Northern Bear Spirit

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今朝見た酷い夢

2024-11-03 14:36:11 | 日記

今朝見た酷い夢

 

それは、妻と私が口論しているのだが、妻はまったく私の話を聞こうとしない。 私が話す数秒の時間も与えず、その話が途切れることがない。 異常なことに妻はずっと私を非難する内容を一瞬も休まず、私に訴えている。 ところがその内容はさっぱりわからない。 

そんな夢だった。

目が醒めて、その原因が即座に分かった。

私は朝、目が覚めてすぐに本の朗読を聞き出したのだが、二度寝してしまったのだ。

目が醒めて、再びその女性の朗読を聞き出した。 

そうしたら、その内容は心温まる素晴らしいものだった。

 

でも、実はその素晴らしい内容よりも、この落差に心底びっくりした。

そして、この夢から目覚めへの移行を、そのまま今、感覚している現象から実相への移行に平行移動するように理解することができると直観的に思った。

実際、私の寝ぼけた脳に起こったことは、音波が外耳道を通って鼓膜に到達し鼓膜が振動し、その振動が耳小骨に伝わり、小骨は振動を増幅し、内耳へ伝え、振動が内耳のリンパ液を通じて蝸牛に伝わり、蝸牛内の有毛細胞が振動を感知し、有毛細胞が刺激されると、神経伝達物質が放出され、それが聴神経の終末部を興奮させ、聴神経で電気信号(活動電位)が発生し、この電気信号が脳へ伝えられ、音として認識されたということ。

さらに認識された音が、言語として判断され、その内容を把握したということ。 音の認識から、その内容の把握までは、今の脳科学でも完璧に説明できないような、恐らくもっと複雑な経過をたどるのだろう。 

そんな恐ろしく複雑で高度なメカニズムが、こんな恐ろしく凡庸な私におこっているのがそもそも不可思議なのだが、夢を見ている時も、目が覚めている時もどちらも、私にとって現実である。 というか、これが本当だろうか?という疑念がまったく浮かばない。 だから夢の中で、妻が話している内容が、私への非難であること以外理解できないとしても、それが不自然だとは思っていない。 只々、自分の意思が妻に伝わらないのが、もどかしく、苦々しく、苦しいのだ。  そしてそのクオリア(質感)は目が覚めている時とまったく変わらない。

そして、いったん目が覚めると、それらがみな幻想だったということが判明する。 何らかの外部からの刺激がトリガー(引き金)となって引き起こされた、自分の内で、自分が創り出した幻想(文字通り、夢)であることがわかる。

同じ音信号が一方で苦痛になり、一方で至福になる。 違いは、同じメカニズムで動きながら、夢の中では音信号が言語内容の認識にまで至らなかったという点だ。

 

「感官には、それぞれの対象についての愛執と憎悪が定まっている。人はその二つに支配されてはならぬ。それらは彼の敵であるから。」…バガヴァッドギータ 3ー34

 

夢の状態→目覚めの状態、目覚めの状態→実相の状態では、目覚めの状態までは、同じメカニズムが機能している。しかし目覚めの状態で機能していたこのメカニズムは実相の状態ではまったく機能しなくなる。 実相を言語化しようとするとことごとく失敗するのは、そのせいなのだろう。 禅で言うところの不立文字、教外別伝のことだ。 

だから、実際、実相の状態でいるということを説明するのは不可能なのだが、敢えてそれを試みれば、何回も教えられた「風船とコブ」のメタファーになる。 

この時、風船の中から自らのコブを見る。 見ているものは同じであっても、コブがコブを見る時(同一化=巻き込まれている状態)と、風船の中からコブを見るのとではまったく異なってくる。 これが先ほどの同じ音信号が一方で苦痛になり、一方で至福になることに似通っている。

もう一つ、 「風船とコブ」のメタファーで見落としてはならないのは、我々が風船の内にいるときは、個人が無くなるということだ。 (そもそも、コブというメタファーは個別化のことだから。) したがって「風船の中から外を見る」という表現も、誤解を生むかもしれない。 個我が風船の空気の中で漂っている、自分が風船と言う温泉の中に多くの人といっしょに入っているというイメージは正確ではない。 ラマナ・マハルシなら、こう聞くだろう。 「温泉の中に入っていると思っているのは誰か?」と。

ラメッシ・バルセカールは悟りとは「現実に見えたことが、実は非現実であるという突然の理解」だと言う。    これは今朝私が見た夢から醒めた時のような突然の理解になるのだろう。

 

