Northern Bear Spirit

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ジョアン・トリフソン インタビュー

2024-11-26 13:11:46 | ノート

ジョアン・トリフソン インタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=LjQs6g0n2Dc&t=295s

訳者から:
ジョアン・トリフソンは、私のすぐ近くにいてくれる覚者だと思う。 ラマナ・マハルシのような人はもう超人のような印象があって、私とはかけ離れた存在のような気がするが、この人はずいぶん近くにいてくれる。 
私たちは、昔から覚者にあこがれる。 そして何か通常では考えられないような事を、その人たちが起こすのを望んでいる。
水の上を歩いただとか、一度死んだとか、死者を生きかえらせたとか、そんなことをしてくれたら、もう最高なのだ。 だから、そこまではできないにしろ、腐ったものを食べても病気にならないとか、蛇にかまれても平気だとか、痛みを感じないとか、そんなことをしてくれるだけで、何か熱狂的な気分になる。 自分もこの人にあやかれば、この平々凡々とした自分が変わって、凄いことができるかもしれないなんて想像する。 一瞥体験をしたとか、第三の目が開き、超能力を身に着けたなんていう人はYoutubeにもけっこう登場する。 また覚醒した瞬間から、死ぬまで変わることのない至福感を保ち続けられると夢想する。 それはそれでいいのだが、これも自我の拡大の一形態であることに変わりがない。 オーム真理教の教祖は自分を最終解脱者だと言った。 覚者であることをアピールした人はその信奉者のためにそのイメージを演じ続けなければならなくなる。なかなかしんどいことだろう。 

私はこれらのことが全てインチキだと言っているのではない。 イエスは確かにそんな奇跡を起こしたのだろう。 そうでなければ、とっくに大衆に忘れ去られていたはずだ。 問題は、奇跡を起こす人の方ではなく、奇跡を望む人々の方にある。
 
ジョアン・トリフソンは曹洞宗に学んだ人だ。 そのため、「無念無想! カラスがカーと鳴いた瞬間に大悟した!」なんてことは言わない。 ましてや、覚醒したとか、見性したとか、純粋意識や真我のような言葉は遠ざけている。 道元自身がこういうことを諫めて、悟りを得るために坐禅をするのはだめよと言った。 
フツーに生きて、フツーに苦しんで、フツーに喜んで、フツーに失敗して、それでやっぱり普通の人とは全く違うのだ。 その微妙なところを、トリフソンは教えてくれる。 

トリフソンはまるでどこにでもいるアメリカのおばさん(今ではおばあさん)であるが、生まれた時から、片方の手が無く、若いころはドラッグ、暴力をふるったり、刑務所に入ったり、それでアル中になり、強迫的に指を傷つけるまで噛むという癖があった人だ。 

教えはとてもシンプルである。 それは非二元の要諦である、「無我」(自分は無い)ということに尽きるように思われる。 たったこれだけのことを、本当に極めていったらどうなるか、ということを身をもって我々に教えてくれる。

先日より、兵庫県の斎藤知事の件で、多くの人はずいぶん惑わされただろう。 私はもう、何が真実なのかわからない。 それと同じようなことをトリフソンはドナルド・トランプについても言う。   

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以下翻訳:

○ 導入

ジョアン・トリフソンを紹介したいと思います。彼女は、今ここにある、常に変化し、常に存在する生きた現実を生涯にわたって探求してきました。彼女の骨太のアプローチは、直接的で、現在の経験と意識的な存在の常に新鮮な生き生きとした状態に根ざしています。ジョアンの主な師匠は、よりシンプルでオープンな方法で活動するために伝統を捨てた元禅の師、トニー・パッカーでした。ジョアンは集まりを開催し、5冊の本の著者でもあります。『死』『自己改善の終わり』『掴むべきものはない』『道路の上で水で描く』『非二元性に関する講演と対話』『ハートランドの目覚め』『あるがままのエクスタシー』『骨組みだけの瞑想:私の人生物語への目覚め』です。

ジョアンは貴重な宝石で、私の新しい友人です。彼女と話すのは楽しかったです。彼女の生々しい正直さは新鮮で、私は彼女の本を何冊か読み終えたところです。それでは、ジョアン、ありがとう。ようこそ、ジョアン。

○ ジョアン・トリフソン:

こんにちは。私の声が聞こえますか?うまくいってる?たぶん、うまくいっていると思います。はい、うまくいっています。ああ、オーケー、よかった。オーケー、よかった。

こんにちは、エマーソン。ここに来られてうれしいです。私がこれから言いたいのは、哲学や信念体系のことではありません。
今ここで直接的に体験することです。これを探求し、これを楽しんで、これになることです。どこかに行くことや、何かを達成すること、何かを直すこと、何かになることでもありません。
今ここにあるもの、あるがままのことです。この瞬間のありのままの現実に同調すると。ありのままの現実とは、解釈する前の感覚的エネルギーの現実のことです。

ただ聞くこと、見ること、呼吸すること、感じること、この瞬間のありのままの現実です。それに同調すると、何に気づくでしょうか。

一つ気づくのは、すべてが変化しているということです。

実際、禅で言われているように、無常とは徹底して進んでいくことなので、実際には無常というものは存在しません。なぜなら、無常となるようなものは実際には決して形成されないからです。

流動とは、その徹底的な変化です。ですから、もちろん、家や山など、いくつかのものは非常にゆっくりと変化していて、私たちはそれに気づきませんが、実際には原子レベルでは常に変化しており、私たち自身も一瞬一瞬ごとに常に変化しています。

私たちの経験は変化し、考えは変化し、感覚は変化し、私たちの心が注意を払っているもの、注意の焦点は変化し、移り変わっています。

ですから、私たちは、継続的な徹底的な変化があることに気づきます。しかし同時に、私たちは、すべてが常に不変で、まさに今、ここに、この即時性、この存在性の中にあることに気づきます。

そして、それは常に動いているにもかかわらず、決してここから離れることはなく、まさに今、ここ以外の場所には決して行きません。ですから、それはちょっと興味深いことです。

また、私たちが注意を向けるもの、感覚、見かけ上の物体、思考、感情など、何であれ、注意を向けるものすべてに無限の変化があることにも気づきます。

本当に深くそれに心を開くと、それは無限で、続いていき、終わりはありません。

無限なのです。ですから一方では、形、色、感覚、形態、無限の変化があります。しかし同時に、すべてが1つの全体として分割されていない、シームレスな出来事として現れています。
映画と同じように、さまざまな形、色、形態、キャラクターなどがありますが、すべてが1つの動画、1つの映画として現れています。
そして、今ここにあるものも同様で、1つの全体としてシームレスな出来事です。
ですから、私たちはそれに気づくことができます。そして、実際の経験には内側も外側もないことに気づくことができます。
単に、自分の内側と考えるものと自分の外側と考えるものの境界がどこにあるかを探しても、実際には境界は見つかりません。
内側が外側に変わる場所を私たちは実際に見つけることはできません。
私の手は私の内側ですか? それとも外側ですか? それはあなたの内側ですか? それとも外側ですか? 私たちにはわかりません。
この声はあなたの内側ですか、それとも外側ですか? 私たちにはわかりません。
内側と外側、あるいは見かけ上のものと別のものの間には、実際には区別はありません。

私たちは、何かがそうではないとされているものから、何かを本当に切り離すことはできません。なぜなら、すべてのものは何らかの形で他のすべてのもので構成されており、実際の境界線はないからです。
また、決定や選択がどのように行われるかに注意を払えば、それらが自然に起こっていることにも気付くでしょう。
決定を下そうとすると、これをする、あれをするな、という矛盾した考えがあることに気付くでしょう。そして、これらの考えは私たちが起こしているのではなく、ただ起こっているだけであり、突然浮かび上がってくるのです。

そして突然、私たちは明らかに決定を下したようで、その決定的な瞬間をそれより早く起こさせることはできません。
それはすべて、驚くほど自発的に起こっているのです。
そして、私たちが自分を探すとき、振り返って、誰が話しているのか、誰がこれを言っているのかを見てみると、誰がこれらの言葉を言っているのかに再び注意を向けても、何も見つかりません。

彼らはただ口から出ているだけです。そして誰がそれを聞いているのでしょうか?

