Cate Grieves - A Course in Miracles - Buddha at the Gas Pump Interview
ケイト・グリーブス 奇跡のコース-インタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=td01naUuVWQ
ノート:
ケイト・グリーブスはオーストラリア・メルボルン南部に住んでおり、奇跡のコースによる覚醒を体験した人。 我々が奇跡のコースに取り組んでいくために必要なことを細かく丁寧に教えてくれる。 こういう人がこれから日本にも増えてきたら、いいなあ。
彼女のFacebook → https://www.facebook.com/MissLily247
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以下訳:
Rick: ガスポンプ-ブッダへようこそ。 リック・アーチャー(Rick Archer 以下Rick:)です。 ガスポンプ-ブッダは、霊的に目覚めた人々との継続的な対話シリーズです。 私はこれまでにおよそ620件ほどのインタビューを行ってきました。
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本日のゲストはケイト・グリーブス(Cate Grieves 以下Cate)さんです。 ケイトさんはオーストラリア在住で、メルボルン市の南、半島におよそ1時間半の場所に住んでいます。 私たちはそのことについて少し話していました。 そこは夏で、ユーカリの木が花を咲かせています。 そして、ロリキートという鳥が花を食べるのが好きで飛び回っていて、私たちが話している間、背景でその鳴き声が聞こえるでしょう。 それが素敵な追加のサウンドエフェクトになるでしょうね。 ケイトさん、ようこそ。
Cate: こんにちは、リック。 ようこそ。 そして、皆さん、ようこそ。
Rick: ええ、ありがとうございます。
Cate: ここに来れて嬉しいです。
Rick: ええ、来てくれて嬉しいです。 今日は奇跡のコースについてたくさん話すことになるでしょう。 それはケイトさんの主な霊的な道、だと思います。 そして、彼女はそれを学ぶことによっていくつかの深い経験をしました。 私はその分野、あるいは伝統とでも言うのでしょうか、マリアン・ウィリアムソンや、ゲーリー・レナード、デビッド・ホフマイスターといった何人かの人々にインタビューをしてきました。 また、「愛のコース」という、ある程度並行しているように見えるけれど、異なるものもあります。 そして、それについても何人かの人にインタビューしました。 batgap.comには、過去のインタビューメニューの下にあるカテゴリ別インデックスがあります。 そこをチェックすれば、私たちがこれまで行ってきた様々なカテゴリーのインタビューを見ることができます。
いずれにせよ、奇跡のコースは多くの人々にとって非常に深いものとなっています。 私はそれを学んだことはありません。 これらの人々にインタビューしてきたことから、少しは知っているつもりですが。 今日はそれについて、そしてそれがケイトさんの人生にどのような影響を与えたのかについて、もっと詳しく学んでいきましょう。 ケイトさん、まずは、奇跡のコースについてすぐに話し始めるか、それともまずあなたの経歴についてお話しましょうか?
Cate: 私の経歴から始めるのが良いと感じます。
Rick: わかりました。 そうしましょう。
Cate: それから、奇跡のコースの教えとそれが私の人生をどう変えたかについて話します。
Rick: はい、それではそうしましょう。
Cate: まず、なぜか、あなたが私にあなたの人生について書いた短い文章を送ってくれました。 そして、それが、たった1ページの文書だったのですが、ここに来る数時間前にそれを読みました。 そして、あなたの一部分と繋がりを感じました。
あなたが書いたのは、探求、つまり絶望のような感情、あるいはあなたの精神全体の一部が、より良い方法、別の方法を求めている、これよりもっと良い何かがあるはずだ、というようなものでした。 私が経験していること以上の何かがあるはずだ、という感情です。
ですから、誰もが、何もかもがうまくいかないという場所に行き着きます。 何かを見つけなければなりません。 そして、私は自分自身のある人生の状況に遭遇し、それについては少しプライベートなことなので、このインタビューではあまり詳しく話しません。
それは、私が交流していた他の人々の生活についてです。 私は、本当に大きな衝撃を受けました。 1990年代後半ごろは、絶望する日々していました。 そして1999年に、私は実際に奇跡のコースの本を購入しました。
