昨日、花祭りに行ってきました。
花祭りというのは、愛知県の奥三河に伝わる霜月神楽のことです。
私が神楽を見に行くのは人生でまだ2度目です。
初めて行ったのは昨年の下栗(長野県の南)。
神楽研究家の三上敏視さんのツアーに参加しました。
その時私は、世の中にこんな音楽があったのかと、かなり驚きました。
価値観の崩壊といっても良いくらいの衝撃でした。
実は私はこの年になるまで、まともに祭りの音楽を体験したことが無かったのです。子供の頃から商業音楽にどっぷりで、キャンディーズ、ピンクレディー、聖子ちゃんあたりが私の音楽の源だったりするのです。
自分がやってきた音楽はポップスやジャズ系のものが多くて、一般的構成は「Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ」で起承転結するようなものでした。
ところが祭りの音楽はこの概念と全く違う。
ほんの3音くらいでできた単純なメロディーを延々繰り返す。
その中で緩急がある。
舞いもほとんど同じ振りを延々繰り返す。
私は和太鼓の人たちと10年くらい前から共演しているのですが、初めの頃は本当に驚いたことがあります。
篠笛の人が何人かで同じメロディーを吹くのですが、皆ピッチが少しずつ違うのです。最初は、「な、なんだ、これ~~~、ぎゃ~~、気持ち悪い!頭痛がする~~~」という感じでした。
普通、西洋音楽ならピッチを合わせるのにかなり神経を使います。
少しでも違うとキッと睨む人もいます。
この気持ち悪さは10年経っても慣れませんでした。
ところが三上さんはご自分が演奏する時、ピッチがぴったり合っているので
「合い過ぎて気持ち悪い」と言って、わざわざずらしたのです。
これはもうショッキングな出来事でした。
合っているのが気持ち悪いとは・・・。
これは西洋音楽とはもう真っ向から対立する概念です。
私の中で引き裂かれるような二つの価値観が生まれてしまいました。
ズレているのを美とすれば、多少のピッチの違いを許す感覚が自分の中にできてしまいます。でもそれでは普段私がやっている音楽では、音楽を成り立たせることすらできません。
これはどうしたものか・・・。
この苦しみが、今私の中にあります。
でもこういう価値観の崩壊は、自分にとって良いことに違いないとも思っています。崩壊の先に、もっと豊かな世界を作る可能性があるかもしれないと。
私はずっと音楽の源泉みたいなものに触れたいと思っていました。
なぜ人は歌を歌うのだろう。
なぜ楽器を奏でるのだろう。
なぜ踊るのだろう。
その根源的な理由が知りたかったのです。
その答えが神楽の中にあるような気がしています。
神楽には儀式の要素が大きくあります。
下栗の場合は、神仏混淆の時代の名残で、両方の儀式を執り行います。
花祭りの場合は、神事のものと仏事のものと両方のものがあるようです。(奥三河で何箇所もある)
そしてその中身は、「神招き-神懸かり-神わざ-神返し」という流れがあります。
全国の神楽で神懸りというのはあったようですが、明治時代に「神懸り禁止」されたそうです。
こういう祭りの音楽を生まれた時から毎年毎年経験している人たちは、心の
中はどうなっているのだろうと、とても興味があります。
小さな子供が大人と一緒になって、「てーほへ てほへ」と歌っている場面をたくさん見ました。舞子は小さい子で恐らく2歳くらいの子がいました。
夜中1時半頃、最も小さい子供たちの舞が始まります。
きっとこの子たちはその前に寝かせられ、この時間の少し前に起こされて、衣装を着けられ、訳がわからない状態で舞をやらされてるんじゃないでしょうか。
夢か現かわからない状態で。
この「夢と現の間」というのは、幽体離脱しやすかったり、神懸りしやすかったりする状態だと思います。
ですから、見ていると不思議な感覚になります。
もうひとつ感じたのは、神楽はあらゆる年代の人が一緒に楽しめるものだなあということ。
小さな子どもの舞の後ろでは、白装束のじいさん(もう今にも昇天しそう)が太鼓を叩き、中年の男女が笛を吹きます。
大きいお兄さんたち(20代の若者)は、子ども一人に一人ずつ付いて、指導しながら見守ります。時々エネルギー補給の為か何かわかりませんが、お兄さんたちが舞っている子どもの口の中にみかんをほおりこんであげます。
地元の若者たちは舞子を盛り上げる為に(ただ楽しいから?)、「てーほへ てほへ」と大声で歌い、独特のステップを踏みます。恐らく20年以上やってきたからでしょうか、その歌やステップは年季が入っていて、心も体もどっぷりと音楽の中で陶酔しています。
なんだか本当に豊かだよなあ。
こんな豊かな世界があったんだなあ。
そんなふうに思った花祭りでした。
花祭りというのは、愛知県の奥三河に伝わる霜月神楽のことです。
私が神楽を見に行くのは人生でまだ2度目です。
初めて行ったのは昨年の下栗(長野県の南)。
神楽研究家の三上敏視さんのツアーに参加しました。
その時私は、世の中にこんな音楽があったのかと、かなり驚きました。
価値観の崩壊といっても良いくらいの衝撃でした。