見てください。そこに誰かいるの?
私たちが自分を探すときに見つけるのは、思考、心象、感覚、常に変化するもの、そのような流れだけです。
しかし、私たちが見てみると、そこには本当に自分はいません。
つまり、私は何者でもなく、同時にすべてなのです。

この会議の名前と同じです。私は何者でもなく、すべてなのです。
ええと、もちろん、映画「ウェイクアップ・ライフ」では、私もジョーンとして、この特定のキャラクターとして登場しており、私たちは現実のその側面を否定することはできません。

現実、この生きている現実には、無限の異なる次元があるようです。
そして、特定の次元や視点に固執したり、とらわれたりしないことが非常に重要だと思います。
ですから、私たちは毎日の普通の生活を無視することはできません。
しかし同時に、私たちが実際に単なる経験のレベルでそれに注意を払うと、そこに存在すると思うものは、実際には何も見つけることができません。

私たちは、私やあなた、世界、世界の状況、これやあれやを実際には見つけることができません。

それは興味深いですね。
そして、何が起きているかに注意を払えば、習慣的な思考パターンが浮かび上がってくることにも気づくことができます。
たとえば、数年前に禅センターで初めて一日中座っていたとき、自分が抱いていたすべての思考が未来に関するものであることに気づきました。
それまで見たこともありませんでした。私は「わあ、これは本当にすごい」と思いました。すべての思考が未来に関するものなのです。
そして、そのパターンは魔法のように消えたわけではありません。
しかし、その瞬間から光が灯り、未来について考え込んでしまうたびに、すぐには見えなかったかもしれませんが、やがて気づくようになりました。
そして、その思考パターンがいかに魅惑的であるか、また同時に、実際にどれほど苦痛であるかに気づき始めました。

そして、おそらく10年後のある時点で、大きな閃きではなく、ある日、友人の教師トニー・パッカーが、母が亡くなったらどうするつもりかと私に尋ねました。
なぜなら、私はシカゴに引っ越して母の人生の終わりに一緒にいたかったからです。
そして、トニーは「母が亡くなったらどうするつもりですか?」と言いました。そして、私は「わあ、私はそれについて考えていなかった。私らしくない」という瞬間がありました。
つまり、そのパターンは、爆発的な瞬間ではなく、徐々に崩壊したのです。
つまり、起こっていることに注意を払うと、習慣的なパターンや、特定の性格が作り出す見出しや思考パターンに気づくのです。

私は決して理解できない、私は失敗者だ、人生を台無しにしてしまった、あなたは私の人生を台無しにした、あるいは、うーん、これは起こるべきではない、あるいは私たちのパターンが何であれ、それらを見ていくと、その支配力と信憑性を失い始めます。
それと同時に、感覚エネルギーの質感のレベルで、感覚エネルギーの現象として思考に注意を払うと、その思考に気づくことができます。

そのように思考に注意を払うと、それが信じられないほどはかないものであることがわかります。
それは、何かの小さな爆発のようなものです。 この小さな爆発は、ほとんど消えてしまいます。まあ、それが起こるとすぐに、パッと消えてしまいます。
そして、それはまるで無のようです。それでも、それは、信じられないほどリアルで信じられそうな、想像の中でこの映画や物語全体を作り出す素晴らしい能力を持っています。

ですから、多くの瞑想の伝統では、思考を敵または問題として見るように訓練されています。 私たちは思考を取り除こうとして多くの人が瞑想しているようです。

私は瞑想という言葉を使いますが、その言葉は実際にはあまり好きではありません。なぜなら、それは非常に多くの異なる意味を持つからです。

それよりも、「ただここにいる」ということです。 私たちの通常の忙しさや活動、会話、電話、その他すべてを脇に置いて、ただここにいて、起こっていることに耳を傾けるということです。

そして、それを操作したり、コントロールしたりしようとせず、ただあるがままに受け入れるのです。それがどんなものであるかに気づき、どんなものであるかを探り、どんなものであるかを楽しむのです。そうすると、思考が浮かんでは消えていきますが、それはこの瞬間に起こっている多くのことのうちの1つに過ぎないのです。

そして、私が見る限り、これが何であれ、何も排除されていません。
あるいは、1つのことを見つけて、他のすべてを取り除くことではありません。
何も排除されておらず、すべてが含まれています。私は、スピリチュアリティ、非二元などの言葉を使いますが、ある意味ではどれもあまり好きではありません。
私にとってスピリチュアリティは、何か神秘的なものや、物質とは対照的な精神などを意味するものではありません。
すべてがスピリチュアルです。
トイレもスピリチュアルです。
高速道路も、交通渋滞もスピリチュアルです。

私がそうであるように、すべてがスピリチュアルなのです。

スピリチュアルという言葉は、すべてのものの神聖さに気づくということです。
実際に見れば、すべてのものは非常に素晴らしく、美しいのです。つまり、私たちが何でもないと思っているもの、例えば古いティッシュをよく見てみると、驚くべき形や模様、影や光があります。

コップ一杯の水を見ると、さまざまな光や反射があり、何でもそうです。
私たちが当たり前だと思っているこれらの普通のもの、何もグランドキャニオンを見る必要はなく、すべてが素晴らしいのです。

そして、私としては、覚醒や悟りなどの言葉はあまり好きではありません。
時々使いますが、個人的には、すべてが劇的に変わるような大きな爆発的な瞬間を経験したことはありません。
混乱していたのに、突然大きな瞬間が訪れ、その後すべてが至福でいっぱいになるような経験は私はありません。 大きな瞬間を経験した人もいることは知っています。
しかし、いずれにせよ、私たちが経験するすべての経験は一時的なものだということです。

経験はその性質上、あっという間に消えてしまうのです。
ですから、スピリチュアルな世界では、私たちはしばしば、拡大や無限などの経験にとらわれてしまい、それが消え去ったように思えますが、実際には消え去っていません。何が起こるかというと、私や私たちが何であるかという物語が一種の注意を奪い、そして私たちはそれを失ったと考え、その経験に戻ろうとし始めるのです。

ですから、私が思うに、それはただの愚かな行為です。
これは、特定の経験をしたり、特定の状態に留まったりすることではありません。
それは、ただ今、ここ、あるがままに探求し、楽しみ、あるがままに存在することです。常に変化しながらも、常にここにあります。
そして、私が思うに、それは何かを求めたり、何かを獲得しようとしたりすることではありません。

それは本当に終わりのない探求なのです。ご存知のとおり、悟りや覚醒といった言葉は、私たちが越えようとしているゴールラインのようなものを示唆しているように思われることがよくあります。

しかし、それは非常に誤解を招く考えだと思います。
私はゴールラインがあるとは思いません。少なくとも私は見つけていません。
私にとってそれは、今ここにある、絶えず展開する、常に新しく、常に驚き、常に新鮮な生き生きとした状態です。

そして、覚醒や悟りといった言葉に関するもう1つの点は、私たちはしばしば、悟りを開いているとか、まだ悟っていないとか、個人的に捉える傾向があるということです。

しかし、よく言われるように、悟りを開いた人はいません。

つまり、もしこの言葉に何らかの意味があるとすれば、それは実際には分離がないという認識です。

悟りを得るために、他のすべてから分離している人はここにはいません。
そして、この想像上の私が到達し、永遠に留まるような、悟りと呼ばれる永続的な状態はありません。 それはまさに、見抜かれるものです。その見抜き方が悟りと説明されるかもしれませんが、それらの言葉を手放してしまった方が良いでしょう。

そして、ただ今ここにいるのです。 私はこれを修行とは考えていません。私はそれを楽しみ、探求だと考えています。そして、それが、私たちが可能な限り多くの時間を、生の感覚にただいることなどに費やすべきだとか、思考したり、空想したり、映画を見たりするべきではないと言っているわけではありません。

それは私が言っていることではありません。なぜなら、私は映画を見るのが大好きで、いつも独り言を言っているからです。 実際、時々私は少し異なるキャラクターを装って、想像上の対話をしています。 私は本当に、自分が少し狂っているのかも知れません。
しかし、だからと言って、私はこれらのことを否定しようとは思いません。これには絶対にすべてが含まれます。


○ 質疑応答

質問1: あなたのFacebookの投稿はトランプと彼が大統領になる未来を恐れているように見えます。 そのパターンに気づきましたか?
どうやって彼をあなたから切り離すのか?
これはすべて政治的じゃないですか? ドラマは実際には起こっていないのですか?