しかし、それ以前に、私はとても病気でした。 慢性疲労症でした。 常に扁桃腺炎にかかっていました。 うつ病で、不安でした。 本当にひどい状態でした。 そして、私は当時、たくさんの自己啓発本を読んでいました。 そして、私たち全員の中にあるこの内なる呼びかけのように、何か良いものがあるはずだ、あるいは、どうすれば真実にたどり着けるのか? あるいは、どうすれば? これは一体何なのだろう? というような気持ちがありました。 そして、その憧れが湧き上がってきた時、ベッドに横たわり、とても無防備な気持ちになり、何が起こっているのかわからりませんでした。 そこで私は、地元のお気に入りの本屋に行き、奇跡のコースの本を見つけました。 私がそれを手に取ったとき、心の中で「これがあなたに必要な唯一の本だ。 他のものは捨てなさい」という言葉が聞こえました。
私はこの本について耳にしたことがあり、長年アラノン(訳注:アルコール依存症者の家族や友人を支援する国際的な自助グループ)に参加していた時に、スポンサーからこの本について聞いたことがありました。 そして、それが唯一私がそれについて聞いた時でした。 彼女がそれを読んだと言ったのを私は聞いたことがあっただけです。
彼女の知る神は愛でした。 私は、当時二元性の神、善と悪の神と生きていたので、愛がどうして神の理解になり得るのだろうと思いました。 アラノンはアルコール依存症者の家族や友人のためのプログラムです。 それは12ステッププログラムです。 しかし、12ステッププログラムは、私たちの思考、結局はエゴ的な思考に依存していることに気づき始めるにつれて、あらゆるもののためであることがわかります。
つまり、それが最終的に言おうとしていること、依存症です。 ですから、そのメッセージを受け取ったとき、私は本を買って家に持ち帰りました。 しかし、少し怖かったです。 なぜなら、それは非常に奇妙に見え、違和感がありました。 言葉遣いが違いました。神について語っていましたが、私はその時、神を避けていました。 そして、アラノンに10年間参加していたにも関わらず、自分の神を見つけるのに苦労していました。 どうしてもそれができなかったのです。
そこで、私は本を手に取りました。 そして14年間、私は一人でレッスンを行い、テキストを読みました。 そして、これは私のためのものだという内なる呼びかけを本当に感じました。 私は繰り返し呼ばれ、読み続けました。 私はグループには一度も行ったことがなく、それを学んでいる他の人を誰も知りませんでした。 私は、当時の夫以外には誰にもそのことを話しませんでした。 そして、私は小さなレッスンをしようとしましたが、それは私の人生を本当に変えませんでした。
そして、2013年1月に、私の人生の出来事が頂点に達しました。 私は娘とのことで問題を抱えていました。 私は夫と別れ、私たちの関係は大晦日に破綻しました。 そして、私はベッドに座って「私はこの世界から出たい」と言ったことを覚えています。 ここには何もありません。 私は幸せではありません。 何もありません。 周りを見渡しても、本当に幸せな関係を見つけることができませんでしたし、本当に幸せな人がいませんでした。
それで、私は、自殺してこの世界を去るか、あるいは、私がまだやっていない唯一のこと、それは霊的な道に従い、適切にそれを実践するかのどちらかだと思いました。 そこで私は、今後2年間、私の全人生を、あちこちと少しずつ、瞑想をしたり、レッスンをやったり、テキストを読んだりするのではなく、教えられた通りにこの教えを実践することに費やすと決めました。
私は当時、市の近くにある忙しい不動産代理店で会計士としてフルタイムで働いていました。 私は孤立していました。 私のキャリア、私は多くの組織で上級職を務めてきましたが、その時は私は不動産業界で働いていました。 そして、私はフルタイムの仕事を続けていましたが、一人暮らしでした。 そして、私が仕事をしている時以外はすべて、先生の話を聞いたり、何かを読んだり、瞑想したりしていました。
私は、テレビ、新聞を見なくなりました。 インターネットは当時、今ほど大きくありませんでしたが、それなりに普及していました。 そして私は2年間、これらの教えに完全に専念しました。 奇跡のコースの教えの一部は、彼らが聖霊と呼ぶものと繋がることです。 ですから、私は宗教的な今までの信念をすべて手放さなければなりませんでした。 なぜなら、私はイエスや神や聖霊について、それらすべてを本当に避けてきたからです。
