Northern Bear Spirit

気づいたこと 哲学 宗教 スピリチュアル

2024年2月4日の記録

2024-09-30 12:26:38 | 日記
以下の文章が奇跡のコースについて娘に書いた長い手紙ですが、もし何か気が付いたり訂正した方がよいものがありましたら、教えてくださると大変助かります。
奇跡のコースの学習は現在進行形です。
◎ 赦して、聖霊に委ねるにはどうすればいいのか?
この世界はあなたの居場所ではないのです。
あなたはこの世界では、よそ者なのです ……レッスン200
赦しは、いったい何をするのでしょうか。
真の意味では、赦しには何の役割もないし、何もすることはありません。
というのも、赦しは天国では知られないからです。
赦しが必要とされる場所があるとすれば、それは地獄だけです。そして、地獄において、赦しは偉大な役割を果たすに違いありません。 ……レッスン200
「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」……ヨハネ福音書8:23
抵抗すれば、それは存在し続ける …… カール・ユング
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奇跡のコースやホ・オポノ・ポノの最も重要なキーワードは「赦し」です。 奇跡のコースの難解な文章を理解しても、実際に赦されなければまったく意味がありません。 
ですから、わたしにできる唯一の実質的なことは「赦し」をコツコツとすること。 一日に50回でも60回でもいいから心に引っかかることが出てきたらとにかくそれをやること。 それしかないことはわかってきました。 ホ・オポノ・ポノにもありますが、そうやっているうちに習慣になってきて、意識的にやろうとしなくても無意識に赦しがおこなわれるようになるのだそうです。
ところがあれだけたくさんの文章があるのに、この最も大事なところは、「赦して、聖霊に委ねなさい」としかないのです。 それでは実際にどうしたら赦せるのか? どうしたら聖霊に委ねられるのか? ということは具体的に実際にやってみないとわかりません。「湧き上がってきた思いを聖霊に委ねましょう。」、「温泉に入ったようなイメージをしましょう。」、「ここ、今だけを見ましょう。」、「考えないようにしましょう。」、「身体の一部に意識を集中しましょう。」とか言われても、実際はそれができる状態にまでなかなかなれないのです。 おしまいには「それができるんだったら、何もこんなに苦労しないよ。」と文句を言うようになります。 コントロールすることも、受け止めることもできない緊急事態か、逆にどうしようもないほど、立ち上がることもしんどい鬱状態の時があるからです。 そんな時は単純においしいものを食べて寝た方がいいこともあります。 しかしそれだけでは根本的な解決にはならないことも事実です。 
 これはリンゴの皮の剝き方をどんなに言葉で説明しても実際にナイフをもって剥いてみないとできないのと同じです。 人それぞれ、しっくりくるやり方があるのでしょう。
〇「赦し」ができないのは「赦し」の実感がないから。
「赦し」ができないのは、まず「赦し」の実感がないことです。 赦そうとしているのにもかかわらず、問題のエピソード記憶が繰り返し現れてきて辛くなってきます。 その度に聖霊に委ねて、赦せと、また赦せなくても、赦せない自分を赦せと言われるわけですが、何か空回りしているような気がしてきます。  
〇原因の一つは圧倒的な現実感
原因の一つは目の前に起こる出来事が圧倒的に現実感があるということです。 ナイフで刺されたら血が出ますし、痛いし、死ぬことさえあります。 手元に届いた請求書は次の朝に目が覚めたら無くなるわけではありません。 車を運転していて誰かを不注意で殺してしまったら、その事実は一生消えることはありません。 目に見える現象はセロファンのようなもので、セロファンの向こうに実相があると言われても無理です。
先日、札幌は久しぶりに良い天気になり、冬山を散歩しました。 渓流に小さな橋が架かっており、そこをスノーシューで歩くのですが、水が気持ち良い音を立ててとても美しい光景でした。 でも、この光景が美しいと言ってそれを直接掴むことはできません。 それらは絶えず変化し、うつろっていきます。ですから、このうつろいゆく現象の奥に「美」のイデアがあるというのが、セロファンのたとえなのかなと思いました。 しかし「美」のイデアなんてものはどう頑張っても知覚できないのです。 「美」は実体の経験を表すものであり、「美」のイデアが我々の外のどこかに独自に存在しているわけではないのです。 それは我々の中にあります。
ルパート・スパイラはこんなことを言いました。
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「知覚することが止まったとき、物体、他者、世界は消え、それらの実体である気づきは残り、それはありのままに自身を知り、物体の見かけに曇らされることはありません。これが美(Beauty)として知られる経験です。」
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〇全ては一つの私として起こっている
この世は幻でセロファンの向こうに実相があることを実感するにはどうしてもある一つの必要な気づきが必要となります。 それは私が目に見える外の世界は、私と別個に起こっているのではなく、全てが一つの私として起こっているということです。 「美」は私の気づきの中にあるのです。 外にあるわけではないのです。 誰かがわたしに悪態をついたとしても、それは私の世界の中でおこっています。 その誰かは私と別個の存在ではなく、私の気づきの一部です。
それはちょうど夢の中で、誰かが私を殺そうと襲ってきたとしても、それは全て私の頭の中で起こっているのであり、これに対する最適な対策は夢から覚めることなのです。
