以下の文章が奇跡のコースについて娘に書いた長い手紙ですが、もし何か気が付いたり訂正した方がよいものがありましたら、教えてくださると大変助かります。
奇跡のコースの学習は現在進行形です。
◎ 赦して、聖霊に委ねるにはどうすればいいのか?
この世界はあなたの居場所ではないのです。
あなたはこの世界では、よそ者なのです ……レッスン200
赦しは、いったい何をするのでしょうか。
真の意味では、赦しには何の役割もないし、何もすることはありません。
というのも、赦しは天国では知られないからです。
赦しが必要とされる場所があるとすれば、それは地獄だけです。そして、地獄において、赦しは偉大な役割を果たすに違いありません。 ……レッスン200
「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」……ヨハネ福音書8:23
抵抗すれば、それは存在し続ける …… カール・ユング
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奇跡のコースやホ・オポノ・ポノの最も重要なキーワードは「赦し」です。 奇跡のコースの難解な文章を理解しても、実際に赦されなければまったく意味がありません。
ですから、わたしにできる唯一の実質的なことは「赦し」をコツコツとすること。 一日に50回でも60回でもいいから心に引っかかることが出てきたらとにかくそれをやること。 それしかないことはわかってきました。 ホ・オポノ・ポノにもありますが、そうやっているうちに習慣になってきて、意識的にやろうとしなくても無意識に赦しがおこなわれるようになるのだそうです。
ところがあれだけたくさんの文章があるのに、この最も大事なところは、「赦して、聖霊に委ねなさい」としかないのです。 それでは実際にどうしたら赦せるのか? どうしたら聖霊に委ねられるのか? ということは具体的に実際にやってみないとわかりません。「湧き上がってきた思いを聖霊に委ねましょう。」、「温泉に入ったようなイメージをしましょう。」、「ここ、今だけを見ましょう。」、「考えないようにしましょう。」、「身体の一部に意識を集中しましょう。」とか言われても、実際はそれができる状態にまでなかなかなれないのです。 おしまいには「それができるんだったら、何もこんなに苦労しないよ。」と文句を言うようになります。 コントロールすることも、受け止めることもできない緊急事態か、逆にどうしようもないほど、立ち上がることもしんどい鬱状態の時があるからです。 そんな時は単純においしいものを食べて寝た方がいいこともあります。 しかしそれだけでは根本的な解決にはならないことも事実です。
これはリンゴの皮の剝き方をどんなに言葉で説明しても実際にナイフをもって剥いてみないとできないのと同じです。 人それぞれ、しっくりくるやり方があるのでしょう。
〇「赦し」ができないのは「赦し」の実感がないから。
「赦し」ができないのは、まず「赦し」の実感がないことです。 赦そうとしているのにもかかわらず、問題のエピソード記憶が繰り返し現れてきて辛くなってきます。 その度に聖霊に委ねて、赦せと、また赦せなくても、赦せない自分を赦せと言われるわけですが、何か空回りしているような気がしてきます。
〇原因の一つは圧倒的な現実感
原因の一つは目の前に起こる出来事が圧倒的に現実感があるということです。 ナイフで刺されたら血が出ますし、痛いし、死ぬことさえあります。 手元に届いた請求書は次の朝に目が覚めたら無くなるわけではありません。 車を運転していて誰かを不注意で殺してしまったら、その事実は一生消えることはありません。 目に見える現象はセロファンのようなもので、セロファンの向こうに実相があると言われても無理です。
先日、札幌は久しぶりに良い天気になり、冬山を散歩しました。 渓流に小さな橋が架かっており、そこをスノーシューで歩くのですが、水が気持ち良い音を立ててとても美しい光景でした。 でも、この光景が美しいと言ってそれを直接掴むことはできません。 それらは絶えず変化し、うつろっていきます。ですから、このうつろいゆく現象の奥に「美」のイデアがあるというのが、セロファンのたとえなのかなと思いました。 しかし「美」のイデアなんてものはどう頑張っても知覚できないのです。 「美」は実体の経験を表すものであり、「美」のイデアが我々の外のどこかに独自に存在しているわけではないのです。 それは我々の中にあります。
ルパート・スパイラはこんなことを言いました。
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「知覚することが止まったとき、物体、他者、世界は消え、それらの実体である気づきは残り、それはありのままに自身を知り、物体の見かけに曇らされることはありません。これが美(Beauty)として知られる経験です。」
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〇全ては一つの私として起こっている
