民の命を救う薬草の栽培は長く続き大正の初めまで残っておりました。
さて、みそぎを終えた桔梗ヶ原の地には、明治に入っていよいよ開拓の手が入ることとなってまいります。
まずは、明治2年に平出村から単身で桔梗ヶ原へ移住し開拓を始めた田中勘次郎
続いて藤原義右衛門(ぎえもん)
さらに里山辺から入植した豊島理喜治は20種余りのブドウ3,000本を植えました、これが当地におけるブドウ栽培の始まり。
明治41年には、諏訪地域から入植した小泉八百蔵がコンコードの栽培を開始。山梨から学んだ「棚造り」を導入。
さらに平野村(岡谷市)から入植して果樹栽培を始めた林五一は、1918年(大正7年)から本格的にワインの醸造を開始することとなりました。
次々と外から入植者が入ってくることができた背景には、
お国の政策で分割払い下げを受けた平出や床尾の所有者が、
おうように、この土地を入植を希望する人たちに売り渡してくれたことに起因します。
当時の入植者の名簿を見ますとそのほとんどが近隣の村ではなく、少し離れた土地の人々。
諏訪辺りからが多かったようです。
地元のものは長らく開墾がかなわなかった不毛の土地、「無用の長物」と思っていたのかもしれません。
土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない、
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
その紆余曲折は、また次回。
つづく