夢の中で誰かが私に悪態をついたとして、私がそこで、ショックを受けたり、傷ついたり、反撃を加えたり、言い負かしたりしたら、どちらにしてもそれは私が夢を現実だと思い込んだことになります。 その時、わたしができる最も適切なことは夢を夢だと見破って、この辛い夢のストーリーを作り出した自分を労う、愛すことに尽きます。 「ああ、大変だね。辛かったね。でもこれはみんな夢なんだよ。大丈夫なんだよ。 聖霊にお願いしたらみんな引き受けて消してくれるよ。」、そう言ってやるのが『赦し』です。
ナイフで刺されたら血が出ますし、痛いし、死ぬことさえあります。 手元に届いた請求書は次の朝に目が覚めたら無くなるわけではありません。 車を運転していて誰かを不注意で殺してしまったら、その事実は一生消えることはありません。 しかしそれらは、痛みも含めて、全てが自分の中で起こっているのです。  夢の中でも、雪道を滑って転んだら、どちらの足が滑って、どの筋肉が動いて、尻もちをついた尻の感覚や両手をついた雪の冷たさ、それらはすべて感じることができます。 (これはついこの間実際に私が見た夢です。) 夢の中でも請求書は来ますし、人も殺します。  昨日人を自分の不注意によって事故を起こしてしまった記憶を今、頭の中に呼び出すのは私自身です。 他の誰でもありません。
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この世界はとっくの昔に終わっているのです。
この世界を作り出した想念は、それらの想念を思いついて、しばくの間それらの想念に愛着した心の中にはもうありません。
奇跡はただ、過去は去ったこと、そして、本当に過ぎ去ってしまったものには何の結果もないことを示すだけです。
ある原因を思い出すことによって、その原因が目の前にあるような錯覚を生み出すことはできても、結果を生み出すことはできません。
もはやここには、罪悪感の及ぼすどんな結果もありません。
というのも、罪悪感は去ってしまっているからです。
罪悪感が過ぎ去ったとき、原因がなくなってしまったので、罪悪感のもたらす結果も去ったのです。
もしあなたが罪悪感の及ぼす結果を望んでいなかったなら、どうしてあなたは記憶の中の罪悪感にしがみつこうとするのでしょうか。
思い出すことは、知覚の過去時制の形なので、知覚することと同様に選択的なものです。
思い出すことは、過去のことを、まるで今起こっていて、依然としてそこに見えるものとして存在するかのように知覚することです。 …テキスト28章
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昨日のことを今、思い出してまるで今起こっていて、依然としてそこに見えるものとして存在するかのように知覚するのはこの私以外の誰でもありません。 罪悪感は残っているでしょう? と言われそうですが、空に流れる雲のように罪悪感も去ってしまうのです。 それを必死につなぎとめようとしているのもこの私です。 すべては私の夢の中で起こっています。 
これがナーガルジュナが唱えた「色即是空 空即是色」の本当の意味です。 
実は現実の我々の脳も、我々の脳の外にある現象を頭の中に仮想世界を作って認識しています。 五官から得られる膨大な情報は、我々の脳の中で取捨選択され、仮想世界に再構築されることで認識されます。これが脳の機能の一部が壊れると我々の視界の左側にあるものは認識しなくなったりします。 つまり彼には左側には世界は存在しなくなるのです。脳科学的に言っても我々は自分が創り出した世界を見ているのです。実体を直接見ているのではないのです。
〇赦しの目的は「真の喜び」を得ること。
この世が幻想だとか、夢だとか、地獄かだと言って、その目に見えるものはセロファンのようなもので、その向こうに実相があり、それは「赦し」によって見えてくると言っても、その実相がこの世と同じように地獄のようであれば、赦す意味がありません。 まず実相の世界に真の喜びがあることを自分が経験しなければ「赦し」をしようとは思わないはずです。
ロバート・シャインフェルドはこう言いました。
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わたしは力であり、神の現れである。 
これを創ったのはわたしだ。
これは現実ではない。
完全な作り物だ。
ただの物語、私の意識の創造物がリアルに見えているだけだ。
姿を変えた「真の喜び」だ。
わたしはこの創造物から力を取り戻す。 今!
「ビジネスゲームから自由になる法」 ロバート・シャインフェルド著より
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なぜ「姿を変えた『真の喜び』」なのでしょう。 それは私たちは神の子として神から創造力を分け与えてもらっており、この「神の創造」の原動力は愛だからです。 そして愛は喜びなのです。 この力を我々は神を外して自分だけで創造してしまいました。ですから「姿を変えた」という表現になるのです。
これはシャインフェルドが実際に経験したことであって、そこには何の根拠もありませんが、その経験が彼のすべての行動を支えています。
〇「真の喜び」はどうしたら得られるか?:
私は今なら、この経験が微かにわかります。  しかしこの経験は「どん底」を意識しないとなかなか得られないようです。 なぜなら我々の内外に頼るものが他に一つでもあれば、まずその自分の意識の創造物に向かい、慰めを得るからです。 (これがUNDOINGの根拠です。 前進するのではなく後退すること。 得るのではなく、捨てること。 何かをするのではなく、することを止めること。)  
「どん底」を意識するというのは、自分のアイデンティティを支えてきたものが崩れ落ちるということを意味しています。 お金、住居、パートナー、家族、友人、血統、人種、所属する組織、仕事、実績、社会的地位、健康、体力、知力、実力、そしてプライド、信念、記憶、それらがすべて失われるということです。 (結局それは「死」のことです。)