この世は幻でセロファンの向こうに実相があることを実感するにはどうしてもある一つの必要な気づきが必要となります。 それは私が目に見える外の世界は、私と別個に起こっているのではなく、全てが一つの私として起こっているということです。 「美」は私の気づきの中にあるのです。 外にあるわけではないのです。 誰かがわたしに悪態をついたとしても、それは私の世界の中でおこっています。 その誰かは私と別個の存在ではなく、私の気づきの一部です。
それはちょうど夢の中で、誰かが私を殺そうと襲ってきたとしても、それは全て私の頭の中で起こっているのであり、これに対する最適な対策は夢から覚めることなのです。
夢の中で誰かが私に悪態をついたとして、私がそこで、ショックを受けたり、傷ついたり、反撃を加えたり、言い負かしたりしたら、どちらにしてもそれは私が夢を現実だと思い込んだことになります。 その時、わたしができる最も適切なことは夢を夢だと見破って、この辛い夢のストーリーを作り出した自分を労う、愛すことに尽きます。 「ああ、大変だね。辛かったね。でもこれはみんな夢なんだよ。大丈夫なんだよ。 聖霊にお願いしたらみんな引き受けて消してくれるよ。」、そう言ってやるのが『赦し』です。
ナイフで刺されたら血が出ますし、痛いし、死ぬことさえあります。 手元に届いた請求書は次の朝に目が覚めたら無くなるわけではありません。 車を運転していて誰かを不注意で殺してしまったら、その事実は一生消えることはありません。 しかしそれらは、痛みも含めて、全てが自分の中で起こっているのです。 夢の中でも、雪道を滑って転んだら、どちらの足が滑って、どの筋肉が動いて、尻もちをついた尻の感覚や両手をついた雪の冷たさ、それらはすべて感じることができます。 (これはついこの間実際に私が見た夢です。) 夢の中でも請求書は来ますし、人も殺します。 昨日人を自分の不注意によって事故を起こしてしまった記憶を今、頭の中に呼び出すのは私自身です。 他の誰でもありません。
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この世界はとっくの昔に終わっているのです。
この世界を作り出した想念は、それらの想念を思いついて、しばくの間それらの想念に愛着した心の中にはもうありません。
奇跡はただ、過去は去ったこと、そして、本当に過ぎ去ってしまったものには何の結果もないことを示すだけです。
ある原因を思い出すことによって、その原因が目の前にあるような錯覚を生み出すことはできても、結果を生み出すことはできません。
もはやここには、罪悪感の及ぼすどんな結果もありません。
というのも、罪悪感は去ってしまっているからです。
罪悪感が過ぎ去ったとき、原因がなくなってしまったので、罪悪感のもたらす結果も去ったのです。
もしあなたが罪悪感の及ぼす結果を望んでいなかったなら、どうしてあなたは記憶の中の罪悪感にしがみつこうとするのでしょうか。
思い出すことは、知覚の過去時制の形なので、知覚することと同様に選択的なものです。
思い出すことは、過去のことを、まるで今起こっていて、依然としてそこに見えるものとして存在するかのように知覚することです。 …テキスト28章
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昨日のことを今、思い出してまるで今起こっていて、依然としてそこに見えるものとして存在するかのように知覚するのはこの私以外の誰でもありません。 罪悪感は残っているでしょう? と言われそうですが、空に流れる雲のように罪悪感も去ってしまうのです。 それを必死につなぎとめようとしているのもこの私です。 すべては私の夢の中で起こっています。
これがナーガルジュナが唱えた「色即是空 空即是色」の本当の意味です。
実は現実の我々の脳も、我々の脳の外にある現象を頭の中に仮想世界を作って認識しています。 五官から得られる膨大な情報は、我々の脳の中で取捨選択され、仮想世界に再構築されることで認識されます。これが脳の機能の一部が壊れると我々の視界の左側にあるものは認識しなくなったりします。 つまり彼には左側には世界は存在しなくなるのです。脳科学的に言っても我々は自分が創り出した世界を見ているのです。実体を直接見ているのではないのです。
〇赦しの目的は「真の喜び」を得ること。
この世が幻想だとか、夢だとか、地獄かだと言って、その目に見えるものはセロファンのようなもので、その向こうに実相があり、それは「赦し」によって見えてくると言っても、その実相がこの世と同じように地獄のようであれば、赦す意味がありません。 まず実相の世界に真の喜びがあることを自分が経験しなければ「赦し」をしようとは思わないはずです。
ロバート・シャインフェルドはこう言いました。
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わたしは力であり、神の現れである。
これを創ったのはわたしだ。
これは現実ではない。
完全な作り物だ。
ただの物語、私の意識の創造物がリアルに見えているだけだ。
姿を変えた「真の喜び」だ。
わたしはこの創造物から力を取り戻す。 今!