そして、私は神、イエス、聖霊についての新しい理解を得て、これらの教えに取り組む必要がありました。 私は、コースの他の教師たちに助けてもらいました。 そして、私は静かに座り、聖霊に質問を書き、なぜならコースでは、あなたが陥っているあらゆる状況に対する答えはあなたの心の中にあると言われているからです。 そこで私は、書き始め、そして答えを受け取り始め、それらを書き留めました。 そして、私はそれに従いました。
ですから、私はただ、浮かび上がってくるものすべてに従うと決めました。 時々、何かについて書くと、「その人は愛を求めている。 行って愛してあげなさい」と書かれることがありました。 ただ、その人のそばにいて、愛してあげなさい、と。 このように、内なる声が私を導き始めました。
そして、コースの教えの大きな部分の1つは、不満(苦情、不平、怒り)についてです。 「不満は光を隠す」と言っています。 つまり、私は自分の中の光を遮っているのです。 ですから、光は私の中にありますが、これらの不満(苦情、不平、怒り)があるので遮られています。
私は父に対して大きな不満を抱えていました。 私の人生で悪いことはすべて父のせいだと思っていました。 これは私の中に深く根付いていると思いました。なぜなら、私が始めたのは50代前半だったからです。 52歳だったと思います。そして、コースとともに2年間の旅を本当に力強く始めました。そして、私はただこう言いました。「聖霊よ、すべての人間関係を調和のとれたものに戻したいのです。父に会いに行って、父への愛を感じたいのです。会う人すべてに、不安や動揺、葛藤がないようにしたいのです。」 それが最初の目標でした。 その2年間を通じて、聖霊は私に協力してくれました。 そして、私がそれに深く関わるにつれて、イエスが私の心の中に現れ始めました。 そして、私は心の中の視覚化を通して彼と繋がるようになり、彼は私を罪という信念から癒してくれました。 なぜなら、コースでは、私たちの一部は非常に罪悪感を感じていて、それは本当に無意識で、意識の外にあると言っているからです。
そして、その罪悪感が、内なるガイドといっしょに処理できるような形で私に現れるようになり、私はイエスと聖霊と深く繋がるようになりました。 今、私が現在いる旅の終わりにたどり着いたとき、それが私であり、彼らが私自身を助けていると言うのは簡単ですが、彼らが私ではないかのように協力しなければなりませんでした。
なぜなら、私はエゴ的な心、自分の反応的で恐ろしい心の中に完全に浸っていたからです。 自分がそのような状態にあることさえ知りませんでした。 コースは、梯子のアナロジーを使って説明します。
あなたは梯子の下にいて、梯子の上がどうなっているのかを全く理解していないのです。 そして、梯子の頂上にいる人は、梯子の下にいるあなたが持っている心とは全く異なる心、あるいは異なるマインドを持っています。 ですから、私はその旅の始めに非常に謙虚になる必要がありました。
「私は何も知らない。 新しい生き方を学ぼう。 本当の生徒になろう」と思いました。
そして、2013年1月にその2年間の旅を始めてからほぼ12ヶ月後の日に、私は啓示的な経験をしました。 それはとても美しかったです。 心に美しい平和が訪れ、とても素晴らしかったです。 それは、私がこのような美しい平和の初めての経験でした。
しかし、それは去り、数時間しか続きませんでした。 でも、旅の2年目は、より美しくなりました。 最初の12ヶ月間、私は文字通り只々泣いていました。 それは、まるで、瓶詰めされていたものがすべて出てきているようでした。 誰もがそうなるわけではありません。しかし、私の場合は泣きました。 只々たくさん泣きました。 それは、解放するような泣き方でした。 それは、とらわれているような泣き方ではありませんでした。そして、2年目の後半には、平和を感じる時期が増え始めました。 そして、私は自分の心の中で本当に大きな変化を経験しました。
2015年1月、ほぼ12ヶ月後の日に、私は仕事に行く朝のシャワーの中で目覚めました。 その日は水曜日の朝で、私は仕事の準備をしていました。 そして私は、「すべてを神にゆだねる」という、この降参(Surrender)の練習をしていました。 私はただここにいる、私は降参(Surrender)する。
私は小さな川のほとりに住んでいました。 私は川岸に出て、横たわり、腕と足を広げ、「私は自分を捧げます。 降参(Surrender)します。 すべてを手放します」と言っていました。
私はただあなたの愛を知りたい。 私はただあなたを知りたいのです。 そして、その朝シャワーに入った時、すべてが変わりました。 そして、私はただ笑い始めました。