回答1: ええと、すべては、つまりより大きな意味では、私自身であると言えます。
トランプを含め、すべてを含めて。 
先ほど言ったのと同じように、何も本当に特定することはできません。
ドナルド・トランプも、他の人も、特定することはできません。つまり、彼は私たち全員と同じように、宇宙全体の他のすべてと切り離せない、常に変化する現象です。
しかし、私にとって、非二元性は、私たちがもはや意見や好み、または何に対する考えも持たなくなることを意味しません。
一部の人々のスピリチュアリティや非二元性に対する考え方は、すべてまたは何かに対して完全に中立になることですが、それは私の考えではなく、私の経験ではありません。
私には多くの意見があります。そして、私が気づいたのは、私たちは自分の意見を実際に選ぶことができないということです。
気候変動からワクチン、ドナルド・トランプまで、ほとんどすべてのことについて、私たちは多くの間接情報に依存していることに気付いています。
コロナウイルスについては、すべて間接情報に依存しています。私たちはすべて異なる情報源に依存してます。 そして、私が気づいたのは、信頼できる情報源を選択できないということです。 Qアノン(訳注:米国発の極右系陰謀論)などは信じられません。 それは起こりそうにありません。つまり、私たちには意見や好みがありますが、好みを選ぶこともできないのです。

ご存知のとおり、私は自分の性的指向や性別、アイデンティティを選択できませんでした。これらのものを選択することはできません。 私はドナルド・トランプが好きではありません。えっと、もし私が彼を個人的に知っていたら、彼は本当にいい人だったかもしれません。それはわかりません。 彼がしたことのいくつかには私が同意したり、私が同意したり、気に入ったりしたこともいくつかありましたが、大抵の場合、彼は非常に厄介で不安な人だと思います。
ジョー・バイデンは私の第一候補ではなかったのですが、彼に投票するつもりです。
でも、私にとっては、それはすべて含まれています。 結局のところ、私が気づいたのは、宇宙にとって何が最善なのか、私にはよくわからないということです。
私たちが気づき始めていることの1つは、確かに意見はありますが、宇宙にとって何が最善なのかはよくわからないということです。 そして、私はよく、誰もが知っている中国の古い農民の物語(訳注:塞翁が馬のことか?)を人々に思い出させます。

私たちは、何が何につながるのか、よくわからないのです。これで答えになっているか分かりませんが、これが私の回答です。

質問2: 最近のあなたの病気は、未来を考えるパターンを強めましたか?

回答2: いいえ、まったく逆です。
つまり、未来を考えるパターンは、先ほど言ったように何年も前に消えました。
シカゴに住んでいたとき、もう起こっていないことに気づきました。
未来について全く考えていないと言っているわけではありませんが、何年もの間のようにそれに執着していません。ええと、もちろん、時には実用的な方法で、未来について考えなければなりません。つまり、もしあなたが癌にかかっていたら、この治療やあの治療で何をするかなどを考えますよね。

でも、まったく逆です。むしろ、非常に深刻な癌を患ったことで、今ここにあるものの尊さにさらに目覚めました。 老齢も同じです。私は72歳で、それほど高齢ではありませんが、そろそろその年齢です。そして、死がすぐそこにあると気づき、目が覚めます。
そして、それで、私はすべてのものをありのままに、そして最も単純なものにもっともっと感謝するようになりました。

質問3: 禅を、人が見性や悟りを達成するという枠組みから教えるのですか、それとも達成すべきことが何もない非二元的な観点から教えるのですか?

回答3: そうですね。まず第一に、私は自分自身を禅の教師、あるいは教師とさえ、表現しません。教師という言葉は好きではありません。
私のいわゆる教師であるトニー・パッカーは、禅を離れた元禅の教師でした。
そして彼女は教師という言葉が好きではありませんでした。彼女は、教師と生徒、つまりサットサンの世界でよく見られるような、探求者と発見者という観点で考えることは、非常に分裂的で、誤った分離を生み出すと感じていました。
だから、私は実際、教師という言葉を単に実用的な意味で使うことはありますが、自分を教師や禅の教師だとは思っていません。
つまり、私は禅や、ご存知の通り、私が教えているものにとても共感しています。
私が聞いて理解した禅の本来の教えについてです。スティーブ・ハーゲンやメル・ワイツマンなど、多くの禅の先生と仕事をしてきました。ジョン・タラントもそうです。

私が数年前に関わった禅は曹洞宗で、そこでは見性や悟りなどについて語られません。
ただここにいて、ただ座っているだけです。私が出会った禅では、見性体験のようなものを強調しませんでした。そして、ただ、あるがままに気づくことだけを重視していました。それが、先ほど言ったように、私が強調していることです。
そして、これがすべてであり、この生きている現実をどのような概念的枠組みにも当てはめることはできません。
ですから、選択の余地がないとか、自己がないとか、達成すべきものがないといった、これらすべての指標に、(これらはすべて指標ですが、)それにとらわれてはいけません。

なぜなら、ある意味では、あるように見えるものがあれば、それは、見かけ上の時間にわたる旅やプロセスのようなものです。

そして、物事は変化し、進化し、ある意味では良くなるか、あるいは何であれ、選択をしているように見えます。そして、私たちがどのように機能するかは、ある神経科学者が選択をする神経学的感覚と呼んだものを通してです。

つまり、これらすべての指標は、何かを指し示していますが、それにとらわれてはいけません。
なぜなら、禅の偉大な公案があり、禅師と弟子が葬式か何かをしに行き、弟子が棺を叩いて「生きているか死んでいるか」と問い、禅師は「私は言わない、言わない」と言うからです。
結局のところ、何かが何であるかを本当に言うことはできないのです。それでも私たちは話します。なぜなら、それは起こっていることの一部だからです。
宇宙が私たちを通して、私たちにしていることの一部です。ですから、私たちは何かを言いますが、私たちが言うこと、説明、概念、解釈はどれも現実ではないことを理解することが重要です。

古いことわざのように、地図は領土ではありません。地図は役に立ち、マッピングはこの全体性が行うことです。しかし、地図はそれが表すものではありません。
言葉が表すものではないのと同じです。水という言葉は水ではありません。だから、それが私の回答かどうかわかりません。

質問4: あなたの死に関する本はとても良いと思います。 
臨死体験や死後の世界、生まれ変わりについて何か考えはありますか?

回答4: ええ、本に書いたように、私はそのどれも信じていません。
つまり、私は臨死体験は本当の体験だと信じていますが、人が本当に死んだ後に本当に起こるのかどうかは疑わしいです。
臨死体験とは死ではありません。 輪廻転生は、私が仏陀の教えとして理解していたことの誤解だと思います。ええと、私は、仏陀は天国や地獄のような考え方を大衆に教えてはいなく、微妙な本当の教えではないと思います。
ここには何も存在しないと思います。ここには、新しい生命に生まれ変わるような、確固とした永続的な実体を見つけることができません。
ですから、輪廻転生はないと思います。だからといって、死ですべてが終わるわけではありません。このすべてが何であれ、始まりも終わりもありません。
そして、ジョーンと呼ばれるこの見かけ上の形を、ジョーン以外のすべてから切り離すことはできません。
そういう意味では、終わりはないのです。でも、死後、何が起こるかはわかりません。私はまだ死んでいません。だから、本の中で言ったように、驚くかもしれませんが、白い光に向かって長いトンネルを進んでいくか、地獄に落ちていくか、何かに気づくかもしれません。そういうことが起こるかもしれません。でも、それは私が予想していることではありません。死は、夜眠ったり、麻酔をかけられたりするのとほとんど同じことだと思っています。麻酔をかけるたびに、意識がなくなるのを感じます。麻酔をかけるたびに、その考えが浮かびます。 実際、私はたいていそれを声に出して言います。さあ、行くぞ、と言います。麻酔をかけたらどこに行くのか、どこかに行くには誰がいるのか、などです。つまり、深い眠りの中にも何かが残っているということです。

深い眠りの中にも意識があるのです。アラームが鳴れば聞こえます。でも、死後には何が残るのでしょうか?
意識は、ご存知の通り、一つの普遍的な意識なのでしょうか?
私たちはそこで多くの理論や考えに陥りますが、私はむしろ、実際に何なのかという単純な考えに留まりたいと思っています。
ここでは、意識とは何かを知っているからです。
意識とは何でしょうか? ご存知のとおりです。
つまり、一方では、意識は私たちの最も明白な直接的な経験ですが、それでもそれをつかもうとすると、それは何なのでしょうか? それと、ここにあるすべてのものとの間に境界はあるのでしょうか? それは何でしょうか? 
ですから、私は来世とか、そういうものをあまり信じていません。

質問5: あなたは、あなた自身のことを感じようとしています。 これはあなたにとって治療的なものですか?
すべてをさらけ出すことは、あなたの道の一部ですか? それは目覚めに役立ちますか?

