまぐさばとしてなくてはならない原野となっておりましたので、各村民の反対が強くそのおふれは中止となりました。

以後、1742年(寛保2年)、塩尻陣屋代官・山本平八郎が開発を計画いたしましたが、今度は松本藩も一緒になって農民らと幕府への直訴、計画中止。
1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、これも間もなく立案者の死去によって頓挫してしまいました。

あたかも、この地を開拓してはならぬという玄蕃の丞の念でございましたでしょうか。あるは合戦の地となった因縁か・・。

が、しかし。

幕末のころに、平出の川上なにがしが道筋に薬草を植えたのを始まりに、この原野はまたたくまに薬草の栽培地となりました。

当帰、黄芩(おうごん)茴香(ういきょう)等の種類で、その強い香りは中山道を往来する人々の鼻をついたほどとなりました。

戦場として多くの命がついえたこの土地は、

その数以上の人々の命を救う薬草の大地として浄化されていったのでございます。。。。。

つづく

(昭和27年発行 「桔梗ヶ原」より語り台本を作成)

 



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大東亜宣戦大詔謹解 福手久隆 昭和17年

2013-03-10 12:44:14 | 昔の本

日支事変より4年半。

昭和16年12月8日発せられた、開戦の詔の意味解説書。

翌17年2月に発行されている。

発令後、天皇のお言葉が難しすぎて大多数の国民が、どう読むのでしょう、どういう意味なのでしょうと問い合わせが相次ぎ

解読本の発行となった。

解説者はあとがきに、こう書いている。

『さるにても諸君よ、開戦と同時に我が陸軍、海軍、空軍のまざましき活躍は何と評すべきか、古今東西実に較ぶべきものなく。

世界中、皆、舌を巻きて驚嘆し人間業に非ずというてをるではないか。が、諸君よ、是は皆、平素の命がけの訓練と錬熟との賚(たまもの)ではないか。命を棄てて国に殉じたる故ではないか。

そこで百僚有司に立つ人も、一般の庶業に従事する人も、皆、命を棄てて国に殉ずるという心で一致協力、夫々の道に躍進すれば、戦争が長引いて五年となろうが、十年、百年となろうが決して恐る事はない、必ず最後の勝利が日本に在るに決まって居るのだ。』

<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/34/402cf3ba214797ac9a06b739d9baedb9.jpg">





 

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昭和七年十月号主婦の友

2013-01-25 12:07:49 | 昔の本

昭和七年十月号 主婦の友 付録。

 

「冬物の和服裁縫」 100ページにわたりカラーで「今流行の和服一切の写真畫報」があり。

続いて、寝具、長着、羽織、袴、帯、水着に至るまで、和裁の仕立て方が載っている。

 もちろん旧仮名遣い。

はさみ広告も趣があり。 「脚気はこれに限るよ」とある。まだ脚気が国民病だった時代か。

「便秘がこれいっぱいで直ったよ」ともある。

今も昔もこのニーズは不変だね。 

 

 「ごらんあそばせ」のキャッチコピーがいい。
言ってみたいw。

 

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