そして、すべてを神として見ました。 そう言うと、とても奇妙に聞こえるかもしれません。 しかし、何が起こっていたのか、後になって気づいたことは、私の心が、神の心のような、無限の状態へと移行したということでした。 コースは、現実世界や真のビジョンについて語っています。 その時、私はただ笑い、「すべてが神だ、すべてがすごい、すべてが美しい!」と思いました。 そして、私は仕事に車で行きました。 私はある種の神秘的な心の状態でした。 オフィスに着き、コンピューターを見たのですが、その日、私は会計の仕事をするのが本当に大変でした。 幸いなことに、その日はそれほど忙しくなかったのです。 そして、1時間か2時間後に落ち着きました。 私のボスは、私が出勤してから約30分後にやってきました。 そして、彼は私を見て、「よし、今朝は利益報告書を見ていこう」と言いました。 私は「ああ、彼は自分が人間だと思っていて、お金が必要だと思っている」と思ったことを覚えています。 そして、私はその時、本当に、「真実が見える」といった感じでした。 しかし、私は、自分の仕事をするために、自分の心を落ち着かせる必要があることを心のどこかで理解していました。
私はすぐに、自分がただ走り回って皆を抱きしめることができるようなアシュラムやどこかにいたわけではありませんでしたし、私はボスに従う必要がありました。 彼は私に仕事をしてほしかったのです。 私は自分の居場所と自分がやっていることを非常に迅速に統合する必要がありました。 私はただ立ち上がって、「ねえ、これが私が見ているものだ」と言ってオフィスを出るわけにはいきませんでした。 私は自分の心を本当に落ち着かせ、仕事を始めましたが、ある種の本当に素晴らしい神秘的な状態でした。
まあ、あなたはそれを神秘的と呼ぶかもしれませんが、私にはそれは自分自身と世界の真実の経験でした。
そして、それから数週間後、私は、自分はすべてを理解しているわけではないこと、そして、さらに進み続ければ、さらに多くのことが入ってくることが示されました。
だからこそ、これを霊的な目覚めと呼ぶのです。それは無限なのです。そして今週はさらに目覚めました。 だから、私がそれを見る方法は、グループで一緒にやる人にはいつもこう言います。 「私はまだそこに到達していません。常にどんどん目覚めているからです。」 私は平和の中で生きています。 私は心の平和を得ました。 そして、この広大な心、この愛、そして神との繋がりという美しい経験をしています。 ですから、さらに多くのものが落ちてきて、時間が経つにつれてさらに多くが明らかになっていますが、平和はまだ私と共にあり、あの時から私を離れていません。
それが、今から約7年前のことだったと思います。 ええ、これが私の身に起こったことの要点です。 しかし、その最初の目覚めから6ヶ月後、私というものがなく、私が自分の考えと信念によって作られていることを認識しました。 そして、私が住んでいた場所は、小さな、限定された自分を想起させる思考を自己参照するようなものがなかったのです。 したがって、エゴの思考システムは完全に消え、そこには静けさしかありませんでした。 私は自分の心に戻り、思考を見て、エゴを、まるで思考の塊のように見ることができました。 そして、それらはまるで風船の中にあるようで、私の心の中に逃げ出すものはありませんでした。 それは、まるですべての思考が、私が人間だと思わせる個人的な自我でした。 それらのすべての思考が、小さな私を自己参照していました。
問題や困難を抱えている世界の中にいる私です。 そして、それらのすべての思考が私の心に存在しないとき、そこには自由、恐れからの自由、罪悪感からの自由がありましたが、それでも、お茶を入れたり、必要なことすべてをすることができました。
実用的な生活を送るために必要な思考があるのは、ごく自然なことでした。 その後、時間が経つにつれて、いつから始まったのかは覚えていませんが、理解が深まり始めました。
コースには、時間は一度に起こっているというおかしな教えがあります。 そして、それらのことが分かり始めました。なぜなら、私の心は、コースで言うところの聖霊の心の中にあり、時間の終わりから過去を振り返っていたからです。 つまり、時間は時間の終わりから過去を振り返るのです。
自我の思考システムにおける時間は、空間の中の過去と未来です。でもその外側では、時間のない中で、過去を振り返っているのです。
つまり、ケイトと呼ばれる自己は存在したことがなかったことが分かりました。 彼女が世界と呼ぶものは夢であり、幻想の世界であることが分かりました。 心が小さな狂った考えを持っていた場所が分かりました。 それが一つの自我の心でした。
Rick: あなたは、今、小さな狂った(m-a-dな)考えと言いましたか?