回答5: ええと、私が言えるのは、それが私のやっていることだということです。
そして、もう一度言いますが、私たちが実際に何をするかを選択しているわけではないことに気付きました。
つまり、私は座って、本を書いて自分について多くのことを明らかにしようなどとは考えませんでした。それがただ起こったことです。
そして実際、長い間、私はそうしないようにしていました。なぜなら、自己がないという非二元的な考え、つまり、個人的な人格、個人的な生活は、すべて精神的に劣っていて、非二元的ではなく、やめたほうがよいという考えがあったからです。

だから、私は、絶対的な立場から話す教師たちを本当に羨ましく思っていました。
それで、私は、ストーマバッグ(訳注:オストミー手術を受けた患者が体からの排せつ物を収集するための使い捨て袋。)や人生の細かいことについて書いていたのです。

どうしてできなかったのか、実は当時はストーマバッグを持っていなかったのですが、とにかく、うーん、でもポイントは、うーん、まず第一に、私が言ったように、すべてがスピリチュアルで、すべてが非二元的であると考えていることに気づいたということです。

だから、いわゆる私生活を排除するものとは見ていません。そして、私が書いたものを気に入らない人もいますが、私が受け取ったフィードバック、つまり肯定的なフィードバックは、多くの人が、自分は一人ではなく、自分と同じことを経験している誰かがいると知ることで、とても解放されたと感じているというものです。

そして、それは私にとって興味深いことの1つでした。
うーん、私が最初の本「Bare Bones Meditation」を出版したとき、私が明らかにしたことが読まれた後、私は人類から排除されるのではないかと本当に思いました。

そして、私は自分自身をとてもとても変わっていると思っていました。
つまり、私は片腕のレズビアンで、リトリートセンターに住んでいて、そこでは私が唯一のゲイで、数少ない女性の一人でした。
そして、私たちは本当に違うと思っていました。そして、本が出版された後、ある男性から電話がありました。彼は、リトリートによく来ていた男性で、私とはまったく正反対の男性だと思っていました。大きく、神を信じるストレートな男性です。 彼は私に電話をかけてきて、ああ、ジョニー、君は私と同じだね。私たちはまったく同じだ、と言いました。私は、すごいと思いました。
そして、その後、私とはまったく違う人生を歩んできた人々から、その話を聞いたのです。

彼らは依存症に悩まされたことはなく、ゲイでもありません。彼らは私と同じ人生経験がないのに、それが自分たちの物語のように感じたと言っていました。
それで、私たちは時々とても違うように感じるけれども、共通点がたくさんあることに、ある種、目覚めさせられました。
そして確かに、私たちはみんな絶対にユニークで、私たち一人一人が絶対にユニークな道を歩んでいて、2つの雪の結晶が同じということはありません。
しかし同時に、人間として経験することには非常に多くの共通点があります。では、これをすることは私にとって治療的でしょうか?
私にはわかりません。つまり、これが私の仕事だということしか言えません。
そして、ええと、私は新しい本に取り組んでいないので、もう二度と書かないかもしれません。わかりませんが、ええと、ただそれが私の仕事のように思えます。

質問6: あなたの個人的な経験では、純粋意識の感覚はどのようなものですか?
それは体の内側ですか、それとも外側ですか?
オンオフですか、それとも安定していますか?

回答6: 純粋意識がどのようなものかはわかりません。
ええと、私が見る限り、先ほど言ったように、内側と外側の境界を見つけることはできません。永続的に安定する経験を見つけることはできません。しかし、私はそれが常にここにあり、常に今であることに気付きました。
そして、ここ、今、意識と呼ぶことができます。ええと、それをさまざまな名前で呼ぶことができますが、私は意識の外側、または意識以外のものを経験することはできないことに気付きました。
何かを想像することはできますが、その想像は意識の経験です。先ほど言ったように、意識とは何でしょうか?
それはちょっととらえどころがないですね。
まあ、でもあなたが知る限り、純粋意識を体験することにはあまり興味がありませんし、それがどんなものなのかもわかりません。
つまり、それは深い眠りの中にあるものとか、そういうものなのかもしれません。
わかりません。でも、私は深い眠りの中にいるわけではありません。
少なくとも私がそう言うとき、私が意味しているのは、ええと、目覚めた意識のことですが、この体験は深い眠りの中には存在しません。
そこには体験はありません。ですから、とにかく、それは私のものではありません。

質問7: 自己重要感についてどう思いますか?

回答7: ええと、私はそれをお勧めしません。私は自己卑下もお勧めしません。
つまり、私たちの社会は、人々が自己嫌悪や自分は十分ではないと感じることなどで蔓延していると思います。
だから、私はそれをお勧めしませんが、その効果的な解毒剤は自己重要感ではないと思います。私はそう思いますが、これらはすべて私たちが自分自身の中に見ることができるものであり、もう一度、あなたが何に注意を払っているかを見れば、私たちは時々優越感を感じ、時々劣等感を感じていることに気付くでしょう。
ご存知のとおり、これらは人間的なものですが、それらは幻想だと思います。
なぜなら、私たちの誰もが本当に優れているとか、劣っているとかいうわけではないからです。つまり、相対的に、ある人は他の人よりも優れた外科医であるとか、そういうことかもしれません。あるいは、より速いランナーであるとか、そういうこともあるかもしれませんが、しかし、優れた人、劣った人というのはいないと思います。

質問8: 後悔していることはありますか?

回答8: ええと、そうですね、確かに、振り返ってみると、ああしなければよかったとか、違うやり方をしておけばよかったとか、そういうことがあるという意味では、イエスと言えるでしょう。
しかし、私はそれについて後悔に囚われて過ごしているわけではありません。
それは私のものではなく、特にそれに囚われることはありません。
そして、選択はなく、起こることはすべて全体として非個人的な出来事であるという事実を本当に理解すると、あなたは常にその通りに表現されており、他の方法ではあり得ないということを理解するでしょう。
ですから、私は「しまった、それは間違いだった」と振り返るかもしれないのですが、それはその瞬間のことであり、非常に解放的なのです。

それは、しかし、その洞察、その気付きは私にとって非常に解放的なものだったのです。なぜなら、それは中国の農家の話、古い中国の農家の話とも関連しているからです。つまり、私たちが間違いだと考えることをした時、その全ての影響、あるいはそれが起こらなかった方が良かったかどうかは、本当に分からないのです。気候変動や核戦争などで私たちが種として絶滅したとしても、それが悪いことだと私たちは知りません。つまり、私たちはそうならないようにプログラムされているようなもので、生き残りたいと思っています。
しかし、私たちは本当に分かりません。恐竜も生き残りたいと思っていたでしょうが、彼らの絶滅は私たちにとって特に問題ないように思えます。
ポリオワクチンの開発がなかったことを嘆いてはいません。しかし、人間は生き残るべきだという考えに私たちはかなり執着しています。
そしてもちろん、いつか私たちは死にます。すべては死にます。あらゆる形態は死にます。

実際、先に述べたように、それは決して本当に固体として、あるいは永続するものとして形作られることさえありません。新しい何かがここに来るでしょう。

少し脱線したかもしれませんが、後悔について、もし誰かが本当に何かを後悔し、後悔に迷い込むというパターンを持っているなら、それを認識することは良いパターンです。
そして、それをより多く見て、それを通り抜け、その不真実さを見るほど、その影響力は小さくなると言えます。

~以下はZOOMでの連絡や挨拶のようなものなので、略しました。


「見つめ合い」のこと

2024-11-25 09:43:51 | ノート

「見つめ合い」のこと

「見つめ合い」とは、この頃、ZOOMで行われるワークの一つだが、キリストの顔を見るんだよと言われて、なんのこっちゃ、よくわからん、と思ったのだが、確かに言葉にならないものが、そこで感受されるのは間違いないことで、その言葉にならないものを「キリストの顔」と抽象的に表現したのだろうと、まあ、思っていた。

ただ、レヴィナスという哲学者の「全体性と無限」に、この「顔」というタームが出てくる。 

レヴィナスは、こう言う。

我々は欲求に基づいて生きている。 例えば、目の前にあるものを食べるということは、自分でそれを口に入れて、咀嚼して自分の一部にすることだ。 欲求を充足させたということによって世界が一部消滅し、その消滅した一部は私の中に入ってきた。 つまりここで、ある意味では私は部分的に世界と合一できたことになる。

ところが、他者はどうだろう。 

「見つめ合い」では、身体的には他者の顔を見る。 しかし、どんなにその顔を見ても、その人と同じにはなれない。 それどころか、自分との違いが見えてくる。 食べ物みたいに、その人を取り込むことはできない。 合一化することはできない。 

レヴィナスに言わせれば、「顔」は「真の他者」を表している。 求めても決して得られない他者がそこにいる。 理解ができないがゆえに、その視線は顔を通り越して、無限の彼方へと動いていく。