癌のステージ4だと宣告されたとか、現実的に「どん底」になる必要はありません。 もちろんその方が強力ですが、ただイメージしただけでも違います。 というのは奇跡のコースは原因、源の方を扱うのであって、我々の外に起こることはすべて夢(幻想)として我々の心が投影したものだとするからです。 現実に何が起こるかということよりも、そのストーリーを生み出す我々の心の方が重要なのです。
私たちはしんどくなった時、「どん底」を味わう前に様々な方法を使ってこれを回避しようとします。 映画やテレビ、Youtube、インターネット、ゲーム、スピ系の読書、教会、気功やエクササイズ、祈り、瞑想し、指導者に助けを求め、慰めを与えられ、人生相談を受け、友達と話し、食べて、飲んで、酔っぱらって、さらに奇跡のコースで言うように他者に投影して、一緒に戦う仲間を作って、反撃して。 我々のほとんどはこれらのことをすることで「どん底」に至る途中で引き返しています。 そしてこの世は快感から、天災から、勝利や敗北、その他あらゆるアトラクションが次から次へとやってきて、我々に休みを与えません。
最近見た映画に「すばらしき世界」という役所広司が主演をしたものがあります。 実は「すばらしき世界」という題名なのに、主人公は幼いころ、母親に捨てられ障害沙汰を起こして少年院に入り、暴力団に入り、人を殺し、離婚し、旭川刑務所で何十年も入退所を繰り返し、今度こそ、刑務所に戻らないと決意するのですが、心臓病を抱え、なんとか生活保護から脱して自立しようとした矢先に自分のアパートで死んでしまったという外から見ればなんともやりきれない実話です。 でもこの映画の題名「すばらしき世界」というのは決して皮肉を込めて言っているのではないのです。 社会の不正や歪、様々な偏見や憎しみや貧困や軽いノリで普通の人が他人を恐ろしく傷つけるようなことが、普通に起こっている中でも、よくよく見るとキラキラと愛が光っているのが見えるのです。  キラキラと光っている愛を見つけたのは彼自身の心の中にある愛です。 なぜなら、外にある愛は、内にある愛の反映だからです。 またこの映画の作者であり、その映画を観ている我々です。 もしかすると神の視線かも知れません。 このじわーっと身体を包み込むような喜びというか安らぎは「愛」です。
「真の喜び」とはこの愛の創造力が躍動し、延長していく喜びです。 「すばらしき世界」の主人公のようなまるで救いようがないような「どん底」のような状態であっても、その基底にはキラキラとした絶対的な愛が流れているのです。 その愛を見つけるのはその人自身しかありません。
私たちが今まで個別化し、差別化し、築き上げてきたアイデンティティが崩壊していったその向こうに本当の私たちのアイデンティティが待っています。 それは「神の子」という特別性のないアイデンティティであり、だからこそ、他の人々と一つになれるのです。
ティックナットハンのプラムビレッジにいるシスターは、「最も自分がリラックスするときは大きな身体の細胞の一つとしてみんなといっしょに働いているときです。」と言います。 白血球や赤血球のように人それぞれに様々な役割がありますが、どの一つも欠かすことができないものです。
〇感謝は「どん底」から生まれる。
また別のプラムビレッジのシスターは、朝起きると、すぐに様々な心に栄養を与えてくれるものを見つけることができると言います。 朝の光、静けさ、さわやかな空気、朝の音、道端の小さな花、道で出会う人の笑顔、それらは心の栄養となります。 強いしっかりとした心を育てます。 でも、我々はそんな気分にはなれません。 それらは日常の、いわば当たり前のことであり、もっと上を目指す私たちにとっては逆にそんなベーシックなものが少しでも揃わないとまるで感謝どころか腹が立つ原因になります。 なぜこのシスターは変わらずそんな小さなことに感謝することができるのでしょうか。 それはこのシスターが常時「どん底」の状態に意識を置いているからなのです。
〇神への恐れ
「赦し」を阻むもう一つの原因は実は我々は神を恐れているということです。
つまり赦すと言っても神が私に脅威を与えているのなら、赦せるわけがないのです。
私たちは神に私たちが生まれてから今までずっと大きくし、維持し、必死に防衛してきたアイデンティティ(自我)を剥奪されることを恐れています。
死が何よりも恐ろしいのは、身体的な一時的苦しみよりも、自分というアイデンティティがこの宇宙の一切から消えてしまう虚無感です。 ですから宗教は死後の霊魂を我々にイメージとして与え、我々のアイデンティティに保証を与えます。
しかしこの必死に守ってきたアイデンティティがこの世界をリアルなものにします。 なぜなら我々のアイデンティティはこの世で生きるためのアバターを形成するものだからです。 自分のアイデンティティがリアルで安泰である限り、私たちは死ぬまで本源を知らないで過ごすことができます。 ちょうど映画「マトリックス」でサイファーがエージェントスミスと取引をして自分のチームを裏切る代わりにマトリックス(仮想現実)の裕福な生活を保証してもらおうとするようなものです。 また「はてしない物語」のバスチアンのようにファンタージェンでの生活が楽しければ、現実の世界のことなんて忘れてもいいと思うようなものです。  才能と財力と健康と運と環境に恵まれた人は、この世は幻想だという奇跡のコースには一切近づかないでしょう。  しかし死や老衰は誰も避けられないため、最期まで無視することは困難です。
これは、逆説的に言えば、様々な要因で起こるアイデンティティの危機は本質に導かれるための恵み、チャンスだということです。
想像してみてください。 今まで大事にしてきたお金、住居、パートナー、家族、友人、血統、人種、所属する組織、仕事、実績、社会的地位、健康、体力、知力、実力、そしてプライド、信念、記憶、習慣、それらが一瞬にして無くなってしまったらどうしよう?