Cate: はい。 コースにはとても有名な一節があり、「創造主と一体だった心」と書いてあります。ここで私たちが見ているもの、私たちがどこにいると思っていて、何をしているのかについて、奇跡のコースではこう教えます。
真実の中で、創造主と創造物だけ、つまりコースで言うところの神と彼の息子だけが存在します。 これらはすべて、私たちが何であるか、どこにいるのかを指し示すための言葉です。 ですから、私たちが知っておくべきことは、神という言葉を使う代わりに、私が好きな言い方ですが、宗教的な背景からのあらゆる意味合いがあるかもしれないので、対極のない無限の愛、神聖なもの、愛しいものと考えてもいいでしょう。 多くの伝統が神以外の言葉を使っていますが、それは問題ではありません。 あなたが納得できれば、何でもいいのです。 創造主もいいですし、私は対極のない無限の愛という言葉が好きです。
そして、私たちがそれと一体である状態になったとき、その無限の愛と私たちが何であるかとの間に分離はありません。 ですから、もしあなたが無限の愛、神聖なものを経験したことがあるなら、私が何を言っているのかわかるでしょう。 それが数時間続くのか、それともその中で生きているのかは別として、誰もが一般的にその経験をしています。
では、なぜ私たちは、あたかも肉体があり、周りに物理的な世界があるかのように、この世界にいるのでしょうか? コースは、神の子の心は、神は対極のない無限の愛である父と共にいる、と言っています。 しかしその無限の愛は私たちの周りに存在するのではなく、私たちはそれと一体なのです。 そして、その中で神の子の心の中に、自分が分離できるという小さな狂った考えが生まれました。
そして、その考えから、心の中に小さな衝撃のようなものが生じました。 そして、初めて罪悪感を感じました。 私たちは皆、非常にオープンで愛情深いと同時に、罪悪感を持っているのです。
これは抽象的な話ではありません。 私たちは常にそれをやっているからです。 私たちは罪悪感を何度も何度も抱いています。 ですから、心は罪悪感を持ち、そのような罪悪感の考えを持つことをとても悪いと感じ、心を閉じてしまいました。 ここで無限の愛から遮断するというようなステップがあったのです。 まるで部屋の中を歩き、すべての扉を閉ざしていくように。 そして、私たちがそれぞれの扉を閉ざすたびに、他の部屋に何があったのかを忘れてしまいました。
ですから、私たちはそれらを閉ざし、それで、1つの心(マインド)は、ある時点に達しました。 ある部屋には、1つのエゴである1つの心があります。 これが私がこれを強調している理由です。 なぜなら、これは重要な点だからです。 このエゴの1つの心(は、まるで私たちがすべてこのエゴの1つの心であり、エゴの心は罪悪感であるかのようです。 そして、それが非常に悪化したため、それは分裂し、多くのものが現れ、心によって世界が投影されました。 ですから、この世界全体は、そのエゴの1つの心からの投影ですが、私たちは皆、別々のエゴを持っているように見えます。
ここには何十億ものエゴ、何十億もの肉体が存在し、誰もが別々のエゴを持っているように見えます。 しかし、それは誤りであり、それは間違っています。 私たちは皆、その1つのエゴの心から同じエゴの心を持っています。 私たちは皆、その心を参照しているのです。 しかし、それは次の、それは次のドアに隠されているようなものです。 ですから、私たちはこの端の部屋にいて、入ってきた道を引き返す必要があります。
しかし、実際には、私たちは源から離れたことはありません。 私たちは対極のない無限の愛から離れたことはありません。 しかし、私たちはここにいる自分自身を見つけます。ですから、私たちは真実を思い出させられます。 そして、コースが私たちに言っていることは、あなたが自分自身を見つける場所は、あなたの本当の家ではないと感じるものがあるということです。
しかし、何が起こるかというと、私たちはこれらの扉を閉ざし、どこから来たのかを見ることができないため、扉を開けるのが怖いのです。 しかし、私たちは家に帰りたい、そこに戻りたいと思っていますが、私たちがここで作り上げたもの、私たちが慣れているものを手放すのがとても怖いのです。 そこでこの物理的な世界と私たちは、それに代わる偽の愛を作り上げようとしました。