この無限の彼方が「キリストの顔」なのだ。

逆に、安易にワンネスという言葉で、「見つめ合い」を概念化してはならないと思う。 簡単に合一化できるとか、合一化できそうな部分をその顔の表情に探すとかではない。 いわゆるCompassion(共感)とは、ちょっと違うようだ。 

なぜ、「顔」なのか? 顔は日常で、最も直接的に「他者性」と向き合えるものだからだ。

ここにパラドックスがある。 

この真の他者性の向こう、理解できない、得られないものの向こうに、無限があり、全てに共通する「キリストの顔」がある。 ワンネスがある。 それはこの現象界の中で、五官を越えて、垣間見ることができる神秘なのかもしれない。

それは、厳しい自然の中で、畏敬の念が浮かぶほどの光景を見た時と同じようなものなのかもしれない。
ある宇宙飛行士は、宇宙遊泳をしていて、ヘルメットの外側がまったくの真空の時、神の臨在をダイレクトに感じたと言う。 

、、、、、、、 レヴィナスの表現を借りて、自分の考えを作り出してしまった。

 


「つかめないもの」ジョーン・トリフソン著 に出てくる引用句

2024-11-23 16:38:09 | ノート

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン著 覚醒ブックス に出てくる引用句

この本の章の最初に様々なところから引用されている言葉が素晴らしいので書き出してみました。

この引用からトリフソンが影響を受けた人々がわかると同時に、ガイド、目録となるような気がします。

 

************************

 

セイラー・ボブ
生は常に生を糧に生きています。生はあらゆる形、あらゆる姿をとって表れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。

ジャン・クライン
まず自分に問うことです。「解放されることを望んでいるその人、自分は捕らわれていると思っているその人は一体誰なのか?」と。 その問いの中に答えを見出すでしょう何もないということが分かります。 誰もいないのです。

J.マシューズ
ひどく厄介な問題を抱えていることもあるかもしれない。本当に考えられないほどひどい神経症的な強迫観念とか。 それでも、それが今、この瞬間の経験であるのは変わらない。 この理解は、いったん自分のものになると、ものすごい開放感をもたらしてくれる。

アナム・トゥプテン
愛とは、あらゆる状況、あらゆる存在が今あるままで完璧であることを見る力です。

ニサルガダッタ
鏡に映っているのは自分ではない。 映っているものを見ているのが自分なのだ。それをはっきり理解することだ。何を知覚しているとしても、知覚の対象は自分ではないということを。

ブッダ
出来事は起こる。行為はなされる。しかしそこには個別の行為者はいない。

道元
現実とは何か。 火の中で伸びる氷柱(ツララ)だ。 

スティーブ・ヘイガン
私たちは渦巻き、音楽、ハリケーン、氷柱に似ている。 いったん形になると_つまり,想像されると_自分が具体的な何かであるように見えてくる。だが一瞬一瞬、すべては新鮮で新しい。

ラマナ・マハルシ
身体は好きなようにさせておけばいいのです。なぜ身体のことをそんなに気にするのですか?なぜ身体に注意を向けるのですか?

ニサルガダッタ
あるのは感覚、知覚、記憶、観念の流れだけだ。身体とは抽象概念であって、雑多なものの中に何らかのまとまりを見出そうとする我々の傾向から生まれたものだ。 (中略) それは海の表面だけを見て、その下にある無限の広がりをすっかり忘れてしまっているのと同じだ。

ゾーケツ・ノーマン・フィッシャー
身体と魂の間、精神と物質の間に矛盾はない。こうしたものは一つのものを理解するための用いられる言葉にすぎない。

ティックナットハン
波は水になりたいからと言って、波であるのをやめる必要はありません。

ニサルガダッタ
世界は行為に満ちているが、行為者はいない。

ダリル。ベイリー
いわゆるどの瞬間においても、まったく形がなく説明のしようがない出来事だけがあります。

ニサルガダッタ
言葉による説明は様々で、互いに矛盾している。現実は単純だ。説明や解釈をしようとする時だけ言葉に失望させられる。

ナーガルジュナ
永続するものがないとしたら、永続しないものがあり得るだろうか?どちらもあるのか、どちらもないのか?

道元
一つの対象をいろいろな見方で見ているのか、それとも、様々な心象を一つの対象だと勘違いしているのか?

ラマナ・マハルシ
経験は今この瞬間にしか起こりません。そして、経験を越えて、経験を離れて存在するものはありません。

ウェイン・リカーマン
自分は行為者ではないと信じていることと、自分は行為者であると信じていないことの間には大きな違いがある。

禅の古い逸話
禅修業を始める前、山があり、谷があった。修業を始めてみると、山はなく谷もなかった。悟った時、山があり谷があった。

道元
仏道とは、要するに多と一を飛び越えることだ。

黄檗
一対のうち片方にだけしがみつかないよう用心せよ。

ニサルガダッタ
誰もがそれぞれの性質に従ってふるまう。それはどうにもならないことで、嘆く必要もない。

ダリル・ベイリー
人にできるのは、身体、欲求、関心、衝動、行為としてあるということだけですが、そのどの瞬間においても自然がそのように表れているのです。

トニ・パッカー
あなたがすることは、私がしています。あなたがしたことは私がしたのです。それをしている人はどこにもいません。すべては広大な開かれた空間の中でひとりでに起こっています。

ラマナ・マハルシ
認識というのは新たに手に入れるような何かではありません。(中略) 認識とは、自分はまだ認識できていないという誤った観念から自由になることです。

ニサルガダッタ・マハラジ
見せかけのものは時間を必要とし、時間を必要とするものは見せかけのものだということが理解できれば、(実在)に近づいたことになる。 (実在)は時間を超えていて、必ず今にある。 (中略) 達成するのに時間がかかるとしたら、それは必ず見せかけのものだ。本当のものは常に自分と共にある。自分であるものになるために待つ必要などない。心が自分を探しにどこかに出かけようとする時、それをそのままにしない。それだけだ。


アラン・ワッツ
問うべきは、それを手にするためにこれから何をすべきかということではない。自分が今何をしているせいで今この瞬間にそれが認識できなくなっているのか、それを問うべきだ。

シャーロット・ジューコー・ベック
気づきを保っているとき意識しているかどうかには関係なく、癒しが起こっています。(中略) 閉ざされていた扉が開き始めます。(中略) 扉が開くと、現在が絶対だということ、そしてある意味では宇宙全体がこの瞬間、毎秒新たに始まっているということが分かります。その単純な気づきの瞬間の中に生の癒しはあります。(中略) 無邪気でいること、癒しは常にまさにここにあるのです。

トニ・パッカー
たった今ここにあるものと共にただある時、それが喜びであるか痛みであるかに関係なく、驚くべき自由が姿を現します。それは言葉では表現できませんし、説明もできません。それが今この瞬間にあるままに完全に努力なしにあるという自由です。

デヴィッド・スタインドル修道士(ベネディクト会)
修練とはこれをしたりあれをしたりといったことではなく、むしろじっとしているということです。 それは、何の努力も必要ないようなことではありません。 努力は最も重要な課題にだけ向けられます。努力をしないという課題です。

トニーパーソンズ
恩寵の中にいないということはあり得ない。あなたに関するすべては、完全に絶対的に完ぺきに適切だ。自分についてよくないと思っていることすべてが絶対的に正しいのだ。

道元
自らの完全性に達していない生き物はいない。どこにいたとしても必ず役割を果たしている。

カール・レンツ
今あるとおりでありますように。

黄檗
自分の本性は迷妄の中でも失われることはあり得ないし、悟りによって得られることもあり得ない。(中略)間違いないのは、すべてが全くの初めから束縛から解放されていたということだ。

トニー・パーソンズ
神は、私たちが立派な人間になるのをどこか別の場所で待っているわけではない。

ニサルガダッタ・マハラジ
出来事が起こるのを現実がやってくるのを待っているとしたら、永遠に待ち続けることになるだろう。現実はやってくるものでも去っていくものでもないからだ。

ウェイン・リカーマン
悟りはあなたが考えているようなものではなく、今あるすべての中に徹底的に想像もつかないほどに溶け去るということだ。

デヴィッド・スタインドル修道士 (ベネディクト会)
目覚めるというのは継続するプロセスです。 一度目覚めてそれで終わりという人は誰もいません。 目覚めに限界はありません。生きているということに限界がないのと同じです。(中略) あらゆる新発見の驚きの中にある驚きはさらにもっと発見すべきことがあるということです。

ニサルガダッタ・マハラジ
すべては勝手に起こる。まったくひとりでに。(中略) 努力が必要な時は努力が現れるだろう。努力をしないことが何より重要になれば、おのずとそのようになるだろう。

