NORIKO HIRANO ひらののりこ  

Composer, Arranger, Pianist
作・編曲家、ピアニスト
 

日中ハーフの二胡奏者、王侃(ワンカン)さんの生い立ち

2012-10-10 14:53:48 | 音楽
昨日は二胡の王侃さんのコンサートで伴奏をしてきました。

王さんの生い立ちについては今まで本人から少しは聞いていましたが、きちんと文章で読んだことはありませんでした。
今回はプログラムに載せてありましたので、それを転載させていただきます。

戦前、満州の開拓団として日本から中国へ渡った王さんのお母さんのこと、日中のハーフとして戦後とても苦労したこと、生きていくために二胡で人の心を掴まなければならなかったこと、そういった様々なことが、今の王さんの深みのある音色にあらわれていると思います。


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~王侃の生い立ち~


 
 私、王侃(ワンカン)は、1954年中国鞍山市に生まれました。
父は中国人で技術者をしていました。母は日本人です。
母は日本で育ちましたが、中国に移住してから、片言の中国語にも関わらず自治会の会長を務めるなど、その町でも一目置かれる存在でした。両親はとても仲がよく、父は特に姉の教育に熱心でした。

1958年、私が4歳の時、父は政治犯として刑務所に入れられました。もちろん、父は何も罪を犯していません。その日から父にはほとんど会えなくなりました。母の自治会長の仕事もなくなり、3人で家財道具を売りながら生活を始めました。

もちろん、すぐに家財道具も底を突き、母は新しい仕事を見つけて働かなくてはなりませんでした。母は聡明な人で、看護師の資格も持っていましたが、中国語があまり得意ではないことと、日本人ということで、働き先を見つけるのは容易なことではありませんでした。仕方なく母は、道路工事などの重労働を始めました。

 そんな生活の中で、4歳の私の面倒をみてくれたのは、8歳の姉でした。私の右耳は、生まれつき聞こえません。姉は、バイオリンを毎日弾いていたのですが、私に大正琴・ハーモニカを教えてくれるようになりました。5歳になると、尺八・篠笛。6歳になるとバイオリンを教え始めました。姉は、まだ6歳の私に、音階や、基礎の練習をたくさん教えてくれました。

 私も小学生になりました。相変わらず母は一日中外で働いているので、私の世話や、料理・洗濯などの家事はすべて、姉がしてくれました。そんな姉は、小学校の生徒会長でもありました。
 その時代の思い出の一つに、毎朝10時から始まるラジオ体操があります。3000人の生徒の前で、姉は指揮者を努めるのです。そんな姉が私の自慢でもありました。
 その年、姉は私に二胡を教え始めました。姉はバイオリンしか弾いたことがなかったのですが、「劉天華」の楽譜を持ってきてくれました。私は、楽譜はもちろん読めなかったので、自力で数字譜を勉強しました。そして歳を重ねるごとに、私の二胡は少しずつうまくなりました。

 家の生活の方は、だんだん苦しくなっていきました。食事は1日1食でもあればいいほうです。もちろん、その時代の中国は全体的に貧しかったですが、王家は特に大変でした。父はいなく、母は日本人でしたから・・・。

 しだいに私は、二胡や笛など、路上で弾くようになりました。それを聴いた人々が、さつもいもなど、少しばかりの食料を置いていきました。夜寝る時は、1枚の布団に3人が入って寝ます。冬になると氷点下20度にもなる生活でしたが、母と姉は私を真ん中にし、寒さから守ってくれました。

 私は日本人の血が流れていて、政治犯の息子とされているわけですから、中学校に上がることは許されませんでした。11歳になると、私は米の売買を始めました。そして、相変わらず路上で二胡や笛を吹いては、少量のお金や食料をもらっていました。

 1966年4月、中国では文化大革命が始まりました。あちこちでプロの楽団が結成し始めました。私も二胡の奏者としてスカウトされ、12歳でプロデビューしました。1966年9月より、全国各地をコンサートでまわり、私の名が各地に知れ渡るようになりました。その頃、お金持ちの人々は、私の家に来たり、私を呼んだりしては、個人コンサートを楽しみました。

 13歳の夏、突然事件が起こりました。その日、私は、舞台で「北京太陽」を演奏していました。演奏が終わり舞台を降りると、私の元に共産党幹部の人たちが近づいてきて、私にこう言いました。「これより、二胡を演奏したら刑務所行きだ」と。想像もできない、あまりに急な出来事でした。私はその瞬間から1971年まで、二胡に触ることがありませんでした。
 二胡を弾くことができない間は、私はトランペット・揚琴・アコーディオン・声楽・作曲などを独学で勉強しました。

 その頃さらに追い討ちをかけるかのように、非常に残念な出来事がありました。姉が病気になってしまったのです。21歳でした。姉はバイオリンを弾けなくなりました。

1971年、4月1日。私たち家族は、住み慣れた土地から追放されることになりました。しかしそれは皮肉にも、監視の目から離れることができ、二胡を弾くことができることを意味していました。

 私は姉の病気の治療の為、姉と一緒に吉林省四平に住む親戚の家に助けを求めに出かけました。その土地まで電車で12時間。遠く遠く離れた場所です。

 無事、親戚の家に到着し、叔父(父の弟)に会うことができました。しかし、叔父に助けてもらうことはできませんでした。叔父は、共産党の人民解放軍師団長だったからです。それどころか、病気の姉の姿を見ても、親戚と認めてさえくれませんでした。
 私たちは途方にくれました。叔父が助けてくれ、お金を貸してもらえると思って出かけたので、片道分の切符しか持っていませんでした。
 私は四平駅で二胡と横笛を演奏し始めました。二胡は「二泉映月」。横笛は「騎兵行進曲」という曲です。私は聴いてくれる人々に事情を説明しました。四平駅は大きい駅なので、私の演奏を聴く人は1000人を超えていました。人々は涙し、お金を与えてくれました。その中には、四平駅の駅長や車掌たちもいました。そのお金は、なんと、120元(その頃の3ヶ月分の給料)が集まったのです。それで無事帰ることができました。


1973年10月 52歳の父が出所
1973年12月 姉が亡くなる
1974年11月 父が出所後わずか1年で脳梗塞により亡くなる


1977年、私と母は日本に帰る決心をしました。中国の生活に慣れていた私は、日本に来てからしばらくは、毎日中国に戻りたいと考えていました。鞍鋼楽隊の隊長でしたので、楽団のことも大変気になっていました。しかし、時間が経つにつれ、毎日の生活で精一杯だった私たちは、だんだんと日本の生活に慣れていきました。

(諸事情の為一部省略)


 私の人生で、二胡やその他の楽器は、何度も私を助けてくれました。強い母、優しい姉の口癖は、「学校に行かなくてもいいから、二胡だけはうまくなりなさい」でした。
 そして私は、二胡が上達するように、人一倍努力しました。

 生きるため。とにかく生きるために。



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以上、王侃さんが口述し、生徒さんが編集したものです。



王侃さんのHP
http://www.wb.commufa.jp/wang_kan/index.html



 


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