コースが私たちを家、つまり心の真実の場所に戻す方法は、私たちの関係を利用することです。 あなたのすべての関係は、あなたを家に戻すために使われるでしょう、と述べています。 私はあなたが瞑想しているのを知っています。 どの道を使っても構いません。
奇跡のコースを使う必要もありませんが、私にとっては、それは「助けて」という私の呼びかけのようなもので、それが入ってきて、とても美しかったのです。
簡単ではありません。 なぜなら、その無限の愛を経験するためには、不満(苦情、不平、怒り)を持っていてはいけないからです。 ここで兄弟を裁いてはいけないからです。 あなたは、自分の不満をすべて取り消さなければなりません。
そこで、イエスは、私たちの兄弟の無邪気さと神聖さを見るように求めています。 そして、それがあなたの家(ホーム)への道であり、あなたの心があなたの兄弟をどのように見ているか、あなたの心はそこに戻ってきて、あなたが兄弟をどのように認識するかを通して、分離という信念から洗い流されると言っています。
それは私たちにとって非常に難しいことです。 なぜなら、私たちは、エゴの裁きの思考システムの中にいるからです。 エゴは常に裁き、比較し、批判し、彼らは有罪だとか、私は有罪だとか、そう言うからです。 ですから、私たちはこの混乱したエゴ的な心の中にいて、そこから抜け出すための助けが必要です。 私たちが抜け出すことができる唯一の方法は、助けを求めることです。 私たちが「聖霊、助けて、動揺しています、困っています、イライラしている、怒っている」と言うたび、あなたが動揺しているときはいつでも、この治療をすると言っているのです。
コースには365のレッスンがあります。 彼は、その治療法としてレッスンを適用するか、あるいは、心の中の別の何か、コースの何かをそれに対して適用すると言っています。
ですから、奇跡のコースにおける奇跡は結果であり、赦しは動揺に気づき、治療し、自分の心を変化させ、自分の認識を変化させることです。
コース全体は、自分の認識を変えます。 認識とは私たちの思考と信念です。 なぜなら、私たちは文字通り、世界はただの形と色と動きに過ぎないからです。 そして、私たちの心は、私たちが見ているものすべてに意味を与えますが、私たちはそれを見ることができません。 私たちは、意味はそれ自体に内在していると思っています。 しかし、問題は、もし2人が何かに対して異なる意味を見ているとしたら、それが本当の意味であるはずがないということです。 なぜなら、もし本当の意味であるならば、それは共通のものであり、私たちはそれについて合意しなければならないからです。 そして、誰もがその意味について意見を異にしています。 ですから、私たちは意味について議論します。 一部の人は同意します。 そして突然、あなたは何かについての意味についてここで自分の考えを変えることさえあるでしょう。 仏陀が言ったように、あなたはそれを好きになったり、嫌いになったり、ある瞬間にはそれを欲しがり、次の瞬間にはそれを拒絶したりするでしょう。 ですから、コースは、あなたをマインドトレーニングに導きます。 それは12ヶ月間行うことになっていますが、あなたの心が完全に解放されるまでには何年もかかるかもしれません。 それはこの意欲の問題です。
人々は私に「あなたは2年以内にやり遂げたので、非常に速かった」と言いますが、私は非常に献身的であったと思います。
リック、あなたが私に送ってくれた、本当に強く愛と平和を求めているというあなたの話に深く共感しました。 私は、あなたが送ってくれた文の最後の3行に共感しました。
私の賜物を、主よ、あなたに捧げます。
神の恵みが私を祝福してくださったと感じます。
そして、私の人生は神の道具として仕えることに捧げられています。
私もこの美しく平和な心を得たとき、「私はあなたに仕えるためにここにいます。 あなたがお望みになることは何でもします」と言いました。
そして、私はグループを立ち上げ、グループや瞑想会などを開催するように導かれました。でも、私たちは皆、自分それぞれの道を進みます。 イエスはみんなで一緒に家に帰る。 だから他の人と助け合うのだと言っています。
はい、何か質問はありますか?