神を恐れるというのは実質、そういうことです。 
「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1章23節)
ヨブは最初の方でこれを高らかに言いますが、実際に状況がひどくなると文句をたらたら言い始めます。 身体的な苦痛がやっぱりダメージになります。
宗教は我々のアイデンティティーを守るために、ずっと昔から必要とされてきました。 家内安全、商売繁盛、子孫繁栄、ご利益が目的でない大衆宗教は一つもありません。 現代では保険や警備会社や病院がその代わりを務めています。 
ただし、死によって我々個人を構成してきたアイデンティティの一切が剝ぎ取られることはは紛れもないことであり、今まで大事にしてきたものの一切が失われるのです。 「どん底」というのはそういうことです。 
禅ではこれを『大死底の人』と言います。 (『碧巌録』第41則)
大死と言っても実際は生きているわけですから、生きていながら自我、執着を一切捨て去った状態のことを指します。  奇跡のコースでは「主は与え、主は奪う」なんてことは言いません。 死はそもそも神がこしらえたものではありません。 神はこの世を創ってもいないのです。 でも考えてみてください。 逆に死が無ければ、永遠に幻想の世界が続いてしまい、本源に戻ることができません。 今のままアイデンティティの維持を永遠に続けなければならにとしたら、そちらの方がかえって恐ろしくありませんか? これって地獄そのものです。
死ぬ気と実際に死ぬのは違います。 ここで言う死ぬ気とは住居、パートナー、家族、貯金、仕事、実績、役職、社会的地位、健康、体力、美貌、記憶、知識、信念、習慣などあらゆる我々個人を構成してきたアイデンティティの一切が取り去られたら何が残っているかと想像してみることです。 瞑想はこのシミュレーションをやることです。 どこかの心地よい森の中の温泉に浸ることをイメージすることではありません。 もちろんそのイメージによってアイデンティティから解放されるのであればいいのですが、我々がまず取り組むのはUNDOING、つまり全てを手放すことです。  温泉は結果であって、全てを手放しても、温泉に入ったようにちゃんと神は我々を優しく温かく支えてくれていることがわかるということです。
ルパート・スパイラはこう続けます。
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考えがおさまったとき、その見かけ上の客観的な部分(思考の部分)は消えますが、その実体である気づきは残ります。時を超えたその瞬間(マインドがそこにないために時を超越しています)、気づきはそれ自身をありのままに味わい、それは思考という見かけ上の客観性を仲介していません。この経験は理解(Understanding)として知られています。
感じることが止まったとき、その見かけ上の客観的な部分(感覚または身体の部分)は消え去り、その実体である気づきが残り、その気づきはそれ自身を愛(Love)または幸福(Happiness)として知ります。
言い換えると、理解、愛、幸福、美は、ひとつの同じ経験、気づきの現前、自己の存在(Being)の認識につけられた異なる名前です。
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知覚がおさまり、考えがおさまり、感じることが止まった時とは全てを手放した時のことです。 残ったものは気づきだけです。 この気づきが言いようのないほど心地よいのです。 これは何かよくわかりませんが、身体的な感じではありません。 これを至福感と言うのかも知れません。 「真の喜び」です。
それではここで最初の問いに戻ります。
〇実際にどうしたら赦せるのか? どうしたら聖霊に委ねられるのか?
「どん底」は我々が過去と未来をの思考した時にジャッジして意識することです。 ですから「全てを手放すこと」とか、禅の表現を借りれば「無一物」、「無執着」と言った方がいいのかもしれません。 しかしこれらの言葉は何か悟りの境地のような特別性を抱かせるのであまり使いたくありません。 そんなスピリチュアルな優越性も防衛の一つですから。 
ここで何をするかというと、逆に何もしないのです。 一切の抵抗をやめるのです。 頭の中に過去と未来の思考がわいてきてもそのまま湧いてくるに任せます。 思考をやめようとして、左脳の働きを止めようとするのも、フェルトセンス(身体感覚)に意識を集中することも防衛です。 今、ここにあろうとすることも、今、ここにあるために、ヴィパッサナーを試みても、もしそれで私たちのアイデンティティをプロテクトしようとするのならみな防衛です。 本当に何も抵抗しないし、試みないのです。 ただ、呼吸だけは意識的におこない、呼吸に合わせてゆっくりと丁寧に「どん底」に付随する不安、恐怖、欠乏感、焦燥感、身体感覚を味わいます。 これは抵抗ではなくて逆にこれらの負の感覚を十分に受け止めるためにおこなうものです。
空を横切っていく雲を眺めるようにこのままを味わい尽くしていると、まるで鬱蒼とした森の中を迷って歩いていると突然目の前に大きな広い道が現れた時のような、微かではありますが、ゆるぎない安心感がやってくることがあります。  今までSurrenderと何回も口に出して言っていたのですが、実際はSurrenderしていなかったことがわかります。 この「真の喜び」ははじけるような歓喜ではなく、じわーっと身体を包み込むような喜びというか安らぎです。 それが感じられると、今まで深刻に考えてきたことがまるで笑ってしまうような軽いものになります。 イエスはこう言っています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・中略・・・わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11章28節
この時何が起こったかというと、聖霊が私たちの軛(くびき)を引き取ってくれたのです。
もっと具体的に説明してみましょう。 
例えば、Aさんが自分の嫌っている別の人間Bさんと仲良くなったとします。 AさんはやたらとBさんを評価します。 Bさんはわたしを無視しています。 わたしはちっとも面白くありません。 この状態の時、何がわたしの心の中に起こっているのでしょう。 それを見ていきます。 まず自分はなぜそのBさんを嫌っているのか? ということにフォーカスしてみます。 Bさんにコンプレックスがあるのかもしれません。 またはBさんが正しくないという信念があるかも知れません。 狡いと思っているのかも知れません。 でもずる賢く立ち回りたいのは実はこの自分なのです。 そうでなければこんなにBさんが気になるはずがありません。 
キーワードは「鏡」です。 本当はAさんやBさんのことなんてどうでもいいのです。わたしだけが問題です。(前述したように私が目に見える外の世界は、私と別個に起こっているのではなく、全てが一つの私として起こっているということです。)  つまりBさんが自分を不快にしているのではなく、その人が鏡になって自分を見ているのです。 さらにこの嫌っている人間をやたらと評価している人間Aさんががいます。 Aさんも気に入らなくなります。 なぜBではなく、自分を評価しないのか? 承認欲求が傷つきます。 自分に自信がないからというのが見えてきます。 だから誰かに評価されたいのです。 Bさんは悪い奴だと思っている信念があります。 そうすると悪いBさんを裏付けることばかりが見えてきます。 その内Aさんも嫌いになります。 そうやって嫌いな人間が一人ずつ増えていきます。 嫌いの度合いが強いということは、それだけ今起こっていることがリアルになっているということです。 自分にはどうしても必死に守らなければならない何ものかがあるのです。 依存があります。 そのうち、そんなことに深刻になっている自分が嫌いになってきます。 俺はなんと小さな器なんだ! いい歳こいていい加減にしろ! そうなります。 自分のプライドが攻撃されます。 とうとうこのシーンの全員が嫌いになってしまいました。 
今の今まで自分は正しくて、悪いのは相手で、わたしはいわば犠牲者だったのに、自分の罪悪感が浮き彫りになってきました。 でもそんな情けないわたしの全てが見えてきたら、それでいいのです。 そのまま、そのままでじっとしています。 全てにわたってジャッジしません。 そんな情けない自分を愛してやります。 労わってあげます。 (これがいわゆる温泉ワーク!)