バラタの子孫よ 恐怖の撃滅者よ

全ての生物は幻影の中に生まれ

自らの欲望と憎悪より生じた

二元相対の世界を実在と錯覚している

… バガヴァッドギータ 7-27


「奇跡」というネーミング

2024-10-02 19:45:21 | 日記
「奇跡」というネーミング 2024年9月17日
 
私は最初に「奇跡講座」という名前を聞いた時、何かイカガワシイものを感じてしまった。 それはいかにもテレビショッピングに出てくるようなネーミングの気がしたのだ。 「奇跡のクリーナー!! これで汚れは一発解消!」なんていう感じ。 「奇跡のダイエット!! あなたも一週間で2kg痩せる!」というような感じ。
そして「神の使者」という本の朗読を聞いたら、ますます、そのイカガワシサを増したような気がした。 それなのに、どういうわけか、「奇跡講座」本を買ってしまった。 それで読んでみると、さっぱりわからない。 というか、数行読むだけで異様な眠気に誘われた。 それで数年放っておいた。
ところが、なぜまた手に取って読んだか実に不思議なのだが、今度は、突然、少しわかった。 それで今度はワプニック博士の解説書を買ったが、第一分裂とか、第二分裂だとか、「オッカムの剃刀」から言わせると、実に胡散臭く、まるで学者が無理やり理屈を当てはめたようで、気に入らなかった。 ここでまた数か月放っておいた。 それに、当時、キリスト教の教理とかけ離れていることにずっと違和感を持っていた。 神はこの世を創らなかったなんて、誰が信じるだろうか? 
ところが、今では「奇跡講座」は私にとって欠かせないものになっている。 これこそ奇跡以外の何であろう。 そして、そのうちに、なぜ敢えて「奇跡」というネーミングにしたのかがわかってきた。 
「奇跡」でなければならないのだ。
シモーヌ・ヴェイユは「重力と恩寵」でこの「重力」と「恩寵」という言葉を使った。 この二つのベクトル、一つは下に引っ張られ、もう一方は上げられる。 重力とはこの世の因果法則のことだ。 この世の隅々にまで、人間の社会の隅々にまで貫かれている宇宙の、科学の法則のことであり、さらに魂が下に引っ張られるの重力のことでもある。 
ヴェイユはこう言った。「魂の自然な動きはすべて、物質界の重力法則と類似する。」 つまり魂は放っておくと、自然の物が下に落ちるように落ちてしまうのだ。  「恩寵」だけがそこから除外される。
この世の科学法則、この世の魂の法則から逸脱すること。 それを「奇跡」と呼ぶ。
井筒俊彦の「意識と本質」に世界の事物の必然性(因果律に支配された世界観)と偶然性(脱因果律の世界観)の問題がイスラーム的意識を述べたところに出てくる。 
井筒は、「火が紙につけば燃えるという因果律(原因と結果)がある。火が原因で、紙が燃えるという結果をもたらす。 事物はすべて「本質」なるものを持っており、世界はその事物の本質通りの因果律(原因と結果)に整然と支配されている。 では、その因果律に整然と支配された世界に、神の介入する余地はあるのであろうか。因果律を脱した「奇跡」は起こりうるのだろうか。」 と言う。
神が介入することが「恩寵」であり、「奇跡」のことだ。
奇跡講座によれば、「因果律に整然と支配された世界」とはエゴの世界のことなのだろう。 そして我々が本来いる場所は実相の世界であり、この世は幻想である。 これをエゴの世界から見れば、実相の世界は因果律を逸脱した「奇跡」となる。
禅の中には「奇跡」という言葉はなかなか出てこない。 なぜなら禅は神の代わりに「空」を据えるからだ。 それでは禅はよく世間で言われるように、「自力本願」なのだろうか? 禅はよく只管打坐と言われて、坐ることが最優先となるが、それと同時に礼拝を同じくらい大切な修行としている。 実は禅も「他力本願」なのだ。