「ビジネスゲームから自由になる法」 ロバート・シャインフェルド著より
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なぜ「姿を変えた『真の喜び』」なのでしょう。 それは私たちは神の子として神から創造力を分け与えてもらっており、この「神の創造」の原動力は愛だからです。 そして愛は喜びなのです。 この力を我々は神を外して自分だけで創造してしまいました。ですから「姿を変えた」という表現になるのです。
これはシャインフェルドが実際に経験したことであって、そこには何の根拠もありませんが、その経験が彼のすべての行動を支えています。
〇「真の喜び」はどうしたら得られるか?:
私は今なら、この経験が微かにわかります。 しかしこの経験は「どん底」を意識しないとなかなか得られないようです。 なぜなら我々の内外に頼るものが他に一つでもあれば、まずその自分の意識の創造物に向かい、慰めを得るからです。 (これがUNDOINGの根拠です。 前進するのではなく後退すること。 得るのではなく、捨てること。 何かをするのではなく、することを止めること。)
「どん底」を意識するというのは、自分のアイデンティティを支えてきたものが崩れ落ちるということを意味しています。 お金、住居、パートナー、家族、友人、血統、人種、所属する組織、仕事、実績、社会的地位、健康、体力、知力、実力、そしてプライド、信念、記憶、それらがすべて失われるということです。 (結局それは「死」のことです。)
癌のステージ4だと宣告されたとか、現実的に「どん底」になる必要はありません。 もちろんその方が強力ですが、ただイメージしただけでも違います。 というのは奇跡のコースは原因、源の方を扱うのであって、我々の外に起こることはすべて夢(幻想)として我々の心が投影したものだとするからです。 現実に何が起こるかということよりも、そのストーリーを生み出す我々の心の方が重要なのです。
私たちはしんどくなった時、「どん底」を味わう前に様々な方法を使ってこれを回避しようとします。 映画やテレビ、Youtube、インターネット、ゲーム、スピ系の読書、教会、気功やエクササイズ、祈り、瞑想し、指導者に助けを求め、慰めを与えられ、人生相談を受け、友達と話し、食べて、飲んで、酔っぱらって、さらに奇跡のコースで言うように他者に投影して、一緒に戦う仲間を作って、反撃して。 我々のほとんどはこれらのことをすることで「どん底」に至る途中で引き返しています。 そしてこの世は快感から、天災から、勝利や敗北、その他あらゆるアトラクションが次から次へとやってきて、我々に休みを与えません。
最近見た映画に「すばらしき世界」という役所広司が主演をしたものがあります。 実は「すばらしき世界」という題名なのに、主人公は幼いころ、母親に捨てられ障害沙汰を起こして少年院に入り、暴力団に入り、人を殺し、離婚し、旭川刑務所で何十年も入退所を繰り返し、今度こそ、刑務所に戻らないと決意するのですが、心臓病を抱え、なんとか生活保護から脱して自立しようとした矢先に自分のアパートで死んでしまったという外から見ればなんともやりきれない実話です。 でもこの映画の題名「すばらしき世界」というのは決して皮肉を込めて言っているのではないのです。 社会の不正や歪、様々な偏見や憎しみや貧困や軽いノリで普通の人が他人を恐ろしく傷つけるようなことが、普通に起こっている中でも、よくよく見るとキラキラと愛が光っているのが見えるのです。 キラキラと光っている愛を見つけたのは彼自身の心の中にある愛です。 なぜなら、外にある愛は、内にある愛の反映だからです。 またこの映画の作者であり、その映画を観ている我々です。 もしかすると神の視線かも知れません。 このじわーっと身体を包み込むような喜びというか安らぎは「愛」です。