実は私はこの年になるまで、まともに祭りの音楽を体験したことが無かったのです。子供の頃から商業音楽にどっぷりで、キャンディーズ、ピンクレディー、聖子ちゃんあたりが私の音楽の源だったりするのです。
自分がやってきた音楽はポップスやジャズ系のものが多くて、一般的構成は「Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ」で起承転結するようなものでした。
ところが祭りの音楽はこの概念と全く違う。
ほんの3音くらいでできた単純なメロディーを延々繰り返す。
その中で緩急がある。
舞いもほとんど同じ振りを延々繰り返す。
私は和太鼓の人たちと10年くらい前から共演しているのですが、初めの頃は本当に驚いたことがあります。
篠笛の人が何人かで同じメロディーを吹くのですが、皆ピッチが少しずつ違うのです。最初は、「な、なんだ、これ~~~、ぎゃ~~、気持ち悪い!頭痛がする~~~」という感じでした。
普通、西洋音楽ならピッチを合わせるのにかなり神経を使います。
少しでも違うとキッと睨む人もいます。
この気持ち悪さは10年経っても慣れませんでした。
ところが三上さんはご自分が演奏する時、ピッチがぴったり合っているので
「合い過ぎて気持ち悪い」と言って、わざわざずらしたのです。
これはもうショッキングな出来事でした。
合っているのが気持ち悪いとは・・・。
これは西洋音楽とはもう真っ向から対立する概念です。
私の中で引き裂かれるような二つの価値観が生まれてしまいました。
ズレているのを美とすれば、多少のピッチの違いを許す感覚が自分の中にできてしまいます。でもそれでは普段私がやっている音楽では、音楽を成り立たせることすらできません。
これはどうしたものか・・・。
この苦しみが、今私の中にあります。
でもこういう価値観の崩壊は、自分にとって良いことに違いないとも思っています。崩壊の先に、もっと豊かな世界を作る可能性があるかもしれないと。
私はずっと音楽の源泉みたいなものに触れたいと思っていました。
なぜ人は歌を歌うのだろう。
なぜ楽器を奏でるのだろう。
なぜ踊るのだろう。
その根源的な理由が知りたかったのです。
その答えが神楽の中にあるような気がしています。
神楽には儀式の要素が大きくあります。
下栗の場合は、神仏混淆の時代の名残で、両方の儀式を執り行います。
花祭りの場合は、神事のものと仏事のものと両方のものがあるようです。(奥三河で何箇所もある)
そしてその中身は、「神招き-神懸かり-神わざ-神返し」という流れがあります。
全国の神楽で神懸りというのはあったようですが、明治時代に「神懸り禁止」されたそうです。
こういう祭りの音楽を生まれた時から毎年毎年経験している人たちは、心の
中はどうなっているのだろうと、とても興味があります。
小さな子供が大人と一緒になって、「てーほへ てほへ」と歌っている場面をたくさん見ました。舞子は小さい子で恐らく2歳くらいの子がいました。
夜中1時半頃、最も小さい子供たちの舞が始まります。
きっとこの子たちはその前に寝かせられ、この時間の少し前に起こされて、衣装を着けられ、訳がわからない状態で舞をやらされてるんじゃないでしょうか。
夢か現かわからない状態で。
この「夢と現の間」というのは、幽体離脱しやすかったり、神懸りしやすかったりする状態だと思います。
ですから、見ていると不思議な感覚になります。
もうひとつ感じたのは、神楽はあらゆる年代の人が一緒に楽しめるものだなあということ。
小さな子どもの舞の後ろでは、白装束のじいさん(もう今にも昇天しそう)が太鼓を叩き、中年の男女が笛を吹きます。
大きいお兄さんたち(20代の若者)は、子ども一人に一人ずつ付いて、指導しながら見守ります。時々エネルギー補給の為か何かわかりませんが、お兄さんたちが舞っている子どもの口の中にみかんをほおりこんであげます。
地元の若者たちは舞子を盛り上げる為に(ただ楽しいから?)、「てーほへ てほへ」と大声で歌い、独特のステップを踏みます。恐らく20年以上やってきたからでしょうか、その歌やステップは年季が入っていて、心も体もどっぷりと音楽の中で陶酔しています。
なんだか本当に豊かだよなあ。
こんな豊かな世界があったんだなあ。
そんなふうに思った花祭りでした。
YOUTUBEであなたのピアノ拝聴いたしました。
感動致しました。厚かましいお願いですが
赤とんぼ、ふるさと、浜辺の歌、早春賦のピアノ伴奏を送っていただけないでしょうか?
こちらの日系老人ホームにて二胡を演奏することになりましたが、良いピアノ伴奏が見つからず困っていたところあなたの演奏を聴きお願いするしかないと思いました。南カリフォルニアの日系老人ホームにて演奏する予定です。
すみません。メールアドレスを書いておりませんでした。 無理をお願いして申し訳ありませんが宜しくお願い致します。
三恵子
伴奏の譜面の件、後ほどメールさせていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
譜面ではなく、音源ですね。