ここまでで信念、プライド、依存、承認要求、コンプレックス、自信喪失、罪悪感とずいぶんたくさんキーワードが出てきました。 でもこれらは本当に私に必要なのでしょうか? そう問いかけてみると、何かがほどけるような、固まっていた何ものかが溶けだしたような気になってきます。  これは鍋で鶏スープを作るのと似ています。
ちょうどまな板に丸鶏を載せて包丁でお鍋に入れやすいように、火が通りやすいように解体するようなものです。 分析するのではありません。 親が悪い、先生が悪い、友達が悪い、上司が悪い、あの環境が悪い、そうやって外部に原因が見えてきます。その時に、その悪いナニモノかは自分の何を傷つけたのかにフォーカスします。 プライドだったり、信念だったり、身の安全だったりします。 矢印を自分の外から内へ向かせるわけです。すると防衛すべき何かがあることが見えてきます。 今の自分から逃げないで、嫌がらずに、じっくりと眺めます。 そうするとさらに表面的な不快や恐怖の奥に深く沈んでいた記憶が上がってくることがあります。 「あのBさんに以前傷つけられた」という記憶、さらにこれに関連して他の似たようなシチュエーションで傷つけられたエピソード記憶が上がってくるかもしれません。 その時も傷つけられたのは自分の何だったんだろうか? と自分に問いかけてみます。 そうやっていると何かが解けていきます。 つまり肉の塊を解体していくのです。 それを聖霊という名の香味野菜を入れた水が入っているお鍋に入れて火をつけます。 後はただじっと待つだけです。 火をつけて温めてやるということは愛するということです。ジャッジしません。 そうしたら、知らないうちに生臭い肉がおいしいスープに変わっていることに気が付きます。 大切なのは、鍋を温めてじっと待っていることです。 他に何もしないのです。 しばらくすると、何か軽くなった気になります。なんでこんなことで深刻になっていたのだろうと不思議に思います。 それは聖霊が私の軛の一部を取り消してくれたからなのです。 そうやって私の中に膨大に蓄積されたデブリ(ゴミ)、記憶が消えていきます。 
「赦し」をコツコツおこなうというのは、私の中に過去の人類がため込んだデブリ、記憶があるからです。 つまり各個人がおこなう「赦し」は人類全体に影響するのです。
なぜなら我々の大本ははたった一人の人間だからです。
 

般若心経                    2013年4月10日

2024-09-30 12:26:00 | 日記
般若心経                    2013年4月10日
 
どの書店に行っても必ずといっていいくらいこのお経の解説本があります。 わたしも数冊持っています。 このお経が重要なことはみんな知っているでしょう。 ではどうして重要なんでしょうか。 よくこのお経は仏教のエッセンス(精髄)と言われています。 何が精髄なのか?
 その前に、この話を聞いてください。 わたしの好きなテレビの番組があります。 それは「世界ふれあい街あるき」と「世界バス紀行」です。 どちらも世界各国の日常の人々の生活に触れることができます。 ここには他のテレビのようなタレントなどのプロは出てきません。 著名人も出てきません。 新聞に取り上げられるような人もいません。 先日はマレーシアの街を歩きました。 マレーシアはオートバイが大変多い街で、交差点の近くにこのオートバイを直す人がいます。 彼らはオイル交換とか、ちょっとした修理をすぐその場でやって生計を立てています。 そのおじさんと普通に挨拶し、何やってるか話します。 ただそれだけです。 そのおじさんはストローに油をためて、うまくチェーンに油を差していました。 なかなかうまいもんだろと言いながら。 こうやって世界中様々な普通の人々に会っていきます。 こういう普通の人々が何千も何万も、何千万人もいるわけです。 みんなそうやって生まれて、恋をして、日々の暮らしをして、病気になって、歳を取って死んでいくわけです。 わたしもその一人です。 それがニューヨークであっても、マレーシアであっても、基本のところは変わらないのです。 高級車とオートバイの違いくらいかな。  般若心経は実はここのところを見抜いています。 我々の目の前にBMWがあろうが、オートバイであろうが、それらは目の前に現れ、そして壊れ、消えていく存在なのです。 それを般若心経では「空」と呼びます。 我々自身、生まれたものは必ず死ぬのです。 形のあるものは必ず、壊れ、なくなるのです。 熱力学で言えば、エントロピー増大の法則です。  形在るものは無くなる。 これが色即是空という意味です。 だから無くなってしまうものが形なのだ。 これが空即是色、この世に起こる現象なのだというのですが、一方、形がないもの、この世に生まれもせず、生まれないからこそ死にもしないものがあると言います。 諸行無常の中、変わらないものがあるのです。
ちょうどロールプレイングゲームをしているようなものです。 ある人はマレーシアの下町に生まれ、ある人はニューヨークの高級マンションに生まれる。 でもそこで「あなたは誰か?」という質問をされ、心底、まじめにその質問に答えようとしたら、どこで生まれたかは、一つの環境属性に過ぎなくなります。  あなたはそういう役を割り当てられているだけなのです。 だからといって勘違いしないでください。 貧しい人は貧しいままでいいんだよといっているのではありません。 運命論でもありません。 ただ自分が日本人で、フランス人で、女で、男で、頭がよくて、悪くて、格好がよくて、悪くて、親が金持ちで、貧乏で、等々、そういうことが「あなたは誰か?」の質問の本当の答えにはなっていないということなのです。 あなたには10歳のあなた、18歳のあなた、25歳のあなた、50歳のあなたがいるのでしょうか。 何かに失敗して、惨めな時のあなた、成功して元気はつらつのあなた、どちらが本当のあなたなんでしょうか。 この時間を通じて一貫して一人のなたがいるとは思いませんか? 感情や、思考や、感覚に左右されない、あなたの芯、いわゆる「真の我」、「真の私」があると思いませんか? 