トニ・パッカー
空の中ではなにかと衝突するものは何もありません。

トリフソン
「自分の人生のストーリー」を組み立てる時、実際には途切れなく変化を続けている感覚の流れてでしかないものを思考意識は恣意的に選択し、抽象化し、具象化し、分割し、そこに意味付けをします。 その時に思考が頼りにしているのは、変わりやすく不完全であてにならないことで評判の記憶です。


ジョーン・トリフソンのYoutube 「Being Just This Moment」

2024-11-23 13:08:46 | ノート

ジョーン・トリフソンの「つかめないもの」 (覚醒ブックス) 古閑博丈 (翻訳) という本は今まで、何度読み返したかわからない。 

そして読み返すたびに、新たな発見がある。 それはちょうど頭で理解していたことを私の生、そのもので検証した時に得られるものだ。

「腑に落ちる」というような言い方をするのだろうが、これは紛れもない一つの喜びだ。

 

このトリフソンのyoutubeがあったので、訳してみた。

(質疑応答の部分は、さほど重要ではないと思われたので、載せていない。)

 

 

Being Just This Moment, Joan Tollifson

Youtube https://www.youtube.com/watch?v=DIMBo9PPk5c&t=22s

 

以下 訳:

 

○ はじめに

 

まず初めに、皆さんが今この瞬間に意識を集中できるよう、ご案内したいと思います。

 

目を閉じて、部屋の音や呼吸に意識を向けてみましょう。

何も変える必要はありません。

ただ、ありのままに気づくだけです。

 

呼吸や体全体の感覚に意識を向け、それらをコントロールしたり、変えようとするのではなく、顔、喉、肩、胸、腹、骨盤、脚、足といった体の感覚、足の裏が床に触れる感覚、背もたれに触れる感覚、頭など、すべてを包含する意識、それが起こっている空間にも気づいてみましょう。

 

そして、目を開けて、この瞬間の視覚的な感覚、色や形、動きなどに意識を向けてみてください。

 

それらを理解しようとするのではなく、ただ色や形として意識するだけで十分です。

 

ありがとうございます。

 

○ 「今この瞬間」こそが解放の鍵

 

この講演のタイトルを「今この瞬間」としました。

なぜなら、「今この瞬間」こそが、門なき門であり、解放の鍵だからです。

 

実は、私たちは「今この瞬間」ではない状態にはありえません。

「今この瞬間」だけが存在するのです。

それが私たちであり、それが現実です。この瞬間から逃れる方法はありません。

しかし、複雑な思考能力と過去の経験によって、私たちは自分自身をこの瞬間から分離されたもの、人生、世界、他の人々から分離されたものだと考え、感じてしまいがちです。

 

私たちは自分自身を独立した意識の単位、断片化された世界の中の断片として考えることを学びました。そして、自分自身を独立した身体の中に閉じ込められ、外部の世界を異質な空間として見ていると考えることを学びました。

 

それがまさに、私たち人間の苦しみ、深く根付いた分離感なのです。

 

自分自身を独立した断片として考え、感じるとき、私たちは定義上、不完全になります。

そのため、常に不足感や不完全感を抱いているのです。

もちろん、常に感じているわけではないかもしれませんが、時折消えるとしても、それは繰り返し戻ってくるものです。

また、独立した断片として、自分自身を認識するとき、死の恐怖、この断片が消滅する恐怖、無になる恐怖が生まれます。

死の恐怖は、かつて人々が大海原に漕ぎ出せば地球の端から落ちてしまうのではないかと恐れたのと非常によく似ています。

それは、ここで何が起きているかについての誤った認識に基づいています。

 

○ 今この瞬間に意識を向けることで生じる変化

 

しかし、今この瞬間に意識を向けることで、何かが変化します。

私たちはもはや思考の概念世界、地図の世界にはいません。

今この瞬間に意識を向けることで、この生きた現実が実際どのようなものであるかを感覚的に理解できるようになります。

 

概念や思考の世界では、「身体」「鳥のさえずり」「木」といった言葉を用いますが、これらの言葉は、独立した、離散的な、固体的なものについて話しているかのように錯覚させます。

 

しかし、鳥のさえずりを実際に聴いたり、感覚とエネルギーのレベルで身体を感じ取ったりするとき、固体性や、他のものから完全に分離された何かを見つけることはありません。

 

私たちが見つけるのは流動性であり、私たちが周囲のいわゆる環境と切り離せない存在であるということです。

自分自身の内側と外側がどこで境をなすのかを、見つけることさえできません。

 

今すぐ試してみてください。意識をもって見て、内側と外側の境界線を実際に見つけることができるか試してみてください。

 

思考では境界線を引けますが、実際に探してみると、そこには存在しません。

 

身体と椅子が触れ合う感覚を味わってみましょう。

身体が終わり、椅子が始まる感覚はどこにもありません。それは一つの全体、分割されていない出来事なのです。

しかし、言葉を使うと、「身体」と「椅子」という2つの別々のものになります。

 

今、この瞬間に意識を向けることで、私たちはそのすべてを包含する意識、気づきの存在、そして今ここに存在する広がりを感じ始めることができます。

 

身体の感覚など、どんな感覚にも深く意識を向けていくと、その核心には何もないことに気づきます。それは空虚な空間です。

 

そして、私たちが自分自身だと考えている、分離された自我を探してみるとどうでしょうか?

 

私たちが幼い頃から繰り返し教え込まれてきた「あなたはジョーンだ」「あなたは女の子だ」「あなたはアメリカ人だ」「あなたはこういう人間だ、ああいう人間だ」という自我は見つかるでしょうか?

 

私たちが人生の舵取りをしていると思っている、自分自身だと思っている「私」は、本当にそこに存在するのでしょうか?

 

「私」を探してみると、思考、精神的なイメージ、記憶、物語は見つかるかもしれません。しかし、それらすべての中で、「私」はどこにあるのでしょうか?

 

 

○ 選択と決定における気づき

 

私たちが実際に見ている間、選択や決定がリアルタイムで展開していく様子を観察すると、大きな決定であろうと、座った後に立つという小さな決定であろうと、本当に操縦桿を握っている人はいないことに気づきます。

 

衝動が湧き上がり、思考が生まれ、行動が起こります。それはすべて一つの全体、一つの生きた現実です。

 

ある意味では、意識とは、統一性、全体性を見かけの多様性に分割することです。

 

そして、思考はさらに分割し、再構築し、固め、抽象化し、境界線を引きます。

しかし、私たちは意識がシームレスであることにも気づきます。

 

見かけの多様性、さまざまな色や形や形態があるにもかかわらず、それは一つの全体的なシームレスな出来事でもあるのです。

 

それはまるで一つの動く絵のように、すべてが一緒に現れています。

そして、意識、気づきの存在は、決して分割されておらず、閉じ込められておらず、境界線を持たず、身体の中に存在するわけではないということに気づきます。

 

それは私たちが考えることを学んだアイデアにすぎません。もちろん、それは単なる思考だけでなく、非常に深いコンディショニングなので、自分自身を体験する方法、自分自身を運ぶ方法、世界の中で動く方法でもあります。

 

○ 目覚めとは何か

 

私の見るところ、目覚めは劇的で爆発的な出来事ではありません。

 

もちろん、劇的で爆発的な出来事を経験する人もいますが、私にとって目覚めは、常に「今」であるという点で即時的です。

 

それは今しか起こりません。しかし、それは時間の中で展開するプロセスでもあります。

そして、私の経験では、そのプロセスに終わりはありません。

それは、分離感が現れたときにそれを気づく、瞬間瞬間のプロセスです。

 

「ああ、私は防御的になっている」と気づき、それに興味を持つのです。

私は何を防御しているのでしょうか?

 

あるいは、テレビで政治家が言っていることに腹を立てているとします。

その腹立ちの本当の理由は何か?怒りや恐怖の根源は何でしょうか?

 

そこで本当に何が起きているのでしょうか?