笑い、ユーモアについて考えたこと

2024-10-02 19:44:27 | 日記
笑い、ユーモアについて考えたこと  2024年9月12日
 
エゴが出てきて、悪さをする時、存在を主張する時は、「ああ、また俺ちゃん(エゴのこと)がバタバタとやってるな。」と、あまり深刻にとらえないということが、エゴと付き合うコツだといろんな人から言われる。 ジョーン・トリフソンは「またジョーンが二元のダンスを踊っているな」と思うそうだ。 また、堀田さんはまるで母親が子供を優しく見ているようにやれと言われる。
ベルクソンの「笑い」という本を読むと、その消息が分かる。 
笑いにはさまざまなヴァリエーションがある。 例えば、誰かが失敗をして、優越感を得ることができて笑いがこみあげるということがある。 ホッブスが言うようにこれは通常劣等感に苛まれている人ほどそうなる。 また桂枝雀さんが言ったように「緊張と緩和」という笑いの仕組みもある。 だが今、取り上げたいのは、愛があるが、感情移入しないことによる「笑い」、同一化しないことによる「笑い」だ。
典型的な笑いの例として、もしバナナの皮で滑って転んだ人がいて、その人が自分のとても大切な人で、その人に感情を移入してしまったら、笑うどころか、どこか怪我をしていなかったか、頭を打たなかったか、心配するだろう。 でもその人に同一化したり、感情を移入していなければ、突然それは笑いに変わるだろう。
もし子供が不注意で転んでしまったとして、膝をすりむいて大声で泣いたとしたら、その母親がもし、その子供の次元にまで降りて、完全に感情移入をしてしまったら、つまり完全に共感してしまったら、子供を救うことはできない。 もし母親がもう少し高い次元にいたとしたら、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と慰めてあげられるだろう。 また客観的に適切な処置をすることもできるだろう。
よくハリウッド映画で、ヒーローが、絶体絶命のピンチに極上のユーモアを披露するのを観ることがある。(「ゼログラビティ」という映画では、主人公を助けたジョージ・クルーニーがそうだった。) これはハードボイルドの映画にもあるように実にかっこいいのだが、これはその方が実際うまく物事を解決するからだ。 なぜなら、これが必要以上に自分の今の状態に同一化したり、ガチガチになってしまうことを避けてくれる。 ユーモアを持つことで、自分の今の深刻な状態からさっと離れることができる。 客観的になり、俯瞰的に状況を把握し、適切な行動をとれるようになる。  笑いは、我々をエゴへの同一化から解き放ってくれる実に有効なツールなのだ。
共感能力を大きくすることで、どんな軽いものでも重さが増し、どんなものにもいかめしい色付けがされる。  もちろん、共感能力があるおかげで我々は人と深いコミュニケーションができる。 共感能力があるおかげで、映画のドラマが楽しめる。 ハラハラドキドキすることができる。 しかし、憐みの心を持ち、いっしょに泣いてくれる人が、その人の問題を解決できるとは限らない。 
ところで、ウクライナや、ガザ地区で戦争があって、多くの人が悲惨な目にあっているのに、そんな時に、「温泉に入ったようなイメージをしましょう。」なんて言ってていいのだろうか? 非二元の人が「出来事は起こる。行為はなされる。しかしそこには個別の行為者はいない。」(これはブッダの言葉)なんて言って、悟りだ、一瞥体験だと自己満足に浸っているが、本当にそれでいいのだろうか? 自分たちだけ平和な気分でいていいのだろうか?と思う人は多くいるはずだ。 実は、わたし自身もつい、最近までそう思っていた。
しかし、薄情な奴だと非難されたとしても、実は一瞬でもいいから逆に薄情になること、つまり現状から離れることが、本当に苦しんでいる人のための解決になることがある。 愛は情愛ではない。 子供がいじめっ子に殴られてケガをしたら、その子供の手を引っ張っていって、怒鳴りこんで、子供の敵をとる親もいるだろう。 3倍返しをする人もいるだろう。 その気持ちはよくわかる。 凄く共感できる。 しかしその共感は終わりなき負の連鎖に繋がることがある。 自分の心が飢えていて、悲惨で、被害を受け、攻撃を受けていると思う人がやってしまう行為は投影による復讐だ。 ただし、この投影が全く自覚されていないないことがあるからややこしい。彼自身は正義のためだと思っている。 それどころか情け深い人間だと自分のことを思っている。自分は犠牲者だと思っている。
エゴは常に自分より弱い者を探している。 それは自分の投影への復讐が比較的容易であるためであり、悪いことをした制裁対象なのだから、社会がそれを正義として認めてくれるはずだと思っている。 この頃のYoutubeでは社会的に何かをしでかした人(例えば、ここ最近では兵庫県の斎藤知事)を徹底的に糾弾する。 またそれが人気になっている。 糾弾者は匿名性と不特定多数を味方につけている。 彼らにとってみれば、すべて笑い事ではない。 笑ってはいけない。 犠牲者に共感しなければならない。 善と正義は勝たなくてはならない。 しかしここに本当の意味での平安があるだろうか。 聖霊は赦し、エゴは罰する。
『なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。』」(ルカ6-41)
この聖書の箇所は、通常、「人の振り見て我が振り直せ」という警句と同じだと思われるだろうが、実は「自分の目にある梁」とは、他人を見る時に最初から持っている様々な特定の信念、記憶、価値観、そして自分の罪の投影のことを指している。
漫才コンビ「錦鯉」の長谷川さんはおもしろい。 極貧の生活をしていて電気代が払えず、電気が止められて暗い中で生活していたこともあるという。 でもそれもみんな笑いのネタにしてしまう。 窓から見える信号機が赤になると部屋が照らされて生活できたそうだ。 またある時は、揚げ物をしていて温度を上げすぎて火がついてしまい、あわてて水をかけて大爆発させてしまったという。 これもネタになる。 みんな笑い飛ばしてしまう。 もちろん、その時、その場所では本当に辛いだろう。 しかしここで、気楽な傍観者(つまりここでは観客)として自分の人生を眺めてみるとどうだろう。この世界で起こっている様々な出来事がたちまち喜劇に転じていく。
だいたい、精神的に高い境地にある人は、ユーモアに満ちている。 どんなに恐ろしいことが身の上に起ころうとしていても、深刻にならない。 自分がどえらい失敗をしでかしても、それを笑い飛ばしてしまう。
実は、それができるのは、「この世は夢」、自分は白昼夢を見ているのであり、この世でどんな現象が起こっても、大切なことはその現象そのものにはないことを心の底で知っているからだ。
だからと言って、今、我々の目の前で起こっている様々な現象は夢なのだから、これらを否定したり、拒絶したりするべきだということではない。
ティックナットハン師はこう言った。
「波は水になりたいからと言って波であるのをやめる必要はありません。」
わたしたちは、実相、風船の中に戻るべきだとしても、この地上で身体をもって生活をしているという夢を見て、そこに実感を伴う限り、この世の中で生きていかなければならない。 我々は自分が本来大海の水であったとしても、今現在、自分が波であることを止める必要はない。 自分は波と思ってるなら、波を拒絶してはならない。 それは波をリアルにするだけだ。 ただ、それに気が付いていればいいのだ。 そして気が付いた時に「笑い、ユーモア」の素地が生まれる。 この世の戦場を俯瞰できるようになる。