仏教では「諸法無我」という言葉があって、それは、すべてのものには我となる主体がないということを意味しています。  道元も「我々は身体髪肌はもと父母の二滴に過ぎず、一つ呼吸が止まれば、直ちに生のないものとなり、四大は山野に離散して、ついに泥土となるばかりだ。 どういう訳で身に執着できようか。 」と言っています。 でもここで言う「真の我」とは我々の精神でも、頭脳でも、霊魂でもありません。 「真の我」とは「自我」を抜け出たものであり、かといって「超自我」のことでもありません。 それは実はキリストが言った次の言葉で表される永遠の命のことと言ってよいものです。
 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 (ヨハネ 12章25節) 
この世で自分の命を憎む人は我という物質を志向していないのであり、したがって形がないのであり、だからこそ初めもなく、終わりもない永遠の命に至るのです。 
般若心経ではこの「真の我」は大海に流れ着く一粒の雨のように無くなってしまいます。 実在するのは大海そのもののみ。 すべてのものは一つになり、そこに分別はありません。 
般若心経はこう述べます。
照見五蘊皆空
人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ。
五蘊とは
色蘊(しきうん) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。
受蘊(じゅうん) - 感受作用
想蘊(そううん) - 表象作用
行蘊(ぎょううん) - 意志作用
識蘊(しきうん) - 認識作用
つまり、私も私の魂も、そしてこの世界のすべての物質も幻のように実体がないということです。
実体がないからこそ、(つまり空であるからこそ)私も私の魂も、そしてこの世界のすべての物質は、生まれては滅し、汚れたり、きれいになったり、増えたり減ったりするのです。 
色不異空
空不異色
色即是空 
空即是色
しかしこの実体がない「空」は別のとらえ方が必要になります。 たとえばここに空の箱があります。 箱の中身は「空」です。 この中につがいのネズミを入れて育てたら、子供を産みました。 ネズミの数が増えました。 そのネズミが死にました。 数が減りました。 つまりこの箱の中で、生まれては滅し、汚れたり、きれいになったり、増えたり減ったりします。 ここでまったく変わらないものはなんでしょうか。 それはもちろん、箱の「空」、空間です。 つまり箱の「空」自体は減りも増えも、生まれも死にもしないのです。 これが、
不生不滅 不垢不浄 不増不減
ということです。 我々の心の中には毎日絶えず色々なものが入ってきては、消えていきます。 もしここで、その色々なものが実体のあるものだ、それ自体が自分なんだとしたら我々は、我々はそれらに執着し、振り回されます。 ひどい差別を受けたとして、差別を受けた自分が実体としてあるのなら、それは辛いものです。 でも差別を受けたのはいったい誰か? 自分だ。 では自分とは誰か? と問いかけた場合、我々は一つの箱に嫌なものが入ってきて、それに執着しない限り、それが出て行くのを観察することができます。 わかりますか? 差別を受けたのは箱の中の、私の自我なのです。 そして本当の私は自我ではなかったのです。
この空の箱の中には、物も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。目に映る世界から、心の世界まですべてありません。 
是故空中無色 
無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法 
無眼界 乃至無意識界
この空っぽの箱に「無明」、つまり迷いが入れば迷い、迷いが出て行けば迷いが無くなります。 また老いと死が入れば老いと死があり、老いと死が過ぎれば、老いと死が無くなります。  我々は常に嫌なもの、消極的なものを遠ざけ、好きなもの、積極的なものを、自分の箱の中に入れようとしますが、自分が箱の中に入ってきたものと同化してしまうと、我々は絶えず翻弄され、苦しみを受けることになります。 自分と箱に入ってきた中身とは違うのです。 入ってきたものは互いに戯れあい、衝突し合い、そして出て行きます。 そして入ってきたものはいずれ出て行くことを知っている我々は嫌なものも、好きなものも両方受け取ります。 どちらも拒まず、留めようとせずに。 なぜなら我々はそのどちらも無駄であることを知っているからです。 そこには何の修行も方法も必要ありません。 抵抗することも努力することも必要ありません。 遅かれ早かれ幸運や不運はわれわれに訪れます。 すべてのものごとは我々の箱の中で立ち現れ、苦しみは移り変わり、過ぎ去っていきます。  逆に我々がそれに抵抗し、努力することで、その現象は思考によって固定化し、我々の箱の中に居座り続けることになります。
無無明亦 
無無明尽 
乃至無老死
亦無老死尽
無苦集滅道
無智亦無得 
この空の箱の空間とは何でしょうか。 ただ単純に何も無い、空っぽということなんでしょうか。 我々がこの物質界に生まれたことによって限定性が生まれました。 あなたの身体が占めている空間を私が同時に占有することができません。 私の身体はあなたの身体が占めている空間以外のところに限定されます。 箱の中の空間とは、その意味で限定された空間です。 それが我々の自我の作り出す限定空間です。 ところがよく考えてみると、本来我々の箱の空間は物質に捕らわれてはいないのです。 なぜなら我々が言う空間はけっして物質によって作られたものではないからです。 それは限定されておらず、あなたとわたしの空間は共通であるかもしれないのです。 わたしという狭い空間に閉じ込められているのは、実はわたしの物質からの影響によって騙された結果に過ぎないとは言えないでしょうか。 これが一粒の雨が流れ込んだ大海のイメージとなります。