「真の喜び」とはこの愛の創造力が躍動し、延長していく喜びです。 「すばらしき世界」の主人公のようなまるで救いようがないような「どん底」のような状態であっても、その基底にはキラキラとした絶対的な愛が流れているのです。 その愛を見つけるのはその人自身しかありません。
私たちが今まで個別化し、差別化し、築き上げてきたアイデンティティが崩壊していったその向こうに本当の私たちのアイデンティティが待っています。 それは「神の子」という特別性のないアイデンティティであり、だからこそ、他の人々と一つになれるのです。
ティックナットハンのプラムビレッジにいるシスターは、「最も自分がリラックスするときは大きな身体の細胞の一つとしてみんなといっしょに働いているときです。」と言います。 白血球や赤血球のように人それぞれに様々な役割がありますが、どの一つも欠かすことができないものです。
〇感謝は「どん底」から生まれる。
また別のプラムビレッジのシスターは、朝起きると、すぐに様々な心に栄養を与えてくれるものを見つけることができると言います。 朝の光、静けさ、さわやかな空気、朝の音、道端の小さな花、道で出会う人の笑顔、それらは心の栄養となります。 強いしっかりとした心を育てます。 でも、我々はそんな気分にはなれません。 それらは日常の、いわば当たり前のことであり、もっと上を目指す私たちにとっては逆にそんなベーシックなものが少しでも揃わないとまるで感謝どころか腹が立つ原因になります。 なぜこのシスターは変わらずそんな小さなことに感謝することができるのでしょうか。 それはこのシスターが常時「どん底」の状態に意識を置いているからなのです。
〇神への恐れ
「赦し」を阻むもう一つの原因は実は我々は神を恐れているということです。
つまり赦すと言っても神が私に脅威を与えているのなら、赦せるわけがないのです。
私たちは神に私たちが生まれてから今までずっと大きくし、維持し、必死に防衛してきたアイデンティティ(自我)を剥奪されることを恐れています。
死が何よりも恐ろしいのは、身体的な一時的苦しみよりも、自分というアイデンティティがこの宇宙の一切から消えてしまう虚無感です。 ですから宗教は死後の霊魂を我々にイメージとして与え、我々のアイデンティティに保証を与えます。
しかしこの必死に守ってきたアイデンティティがこの世界をリアルなものにします。 なぜなら我々のアイデンティティはこの世で生きるためのアバターを形成するものだからです。 自分のアイデンティティがリアルで安泰である限り、私たちは死ぬまで本源を知らないで過ごすことができます。 ちょうど映画「マトリックス」でサイファーがエージェントスミスと取引をして自分のチームを裏切る代わりにマトリックス(仮想現実)の裕福な生活を保証してもらおうとするようなものです。 また「はてしない物語」のバスチアンのようにファンタージェンでの生活が楽しければ、現実の世界のことなんて忘れてもいいと思うようなものです。 才能と財力と健康と運と環境に恵まれた人は、この世は幻想だという奇跡のコースには一切近づかないでしょう。 しかし死や老衰は誰も避けられないため、最期まで無視することは困難です。
これは、逆説的に言えば、様々な要因で起こるアイデンティティの危機は本質に導かれるための恵み、チャンスだということです。
想像してみてください。 今まで大事にしてきたお金、住居、パートナー、家族、友人、血統、人種、所属する組織、仕事、実績、社会的地位、健康、体力、知力、実力、そしてプライド、信念、記憶、習慣、それらが一瞬にして無くなってしまったらどうしよう?