それは、宇宙はこうあるべきではないという、ある種の深い恐怖です。

それは、私が見ているように、私が望むようにではないということです。

ですから、これらのことが浮かび上がってきたときは、それらについて好奇心を持つこと、それらに興味を持つことが大切です。

 

そして、それらを体内のエネルギーと感覚として感じること、そして思考を見ることを通して探求するのです。

 

そうすることで、その呪縛、分離への取り憑かれから目覚めることができます。

 

そして、これらのことは個人的な問題ではないことに気づき始めます。

それは私の個人的な問題ではありません。

 

 

○ 思考と現実

 

ご存知の通り、心は常に「ああ、神様、私は防御的だった。つまり、私は本当に悟っていない。私は負け組だ。私は失敗した。私は滑ってしまった」などと呟きます。

 

しかし、それが単なる思考に過ぎないということを理解することが重要です。

 

それは本当に個人的な出来事ではありません。

それは全宇宙の出来事であり、生命そのものの出来事なのです。

それは、宇宙で起こっている何らかの条件付けられたパターンの動きです。

 

そして、それが理解できるようになると、自分自身や他の人々に対して自然と慈悲の心が生まれます。

 

なぜなら、私たち誰もがこの全体の状況を本当にコントロールしているわけではないことに気づくからです。それは自分自身で起こっているのです。

 

 

○ 直接的な探求の重要性

 

そして、それを信念体系や哲学として受け入れるよりも、このことを直接探求し、発見することの方がはるかに価値があります。

 

すべては一つの出来事であるとか、自己など存在しないとか、知的に理解することは比較的容易です。

 

しかし、私たちはそれを理解しない場合もあり、その場合、「なぜ私は自己が存在しないことがわからないのだろうか?他の人々は皆それを理解しているように見えるのに、私はまだ自己を感じている。どうやって自分自身を取り除けばいいのだろうか?自己が存在しないというのはどういう意味だ?私は私だ。ここにいる。」などと考えることになります。

 

ですから、そうではなく、感覚的に感じ、意識し、見ることによって、それを直接探求することが重要なのです。

 

そして、何かが変化します。少なくとも私の経験では、それは永遠に続く変化ではありません。それは今、変化するのです。

 

しかし、私たちは妄想や混乱さえも、この生きた現実全体の一部であることを理解することができます。それは個人的なものではなく、この広大な意識空間はすべてを包含しています。そして、その意識こそが私たちの真の性質なのです。

 

 

○ 「私」とは何か

 

私たちが「私」と言ったときに何を指しているのかを本当に考えてみましょう。

 

もちろん、心は「私はジョーン・トリリフソン、この人物を指しているのだ」と考えます。

しかし、それはすべて後天的に学習したものです。私は自分の名前などを学ばなければなりませんでした。

しかし、それよりも深く探求すると、「私」とは実際に何を意味するのでしょうか?

 

私たちが「私」と言うとき、疑うことのできないこの気づきの存在、つまり意識の存在を指しているのではないでしょうか?

 

私たちは自分がここにいること、意識していること、今ここにいることを疑うことはできません。

 

そして、この現在の出来事も疑うことはできません。私たちはそれについての解釈を疑うことができます。

 

それが幻覚なのか、夢なのか、原子と分子なのか、純粋な意識なのか、あるいは何か他のものなのかを疑うことができますが、何かがここに現れていること、何かが起こっていること、ここでは経験があること、感覚があること(視覚的感覚、聴覚的感覚、身体感覚)を疑うことはできません。

 

そして、意識とこの現在の出来事、この経験との間に境界線を見つけることはできません。

 

呼吸が終わり、意識が始まる場所を見つけることができますか?

 

 

○ 言葉と現実

 

私たちはさまざまな言葉を使いますが、これらの言葉は、独立した、離散的な、異なるものについて話しているかのように錯覚させ、私たちを混乱させる可能性があります。

 

言葉は役に立ちます。

それはこの生きた現実のさまざまな側面を指し示し、私たちをそのさまざまな側面に目覚めさせます。

ですから、言葉を取り除こうとしているわけでも、言葉の使用をやめようとしているわけでも、思考を放棄しようとしているわけでもありません。

 

しかし、思考によって作られた地図の世界と、感覚やエネルギーを直接体験すること、色や形、音、身体と椅子の触れ合う感覚との違いを見始めることが重要です。

 

今この瞬間をただあるがままに受け入れることが変革をもたらすというのは、非常に直感に反します。

私たちは、何かをしなければならないと教え込まれてきました。何かを操作し、修正し、何かを得、何かを達成し、何かを取り除き、何かをしなければならないと。

 

しかし、今この瞬間をありのままに受け入れ、ここに存在するものを拒否することなく、ここにないものを掴むことなく、ただあるがままに受け入れると、素晴らしいことが起こるのです。

 

 

○ 行動と意識

 

もちろん、心臓発作を起こしたときに病院に行かないとか、人種差別や性差別に対処しないとか、気候変動について何もしないという意味ではありません。

人生の残りの時間をソファでただ寝そべっているという意味でもありません。

 

実際、知的な行動は、この種の開かれた気づきの存在から生まれます。

 

この気づきの存在から生まれる行動は、私たちの条件付けられた習慣的な思考と行動のパターンから生まれる行動とは非常に異なります。

 

例えば、禁煙しようとしているとしましょう。そして、自分自身の2つの側面があることに気づきます。タバコを吸いたい自分と、禁煙したい自分です。

 

そして、それらは互いに戦っているように見えます。ですから、タバコを吸うことに興味を持つことができれば良いでしょう。タバコが吸いたくなったときの衝動はどのようなものでしょうか?

 

あるいは、過食など、他のことにこのことを当てはめることができます。その衝動とは何でしょうか?

 

体の中でどのような感じですか?

行動を起こす前に、その衝動を1分間または5分間感じることはできるでしょうか?

そして、それを本当に探求して、「これは何だ?」「実際にはどのようなものか?」を見てみましょう。

それは、「私はこのものを持たなければならない」というような感じかもしれません。

しかし、もし持たなければどうでしょう?

そして、実際にタバコに火をつけたらどうなるでしょうか?

タバコのパッケージからタバコを取り出すのはどのような感じですか?

煙を吸ったり、リンゴやケーキを食べたりするのはどのような感じですか?

 

 

○ 意識と愛

 

何らかのイデオロギーを適用するのではなく、本当に開かれた心で「これは何か?」を探求してみましょう。

 

放棄感、防御的であること、苛立ちなど、何が起こるかを。

 

それは、「すべてが意識である」という答えを出すことではありません。

 

確かに、あらゆるもの、私たちは意識の外に何らかの経験を持っていません。

それは真実です。しかし、そうした答えに安住するのではなく、本当に意識になることです。

 

私たちは意識です。意識しましょう。ただ開いていましょう。

そして、その開かれた状態、気づきの存在こそが愛であり、喜びであり、平和なのです。

 

そして、そこでは神を見ます。

至る所に愛する者を見ます。

すべてが聖なる現実であること、すべてが自分自身であること、すべてが注目に値すること、すべてが神聖であることを見ます。

そして、美しさを見ます。

美しさは対象物の中にあるのではなく、見ることの中にあるのです。

本当に何かを見ているとき、私たちはくしゃくしゃになったティッシュや路上を吹き飛ばされているゴミの中に美しさを見出すことができます。

駐車場や建設現場でさえも美しさを見出すことができます。

 

扇風機や何らかの振動音などの単純な音を楽しむことができます。

ここに存在するもの、単純さ。それは驚くべき出来事です。

私たちはそれが何であるかを知りません。

私たちは「それは素粒子だ」「それは意識だ」「それは何か他のものだ」など、たくさんの言葉を持っていますが、実際にはそれが何であるかを知りません。

 

「水」という言葉は水ではありません。

これは水を話題にしているときには非常に明らかですが、「意識」という言葉は意識ではなく、私たちはこれが何であるかを知りません。

 

しかし、この驚くべき出来事には、想像力、映画、芸術、世界の中に世界、世界の中に世界が含まれています。

 

それは、それらを取り除いたり、除外したりすることではなく、すべてを本当に含めることです。すべてに開いていくことです。


エックハルト・トール 奇跡講座を語る

2024-11-20 17:51:17 | 奇跡講座

Mikiさんが紹介してくださったエックハルト・トールのYoutubeが素晴らしかったので、訳してみました。      

ここでエックハルト・トールは奇跡講座について言及しています。

 

 

以下、Youtubeの訳、文字起こし

 

「奇跡講座」からの短い引用句をいくつか紹介します。

数年前、私は「奇跡講座」について、もう少し詳しく講演を行いました。

「奇跡講座」は、ご存知かどうか分かりませんが、それを読んだことがあるか、やったことがあるか、聞いたことがあるか分かりません。

 

チャネリングされた本です。

60年代、60年代後半に最初にチャネリングされました。 そして、70年代に初めて出版されました。おそらく76年です。 そして、それ以来存在し続け、一種のスピリチュアルな古典となっています。深遠で非常に深いチャネリングされた本の1つです。

 