さらにこの空間はただの空っぽとどこが違うのでしょうか。 それは「気づき」という点です。 自分の空間に自分の目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚から情報が入ってきます。 これを自分の先入観で解釈し、楽しいとか苦しいとかを感じます。 そしてこれらについて思考を開始しますが、この一連の対応に我々は「気づく」ことができます。 我々はここで純粋な観照者になることが可能です。 (ここがおもしろいところ。 我々は大海のイメージで、我々自身の身体、脳、魂、と消し去ってきたのですが、それでも最終的に残らざるを得ないものがあります。 それが「気づき」なのです。)
もしそれが可能であれば、我々は自由になります。 なぜなら苦楽は私の身体と心に起こっていることであり、本来の私ではないことが分かれば、心に妨げがなくなり、心に妨げがないので恐れもなくなるからです。 
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
得阿耨多羅三藐三菩提
ここで我々は一つのどうしても避けて通ることのできない落とし穴があることに気がつかなければなりません。 それは「思考」です。 わたしは今、こうやって般若心経を解説しているように見えますが、実はこれを読んでも、思考に使われる知識材料でしかなければ何の意味もないのです。 そもそも、もし真理が思考によって理解できると言う人がいれば、それは間違いなく嘘です。 「神」も「真理」も言葉では表現することはできません。 これは言葉が物質にその基盤をおいているからです。 また思考はいつも過去なのです。 そして思考の描き出す未来は過去からの類推に過ぎません。 我々は絶えず自分たちの箱の中に思考によってストーリーを作り出し、その幻を膨らませています。 我々の恐怖、苦しみの原因はここにあります。 
それではどうやってこの「思考」という鎖から解放されるのでしょうか。 それは今、現在、ここで十全に生きることにつきます。 そしてそれは思考を停止を意味します。 何もしないで思考を一時でも停止できるならば、以下の呪文も要りません。 この呪文を唱えなければ、真理に至ることはできないということはけっしてないのですから。 キリスト教ではロザリオを唱えます。 これもとても効果的な方法です。 ここに理性ではない信仰が始まります。 もしあなたにぴったりとくるのなら、ぜひ以下の呪文をいつも唱えてみてください。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶
全文
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶 般若心経 
 般若心経の解釈としてはこれで終わっていいのですが、まだ何か疑問が残っているはずです。 それはなぜ、そもそも我々はこの物質という世界に生を受けたのか?ということです。 なぜ重力の支配するこの世界に生まれたのか? このことを理解しないと、我々は変に悟ったようになり、物質を遠ざけ、厭世的になってしまいます。 確かに仏教では執着するなと教えます。 般若心経は、まさにこの無執着を説いているわけです。 でも何事にも執着しなければ、いったい何がこの世で達成できるでしょう。 また、たとえば、目の前においしそうなイチゴがあったとして、それはただの物質的現象であり、過ぎ去るものであり、執着してはならない、欲望に支配されてはならない、ただの目から入った信号が神経を伝わって我々の食欲中枢を刺激しているだけだと言われたからといって、ただ死人のようになっていればいいのでしょうか。 目の前に溺れそうな人がいて、「いずれ人は死ぬのだから。」と言って、助けないでいられるでしょうか。 今、現在、ここで十全に生きるとはどういうことなのでしょうか。
700年頃、インドにシャンカラという人が現れました。 この人は肉体をも含めた一切の現象世界は、本来実在しないと説きました。 つまり目の前にある世界は幻想に過ぎないと言うのです。 この般若心経も同じようなことを言っているように思えませんか? 我々の目の前にあるもの、そして我々自身、みな空だ、実在ではないということです。 この実在と幻想の関係を映画のスクリーンに例えることがあります。 我々には様々な現実が目の前に起こっているようですが、実はスクリーンに映った映像に過ぎない。 そして現実はスクリーンを観ている我々の方だというのです。 それではそのスクリーンに映し出されている映像はつまらないものなのか? それは無明によって作られた幻想に過ぎないのか?  あの日本歴史上最も立身出世したと言われる豊臣秀吉は最期に「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」と言います。 でもこんなことを言われて、その秀吉に殺された何万もの人はたまったものではないでしょう。 「夢のまた夢」であることは間違いないのです。 しかし「夢のまた夢」だからといって、なおざりにすることはできません。 なぜならその「夢のまた夢」も「真の我」、「真の私」が作り上げたものですから。 つまり「夢のまた夢」、「スクリーンに映し出された幻影」だとしても、それを映し出しているのは「実在」そのものなのです。 手を伸ばせば、我々は溺れそうな人を助けることができます。 目の前にある幻想を大切にしない人は実在も大切にすることはできません。
 我々が肉体をこの地上で得たのは個我意識を形成するためであるということはほぼわたしの中で納得いくことと思っています。 この世界は「夢のまた夢」と言われながら、重力があります。 重力のために、我々は重荷を背負わなければなりません。 十字架にかかる最大の苦痛は重力です。 なぜ我々にはこの重力があるのか。 それはこの鈍重な動きの中に我々の個の意識が育まれるからなのです。
 それではなぜ個の意識が育まれる必要があるのか? 創造主、神、その「わたしは在る」というもの、その一つだけでいいはずじゃありませんか? 我々がそこに回帰していくべきなら、そもそもなぜ離れてしまったのですか? それは我々の原罪のせいですか? なぜ最初から一つではないのですか?  仏教的に雲から落ちてきた雨水の一粒がまた大海に飲み込まれ、また蒸発して雲に戻っていくというイメージがあったとしても、なぜそうなるのか、そうしなければならないのかがわかりません。  それともわたしは今、理性によって世界を把握しようとしていることに問題があるのですか? 確かにわたしは言葉で理解しようとすること、言葉で理解できなければならないと思い込んでいるようですね。
