のんこ昔ばなし

隠れ家的な。

桔梗ヶ原ものがたり 4

2015-09-12 17:59:43 | 昔話

 

前編はこちらから。
2015/09/08
桔梗ヶ原ものがたり3
前編はこちら。2015/08/30桔梗ヶ原ものがたり2前編はこちら2015/08/28桔梗ヶ原ものがたり 1かつて戦場であった桔梗ヶ原。幾多の開拓計画がとん挫したあと、その大地は、その地についえた命の数を超えて人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。…




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さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。

桔梗ヶ原がひとつの区として独立する前では、この地は平出と床尾に分散されておりました。

いきおい平出と床尾の衆は、なにかとライバル意識が働いて、小競り合いがおおございました。

それをおさめたのが、桔梗ヶ原神社でございます。

桔梗ヶ原神社は大正15年に建立されましたが、それ以前には玄蕃稲荷の小さな祠がぽつんと芝草の上にあるだけでした。

この祠は当時平出の地籍でありましたので平出の衆が祭典を行っていました。

あるとき、親睦をはかることを目的としてこの祭りに平出、床尾の衆が双方寄り集まって酒宴を張りましたところ、酔いが進むにつれ日頃のうっぷんがわき出でて。

とうとう乱闘騒ぎになる始末。以来床尾の衆はこの祭りにいっさい足を運ばなくなる事態に。

子どもらは、境を関係なくまつわって遊んだものでございますが、喉が乾けばにごり水といえど井戸の水に手を伸ばします。

それを「床尾の水を飲むじゃねえ!」 と大人にまくられたこともあったわね、との思い出話も御年配よりお聞きしました。

入植者はその境界によって平出、床尾に分散されておりましたので、

内心は「困ったねぇ」「一緒に頑張って開墾した仲間なのにねぇ」とその争いを憂いておりました。

そうしたこともあってか、大正12年、分断されていた桔梗ヶ原は、平出、床尾からそれぞれに離脱し、単体で桔梗ヶ原区とあいなりました。

がしかし、わだかまりはまだくすぶり、対立意識は残っておりました。

それを一掃したのが、桔梗ヶ原神社の建立でございます。

当時の資料には、その対立を緩和するためにも神社の建立が不可欠との、顔役たちの想いが強く書かれております。

果樹生産地として、作神が必要と篤志が建立に尽力を図ったことにより、

この農村地帯を一体とする神様をまつる神社となり、こまかな地籍を関係なく自然とみながお参りするようになり、ともに祭典を行うようになりました。

そして、神社建立は平出の衆が、深層井戸の掘削は床尾の衆が受け持ち、桔梗ヶ原として独立した移住の民を隣人として改めて受け入れてくれたのでございます。

その後は、もともとは移住者の集まり、土着の古いしきたりやしがらみのない開拓民のまちとなった桔梗ヶ原は、その開拓魂ととともにさらなる発展を遂げてまいりました。

前例びいきをもたぬ開拓者ならではの冒険心、やってみてダメならこだわらずに次!そのこだわりのなさが功を奏したわけでございます。

     ***************************************************

桔梗が原神社には、生産の神とともに、今も玄蕃の丞の祠がちゃんとおいでなさいます。

一昨年には、駅前に設置されておりました玄蕃狐の石像も寄贈され、名実ともに、「桔梗ヶ原の玄蕃の丞」の神社としてこの地を見守ってくださっております。

お参りの際は、本社、向かって左に進みますれば、この鳥居。

この先に玄蕃稲荷がございますれば、ぜひ、お参りのほどを。



<終>
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桔梗ヶ原ものがたり 3

2015-09-08 22:37:51 | 昔話


土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、

苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない.

この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。


全国における果樹栽培地の成功例をみますと、どの土地もなにかひとつよい条件を持っていることが分かります。

一つも条件がそろわぬ桔梗ヶ原の地に果樹栽培が成功したのは異例中の異例、と

昭和29年に調査に入った名古屋大学大学院の教授がその調査論文を書かれております。

とはいえ、いまのように初めから一面ブドウ畑だったわけではございません。

(明治39年)には諏訪から入植したものが、養蚕業を広めたことでクワ畑が一時急増したが、

1920年(大正9年)の不況で衰退してしまいました。

また、大正にはいりまして鉄道が引かれたり、道が良くなってまいりますと、さまざまな野菜を栽培し

特にキャベツは貨物列車で県外にも出荷するほどでございました。

またヤギを多く飼い、その乳を塩尻、松本に配達販売をしていた人もあったそうです。

そうして試行錯誤をしながら、徐々に技術の進歩とともに土壌の改良がかない、

今の繁栄を手に入れていったのでございます。

とくに水の確保が一番の課題でした。

井戸はいくつも掘りましたが、なかなかに良い水が出ず、枯渇も多かったので使い勝手が悪く。

そのうちに、1人が始めてみて、おお、これはいいと、雨水をためるタンクを各家々が持つようになり。

もっぱら井戸水よりも雨水の利用が主流を占めるようになりました。

また開花時や結実時期の遅霜も天敵で。

夜を徹して、畑のそこここに焚き火をし、霜を防いできたとのこと。

車が普及した頃には、もらいうけた古タイヤが程よくくすぶって有効だと、タイヤ火を使う農家が増え。

旧塩尻から、桔梗ヶ原を見降ろすと、その上の空が黒々と大きな柱がたつように黒煙が包んで見えたそうです。

今なら環境問題で大騒ぎになりそうおはなしです。

当時農家の子どもだった方々のなかには

「窓を閉めて寝ているのに、朝、鼻をかむと、黒い鼻水がでたものだ」と述懐なさっていました。


さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。

いろいろと小競り合いも出てまいります。

その収拾に一役買ったのが、「桔梗ヶ原神社」の存在。

以下、つぎのおはなしに。

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桔梗ヶ原ものがたり2

2015-09-01 00:34:21 | 昔の本

 


民の命を救う薬草の栽培は長く続き大正の初めまで残っておりました。

さて、みそぎを終えた桔梗ヶ原の地には、明治に入っていよいよ開拓の手が入ることとなってまいります。

まずは、明治2年に平出村から単身で桔梗ヶ原へ移住し開拓を始めた田中勘次郎

続いて藤原義右衛門(ぎえもん)

さらに里山辺から入植した豊島理喜治は20種余りのブドウ3,000本を植えました、これが当地におけるブドウ栽培の始まり。

明治41年には、諏訪地域から入植した小泉八百蔵がコンコードの栽培を開始。山梨から学んだ「棚造り」を導入。

さらに平野村(岡谷市)から入植して果樹栽培を始めた林五一は、1918年(大正7年)から本格的にワインの醸造を開始することとなりました。

次々と外から入植者が入ってくることができた背景には、

お国の政策で分割払い下げを受けた平出や床尾の所有者が、

おうように、この土地を入植を希望する人たちに売り渡してくれたことに起因します。

当時の入植者の名簿を見ますとそのほとんどが近隣の村ではなく、少し離れた土地の人々。

諏訪辺りからが多かったようです。

地元のものは長らく開墾がかなわなかった不毛の土地、「無用の長物」と思っていたのかもしれません。

土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、

苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない、

この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。

その紆余曲折は、また次回。

つづく


  
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