万人向けの本ではありません。間違いなく。 キリスト教の用語を使っていますが、キリスト教を再解釈しています。 そのため、非常に深い教えになります。おそらく、イエスの本来の教えです。 それは、ニューヨークのコロンビア大学の臨床心理学者によって、チャネリングされたものです。 彼女は内容をあまり理解していませんでした。スピリチュアルな背景がほとんどなかったので、内なる声によって彼女に口述されました。 そのため、キリスト教の用語法は、ある人には役立ち、他の人にとっては妨げになります。この時代遅れの言語、排他的に男性代名詞を使っており、神、父、そして、神について「彼」と話すこと、それは制限とみなされるかもしれませんが、それらを越えて、見てみてください。

 

今日は、「奇跡講座」全体を使う代わりに、(これは大きな本なので、手元にありません。

) 小さな分量で「奇跡講座」からの引用句集として出版されたものを使います。 そして、「この贈り物を受け入れなさい」と題されており、「奇跡講座」からのセレクションです。

マリアン・ウィリアムソンによる序文で、ターシャ・コーナーストーン・エディションズ社より出版されたものです。

 

これらの引用は非常に短く、美しく、

比較的ニュートラルな言葉を選んでおり、男性代名詞や時代遅れの用語は多くありません。だから、私が今日は、これらの非常に短い引用をいくつか選び、コメントします。

 

これは、「奇跡講座」を単純化したり、何か単純なものに還元したりしているという意味ではありません。 スピリチュアルなテキストは、他の種類のテキストとは非常に異なり、累積的な意味で機能しないため、真実を包含することができます。 全体の真実を一つの文章に含めることができます。         ですから、それは拡張ではない、深さの次元で機能します。

でも、逆説的に、「奇跡講座」にはテキストと365個のレッスンがあります。1年365日分なので、その意味では時間が与えられます。 なぜなら、あなたの心から「時間」を取り除くために、時間が必要だからです。 かなり逆説的ですね。

 

「奇跡講座」のいくつかの記述は非常に詩的で、小さな詩のようです。

それらの小さな、ほぼ詩のようなものの1つから始めましょう。

 

それらは非常に美しいです。そして、私が始める最も深遠なものの1つは、「講座」の終わり近くにあります。

 

もし誰かが「講座」を365日やれば、それは一年の終わり頃になるでしょう。 今日のセッションで最長の引用です。 

 

その美しさを理解していただけると思います。 そして、意味についてコメントします。 必要ならですが、おそらく必要ないでしょう。

まだ、全部一度に読むかどうかわかりません。最初に部分的に読んで、各部分にコメントします。 数ページです。 短いページです。  

 

(訳注: おそらくT-31.Ⅴ.17 以下はエックハルト・トールの引用を原典から書き出します。)

 

The world can teach no images of you unless you want to learn them. There will come a time when images have all gone by, and you will see you know not what you are. It is to this unsealed and open mind that truth returns, unhindered and unbound. Where concepts of the self have been laid by is truth revealed exactly as it is. When every concept has been raised to doubt and question, and been recognized as made on no assumptions that would stand the light, then is the truth left free to enter in its sanctuary, clean and free of guilt. There is no statement that the world is more afraid to hear than this:

 

I do not know the thing I am, and therefore do not know what I am doing, where I am, or how to look upon the world or on myself.

 

Yet in this learning is salvation born. And What you are will tell you of Itself.

 

あなたが学びたいと望まない限り、世界はあなたを表すいかなる形象もあなたに教えることは出来ません。 いつの日か、形象の数々が消え去り、あなたは自分がいかなるものであるかを知らないと分かる時がやってきます。

 

封印が解かれて、開かれたこの心へと真理が妨げられることも束縛されることもなく戻ってきます。

 

自己の概念が脇に置かれたところでは、真理がありのままに明らかにされます。

一つひとつの概念が疑われ、疑問視され、いずれも光に耐え得るような前提に基づいてはいないと認識される時、真理は罪悪感から自由で、清浄な自らの聖域に自由に入っていくことが出来ます。

以下の声明以上に、世界が聞くのを恐れているものはありません。

 

私は、私であるものを知らない。

したがって、私が何をしているのか、どこにいるのか、あるいは、どのようにこの世界や自分自身を見たらよいのかも、知らない。

 

しかし、この学びの中で救済が生まれるのです。

 

(以下はエックハルト・トールの引用の訳)

 

「時は来ます。

イメージはすべて過ぎ去り、あなたは見ます。

あなたは自分が何であるかを知りません。 

それはこの開かれた心に、真実が妨げられず、自由に戻ってくるのです。

自己の概念が捨てられたところに、真実がそのまま明らかにされるのです。」

 

 

それが最初の段落です。最初の詩です。

 

簡単にコメントしましょう。

 

イメージはすべて過ぎ去り、あなたは見ます。あなたは自分が何であるかを知りません。

さあ。どういう意味でしょう?

 

講座の他の場所では、古代の表現、「汝自身を知れ」を使っていますが、それは主な講座の目的の一つは、自分自身を知ることを教えてくれることなのです。

 

「汝自身を知れ」。

 

それはどのように関連するでしょうか?

 

時は来ます。

 

あなたは、自分が何であるかを知らないことを本当に理解します。

どのようにして自分自身を知ることができるのでしょうか?

それはこう言っています。

 

時は来ます。あなたは肯定的に、自分が何であるかを知らないでしょう。

 

これを簡単に説明すると、

自分自身を知るには、自分自身についての概念を手放さなければならないということです。そして、概念を手放すと、自分自身についての概念を精神的に手放すと、あなたはもはや自分が誰であるか、あるいは何であるかを知りません。 概念のレベルでは。 そして、概念を手放すと、 自己の概念が捨てられたところに、真実がそのまま明らかにされるのです。

 

ですから、あなたが自分の正体に関する精神的な概念、つまり物語、語り、解釈を放棄すると、 より深い次元の智識が生まれます。 深いとか、高いとかの表現はどうでも良いことです。 あなたが手放した概念的な知識に代わって、より深い次元の智識が生まれます。

そして、そのより深い知覚の次元において、それは概念的ではなく、思考に基づいていない、あなたは誰であるかという真実が、それ自身を明らかにします。

 

それが、インドの教え、ヒンドゥー教の教え、仏教の教え、神秘主義的なキリスト教、スーフィズムのすべての本質です。それはすべて同じです。

 

さあ、この詩を同じテーマで続けましょう。

詩と呼んでいますが、テキストの一部です。

さあ、一瞬静止し、そして、かつて学んだことすべて、抱いた考えすべてを忘れましょう。

そして、物事の意味と目的についての先入観をすべて捨てましょう。

自分の世界観を思い出さないようにしましょう。

 

私たちは知りません。

すべての人についてのイメージをすべて、心から解放し、一掃しましょう。

判断をせず、悪や善について、かつてあなたの心や誰かの心に浮かんできた考えを意識せずにいましょう。 そうすると、今は彼を知らなくても、あなたは彼について学ぶ自由があり、他の人としての彼について学びます。

 

だから、ここのこの節は、あなたたちが思考を基本的に手放す時に来る明晰さと深い悟りのことを指しています。

一瞬静止し、そして、かつて学んだことすべて、抱いた考えすべてを忘れましょう。

そして、物事の意味と目的についての先入観をすべて捨てましょう。

 

すべての人についてのイメージをすべて、心から解放し、一掃しましょう。だから、それは自分自身についての自己概念を手放すことだけではありません。

 

それはまた、他の人々について持っている判断、概念、概念化を手放すことでもあります。

だから、他の人と出会う時も概念なしで、概念的な認識を手放す時、より深い認識が生まれます。

 

判断の無垢さ、とあります。

 

判断とは基本的に、思考を通して物事を解釈することです。すべての判断は思考です。イエスも「裁くな」と言いました。

 

だから、悪や善について、かつてあなたの心や誰かの心に浮かんできた考えを意識せずにいましょう。 今は彼(または彼女)を知らなくても、一度手放すと、あなたは彼について学ぶ自由を得て、彼とあなたについて、より深い人間の存在の現実、本質において、彼(彼女)が誰であるかを学び、そして同じように自分自身を知ります。

 

静かにしましょう。          

 

このルール以外には何も必要ありません。

今日のあなたの練習が、世界の思考を超えて、あなたを持ち上げ、あなたの視界を肉体の目から解放すること。

静かにしましょう。そして、耳を澄ませましょう。  (Only be still and listen.)

単純にこれを行いましょう。

静かにしましょう。

 

そして、自分が何であり、神が何であるかという考えをすべて脇に置きましょう。

世界について学んだ概念すべて。

自分自身について抱いているイメージすべて。

 

https://www.youtube.com/watch?v=grBahEds37U