 ただ、そのような手探りの状況の中で、はっきりしていることは我々の意識する我はこの重力の世界で、揉まれ、鍛えられ、叩かれ、震え、そうやって個性化し、霊を成長させるということです。 ここで言う霊とは「霊魂」のことではありません。 このことは以前述べました。 
 霊とは幽霊のような類のものではなく、性格でもなく、属性でもなく、知覚することも,感じ取ることもできません。  もちろん、オカルトに出てくるようなものでもありません。 しかしその見ることも掴むこともできない「霊」こそが実在し、さらに個性を有しているのです。 (ここで言う個性とはその人の性格というようなものではありません。) こうなると我々は大海に流れ込む一粒の雨のようなイメージでは捉えられなくなります。 大事なことはこの個性がこの地上で絶えず問いかけられているということです。  
 わたしたちはいつか必ず死ぬのに、どうして生まれてきたの? 生まれてきたこと、そして死ぬまで生きることに何の意味があるの? この根本的な問いは、我々が人生に問うのではなく、人生が我々に問うています。 この違いがわかりますか? ちょうど親に粘土を渡されたようなものです。 子供が親に何を作ればよいの?と聞くのではなく、親が子におまえは何を作るのか?と問うているのです。 我々はこの物質界で様々な道具を与えられています。 与えられた粘土はもうすでに、ほとんど形ができあがっているかもしれません。 逆にほんの少ししか与えられないこともあります。 途中で兄弟の誰かに壊されることもあります。 粘土という物質に我々は手を加え、意味が生まれます。 粘土を与えられなければ我々は何も作れず形ができません。 もちろん、個性化もできません。 でも粘土そのものは重要なのではないのです。 粘土は立派であろうがなかろうが、すぐに崩れてしまいます。 粘土は「空」です。  粘土はおもちゃなのです。 大切なのは粘土でもなく、粘土によって作られた形でもなく、我々自身なのです。 わかりますか?  大事なのは子供に与えた粘土でも、子供がその粘土で作った形でもありません。 親にとって一番大事なのは子供なのです。 
 フランクルという精神科医はこれを「創造価値」と呼びます。 そしてこの他に「体験価値」、「態度価値」を揚げます。 「体験価値」とは美しい夕陽を見るようなこと、人生で様々なものを体験すること。「態度価値」とは人生の問いかけに対してどのような態度によって個性が応ずるかということです。 この価値は我々の人生が最期に必ず来るように設計されているます。 我々の目は衰え、力は弱り、記憶は薄れ、身体の至る所が不自由になってきます。 我々は次第に「体験価値」も、「創造価値」もできないようになってきます。 そうやって物質界を離れる準備をするわけです。 「態度価値」についてフランクルは次のように述べています。
「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。 それにもかかわらず私と語った時、彼女は快活であった。「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉通りに彼女は私に言った。 「なぜかといいますと、以前のブルジョア的な生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」 その最期の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。 「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。」と彼女はいい、バラックの窓の外を指した。 外では一本のカスタニエンの樹がちょうど花盛りであった。 病人の寝台のところに屈んで外を見るとバラックの病舎の小さな窓を通してちょうど二つのろうそくのような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。「この樹とよくお話ししますの。」と彼女は言った。 私はちょっとまごついて彼女の言葉の意味が分からなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。 「樹があなたに何か返事をしましたか?ー しましたって! ー ではなんて樹は言ったのですか?」 彼女は答えた。 「あの樹はこう申しましたの。 私はここにいる ー 私は ー ここに ー いる 私はいるのだ。永遠の命だ……。」  …「夜と霧」170頁
 私は彼女のような壮絶な経験はありませんが、「私はここにいる ー 私は ー ここに ー いる 私はいるのだ。永遠の命だ……。」と樹が言うのを聞いたことが確かにあります。 ですからこの彼女の言葉はわたしにとって驚きと共鳴を与えてくれます。 ああ、同じことを言った人がいたのだと。 実にわたしはその時、樹が世界中のどこかで生きている限り、わたしは生きられると心の底から思いました。 「私はここにいる」というのは聖書の出エジプト記第3章第14節で、神がモーセに応えて言う言葉、「私は在りて在るものである」のことです。 
 我々がこの地上に生まれてきたのは「価値」を作るためです。 「意味」と言ってもよいでしょう。 そこには自然界に様々なヴァリエーションがあるように、人間の顔がみんな違うように、神と我々の個性のパーソナルな、一対一の関係によって作られます。 誰か偉い人がこうしなさいと言ったから従うのではありません。 誰もその人が作り上げた「価値」を評価することはできません。 ある人は多くの人に影響を与える仕事をするかも知れません。 ある人は一人の人を愛するだけで死んでしまうかも知れません。 でもそんなことはまったく関係ないのです。 
さあ、ここまで読んで、再度般若心経を読んでみてください。