神を恐れるというのは実質、そういうことです。
「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1章23節)
ヨブは最初の方でこれを高らかに言いますが、実際に状況がひどくなると文句をたらたら言い始めます。 身体的な苦痛がやっぱりダメージになります。
宗教は我々のアイデンティティーを守るために、ずっと昔から必要とされてきました。 家内安全、商売繁盛、子孫繁栄、ご利益が目的でない大衆宗教は一つもありません。 現代では保険や警備会社や病院がその代わりを務めています。
ただし、死によって我々個人を構成してきたアイデンティティの一切が剝ぎ取られることはは紛れもないことであり、今まで大事にしてきたものの一切が失われるのです。 「どん底」というのはそういうことです。
禅ではこれを『大死底の人』と言います。 (『碧巌録』第41則)
大死と言っても実際は生きているわけですから、生きていながら自我、執着を一切捨て去った状態のことを指します。 奇跡のコースでは「主は与え、主は奪う」なんてことは言いません。 死はそもそも神がこしらえたものではありません。 神はこの世を創ってもいないのです。 でも考えてみてください。 逆に死が無ければ、永遠に幻想の世界が続いてしまい、本源に戻ることができません。 今のままアイデンティティの維持を永遠に続けなければならにとしたら、そちらの方がかえって恐ろしくありませんか? これって地獄そのものです。
死ぬ気と実際に死ぬのは違います。 ここで言う死ぬ気とは住居、パートナー、家族、貯金、仕事、実績、役職、社会的地位、健康、体力、美貌、記憶、知識、信念、習慣などあらゆる我々個人を構成してきたアイデンティティの一切が取り去られたら何が残っているかと想像してみることです。 瞑想はこのシミュレーションをやることです。 どこかの心地よい森の中の温泉に浸ることをイメージすることではありません。 もちろんそのイメージによってアイデンティティから解放されるのであればいいのですが、我々がまず取り組むのはUNDOING、つまり全てを手放すことです。 温泉は結果であって、全てを手放しても、温泉に入ったようにちゃんと神は我々を優しく温かく支えてくれていることがわかるということです。
ルパート・スパイラはこう続けます。
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考えがおさまったとき、その見かけ上の客観的な部分(思考の部分)は消えますが、その実体である気づきは残ります。時を超えたその瞬間(マインドがそこにないために時を超越しています)、気づきはそれ自身をありのままに味わい、それは思考という見かけ上の客観性を仲介していません。この経験は理解(Understanding)として知られています。
感じることが止まったとき、その見かけ上の客観的な部分(感覚または身体の部分)は消え去り、その実体である気づきが残り、その気づきはそれ自身を愛(Love)または幸福(Happiness)として知ります。
言い換えると、理解、愛、幸福、美は、ひとつの同じ経験、気づきの現前、自己の存在(Being)の認識につけられた異なる名前です。
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知覚がおさまり、考えがおさまり、感じることが止まった時とは全てを手放した時のことです。 残ったものは気づきだけです。 この気づきが言いようのないほど心地よいのです。 これは何かよくわかりませんが、身体的な感じではありません。 これを至福感と言うのかも知れません。 「真の喜び」です。
それではここで最初の問いに戻ります。
〇実際にどうしたら赦せるのか? どうしたら聖霊に委ねられるのか?
「どん底」は我々が過去と未来をの思考した時にジャッジして意識することです。 ですから「全てを手放すこと」とか、禅の表現を借りれば「無一物」、「無執着」と言った方がいいのかもしれません。 しかしこれらの言葉は何か悟りの境地のような特別性を抱かせるのであまり使いたくありません。 そんなスピリチュアルな優越性も防衛の一つですから。
ここで何をするかというと、逆に何もしないのです。 一切の抵抗をやめるのです。 頭の中に過去と未来の思考がわいてきてもそのまま湧いてくるに任せます。 思考をやめようとして、左脳の働きを止めようとするのも、フェルトセンス(身体感覚)に意識を集中することも防衛です。 今、ここにあろうとすることも、今、ここにあるために、ヴィパッサナーを試みても、もしそれで私たちのアイデンティティをプロテクトしようとするのならみな防衛です。 本当に何も抵抗しないし、試みないのです。 ただ、呼吸だけは意識的におこない、呼吸に合わせてゆっくりと丁寧に「どん底」に付随する不安、恐怖、欠乏感、焦燥感、身体感覚を味わいます。 これは抵抗ではなくて逆にこれらの負の感覚を十分に受け止めるためにおこなうものです。