一時的に借りているということ

2024-10-02 19:43:16 | 日記
昨晩の堀田さんのZOOMの最後になって、気が付いた。  2024年9月7日
 
私はインターネットに、スマホに、ZOOMに、堀田さんに、三木さんに、鈴木さんに、Facebookに、Youtubeに、Amazonに、会社に、会社からもらう給料に、貯金に、地位に、部下に、上司に、社会に、健康保険に、ガス、石油、水道、電気に、家に、畑に、庭に、親に、兄弟に、妻に、子供に、仲間に、グループに、自分も知らない誰かに、自分の知らない死んでいった誰かに、先祖に、住んでいる処に、国に、インフラや区民センターや、お店や、医者や、自然や、公園や、天候に、出自に、年金に、地域のゴミ収集に、除雪に、車に、衣服に、食べ物に、芸術に、そして、この大地から、空気、太陽に至るまで、また自分の身体、健康、信念、宗教、知識、能力、業績、作品、趣味、資格、学歴、容姿、年齢、コレクション、あらゆるものに依存しているが、実は一つも所有はしていないのだということ。
本来無一物であること。
全部、一時的に、借りているだけだということ。  だから生かされている。

完全にして完璧な神の聖性

2024-10-02 19:41:36 | 日記
この世は幻想だと言われ、諸行無常、あらゆるものが常に非ず、変化し、消えていく。  2024年8月31日
 
でもここに価値をおいてはならないというのではなく、この変化の奥に常住不変としてあるものを、我々はその一瞬、一瞬にを観ることができるのです。 道元禅師は前後裁断という言葉を使いました。
前田専学という仏教学者は「不一二元論学派における無明論の展開」という論文の中で、真珠母貝と、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることに例えを出しましたが、ここで我々は真珠母貝の美しい銀色の光を見て、銀そのものの光を想起しているのです。 変わらないものとしての銀、イデアとしての銀、完全にして完璧なの聖性としての銀です。
テキストでは下記のように書かれています。
父よ、私はあなたに感謝します。あなたの神聖な子のばらばらになった断片の間の小さな隔たりの一つひとつを閉じるために、あなたが来てくださると、私は知っています。完全にして完璧なあなたの聖性は、彼らの一人ひとりの内に宿っています。そして、ひとりの中にあるものは彼ら全員の中にもあるがゆえに、彼らはつながっています。最も小さな一粒の砂であっても、それが神の子の完全な絵の一部であることが認識されるとき、それはなんと神聖なものでしょう! 断片の見かけ上の形態は、何も意味しません。なぜなら、その一つひとつの中に全体が宿っているからです。 神の子の一つひとつの側面は 他のすべての部分とまったく同じ」です。〔T-28.IV.9〕
ワプニック先生は、「いわゆる動物界、植物界、鉱物界と呼ばれるものもすべて、人類と同じように<一なる子〉の一部をなしています。何が生物で、何が無生物か、といった区別は、人類が独断で持ち込んだものです。つまり、一つの幻想の世界を区分して管理し、「すべての生きものを治める」(「創世記」1:26,28)ことができるように、自我の教えに従ったということです。」と述べています。 ですから我々が見ているあらゆるものは神の子の完全な絵の一部なのです。
これは庭に咲いていたギボウシです。 花が咲く前、花が落ちた跡、どれも完全にして完璧な神の聖性が現れています。