空を横切っていく雲を眺めるようにこのままを味わい尽くしていると、まるで鬱蒼とした森の中を迷って歩いていると突然目の前に大きな広い道が現れた時のような、微かではありますが、ゆるぎない安心感がやってくることがあります。 今までSurrenderと何回も口に出して言っていたのですが、実際はSurrenderしていなかったことがわかります。 この「真の喜び」ははじけるような歓喜ではなく、じわーっと身体を包み込むような喜びというか安らぎです。 それが感じられると、今まで深刻に考えてきたことがまるで笑ってしまうような軽いものになります。 イエスはこう言っています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・中略・・・わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11章28節
この時何が起こったかというと、聖霊が私たちの軛(くびき)を引き取ってくれたのです。
もっと具体的に説明してみましょう。
例えば、Aさんが自分の嫌っている別の人間Bさんと仲良くなったとします。 AさんはやたらとBさんを評価します。 Bさんはわたしを無視しています。 わたしはちっとも面白くありません。 この状態の時、何がわたしの心の中に起こっているのでしょう。 それを見ていきます。 まず自分はなぜそのBさんを嫌っているのか? ということにフォーカスしてみます。 Bさんにコンプレックスがあるのかもしれません。 またはBさんが正しくないという信念があるかも知れません。 狡いと思っているのかも知れません。 でもずる賢く立ち回りたいのは実はこの自分なのです。 そうでなければこんなにBさんが気になるはずがありません。
キーワードは「鏡」です。 本当はAさんやBさんのことなんてどうでもいいのです。わたしだけが問題です。(前述したように私が目に見える外の世界は、私と別個に起こっているのではなく、全てが一つの私として起こっているということです。) つまりBさんが自分を不快にしているのではなく、その人が鏡になって自分を見ているのです。 さらにこの嫌っている人間をやたらと評価している人間Aさんががいます。 Aさんも気に入らなくなります。 なぜBではなく、自分を評価しないのか? 承認欲求が傷つきます。 自分に自信がないからというのが見えてきます。 だから誰かに評価されたいのです。 Bさんは悪い奴だと思っている信念があります。 そうすると悪いBさんを裏付けることばかりが見えてきます。 その内Aさんも嫌いになります。 そうやって嫌いな人間が一人ずつ増えていきます。 嫌いの度合いが強いということは、それだけ今起こっていることがリアルになっているということです。 自分にはどうしても必死に守らなければならない何ものかがあるのです。 依存があります。 そのうち、そんなことに深刻になっている自分が嫌いになってきます。 俺はなんと小さな器なんだ! いい歳こいていい加減にしろ! そうなります。 自分のプライドが攻撃されます。 とうとうこのシーンの全員が嫌いになってしまいました。
今の今まで自分は正しくて、悪いのは相手で、わたしはいわば犠牲者だったのに、自分の罪悪感が浮き彫りになってきました。 でもそんな情けないわたしの全てが見えてきたら、それでいいのです。 そのまま、そのままでじっとしています。 全てにわたってジャッジしません。 そんな情けない自分を愛してやります。 労わってあげます。 (これがいわゆる温泉ワーク!)
ここまでで信念、プライド、依存、承認要求、コンプレックス、自信喪失、罪悪感とずいぶんたくさんキーワードが出てきました。 でもこれらは本当に私に必要なのでしょうか? そう問いかけてみると、何かがほどけるような、固まっていた何ものかが溶けだしたような気になってきます。 これは鍋で鶏スープを作るのと似ています。
ちょうどまな板に丸鶏を載せて包丁でお鍋に入れやすいように、火が通りやすいように解体するようなものです。 分析するのではありません。 親が悪い、先生が悪い、友達が悪い、上司が悪い、あの環境が悪い、そうやって外部に原因が見えてきます。その時に、その悪いナニモノかは自分の何を傷つけたのかにフォーカスします。 プライドだったり、信念だったり、身の安全だったりします。 矢印を自分の外から内へ向かせるわけです。すると防衛すべき何かがあることが見えてきます。 今の自分から逃げないで、嫌がらずに、じっくりと眺めます。 そうするとさらに表面的な不快や恐怖の奥に深く沈んでいた記憶が上がってくることがあります。 「あのBさんに以前傷つけられた」という記憶、さらにこれに関連して他の似たようなシチュエーションで傷つけられたエピソード記憶が上がってくるかもしれません。 その時も傷つけられたのは自分の何だったんだろうか? と自分に問いかけてみます。 そうやっていると何かが解けていきます。 つまり肉の塊を解体していくのです。 それを聖霊という名の香味野菜を入れた水が入っているお鍋に入れて火をつけます。 後はただじっと待つだけです。 火をつけて温めてやるということは愛するということです。ジャッジしません。 そうしたら、知らないうちに生臭い肉がおいしいスープに変わっていることに気が付きます。 大切なのは、鍋を温めてじっと待っていることです。 他に何もしないのです。 しばらくすると、何か軽くなった気になります。なんでこんなことで深刻になっていたのだろうと不思議に思います。 それは聖霊が私の軛の一部を取り消してくれたからなのです。 そうやって私の中に膨大に蓄積されたデブリ(ゴミ)、記憶が消えていきます。
「赦し」をコツコツおこなうというのは、私の中に過去の人類がため込んだデブリ、記憶があるからです。 つまり各個人がおこなう「赦し」は人類全体に影響するのです。
なぜなら我々の大本ははたった一人の人間だからです。