Rick: 質問? たくさんありますよ。 あなたが言ったことすべてについて。
Cate: たくさん?
Rick: まあ、わからないけど、あなたが言ったことはすべて、深く掘り下げて何時間も話し合うことができるものです。 ですから、思いついたことをいくつか質問しますので、自由に答えてください。 まず、これはただの褒め言葉なのですが、このすべてがあなたが52歳の時に始まったと聞いて驚きました。 なぜなら、もしあなたが何歳か私に聞かれたら、今50代前半だと推測していたでしょう。 もしかしたら、奇跡のコースにはアンチエイジング効果のようなものがあるのかもしれません。 そして、あなたは「今、私は旅の終わりにいる」という興味深いフレーズを使いましたが、同時に「旅は終わらない」とも言っていました。 それは少しの間、私を困惑させました。
Cate: 苦しみの終わりと、真実の深化、のようなものだと思います。
Rick: はい。ええ、時々、人々が探すのを諦める、つまり探すのを諦めるという話を聞きます。そして、私もそれに共感できます。なぜなら、私には、かつて感じていたような憧れや不安といったものがまったくないからです。 私は、自分が探求しているとは感じていません。 なぜなら、私は非常に満足し、満たされ、幸せだからです。 しかし、私は確かにまだ探求し、学んでいますし、それに終わりがあるのかどうかわかりません。
Cate: ええ、その通りです。 神は無限なのですから、終わりはありません。
Rick: そうですね。 そして、霊的な成長の可能性の範囲は、ほとんどの人が認識しているよりも、はるかに広大だと思います。
Cate: ええ、私もそう思います。
Rick: わかりました。 しかし、あなたはまた、初心のようなものにも触れました。 それは禅のフレーズですが、あなたは正確にはそのフレーズを使いませんでした。 しかし、それは役立つと思います。 尊敬されている多くの教師たちが、常に初心者の気持ちを持つことは、実際には良いことだと言っています。 それは、人を謙虚に保ちます。 そして、それは実際、霊的な成長が実際にどれほど可能であるかという点において当てはまります。 ある意味で、私たちは皆、どれほど進歩していようとも、初心者です。
Cate: 間違いありません。 面白いことに、私が始める直前に、「初心」という言葉が頭に浮かびました。 ですから、興味深いですね。 そして、あなたは、主よ、という言葉に触れていましたが、私はここ数日、「御心が行われますように」と思っていました。
そして、他の誰かが私にそのメッセージを送ってきました。 ですから、私たちの心は、この神聖な愛、この神聖な愛の中で繋がっているようです。 あなたが使った言葉は何でも構いませんが、それは、あなたが言った、その降参(Surrender)という言葉は、コースではあまり使われていませんが、空っぽの手で神に近づくことについて、さまざまな方法で示されています。 それは、あなたの人生、すべての執着を手放し、ただ来ること、という意味です。
Rick: ええ、そしてあなたは、ある種の、解消(Undoing)という言葉を使うかどうかわかりませんが、つまり、自己中心的な方向性を超えること、つまり、自我を見抜くこと、自我に基づいて機能しないことなどについてよく話しています。
そして、それは降参(Surrender)の考えに非常に関連していると思います。なぜなら、もし人が自分自身をこの身体、またはこのある種の局所的な人物として、非常に具体的な方法で見なすとしたら、宇宙の知性、または普遍的な精神、または何と呼ぼうと、何の制約も制限もないものにどうやっても同調できないからです。
ですから、本当に降参(Surrender)し、神の僕となるためには、人はそれとの本質的な一体性を認識する必要があり、そうすれば、人は自然にその道具の役割を引き受けるのだと思います。
Cate: ええ。 私をあなたの平和の道具にしてください。
Rick: その通りです。
Cate: それは美しいですね。
Rick: そしてそれは、単なる崇高な考えではなく、人の日常生活の現実になり得るものです。
Cate: ですから、聞いている皆さん、後で聞く皆さん、身体についてですが、身体を否定することはできないということを覚えておかなければなりません。
これは重要です。なぜなら、私たちがスピリチュアルな道を歩み始めると、ほとんどの人が脱線してしまうからです。 いつも、私はいろいろなことをやりますが、抑制しなければなりませんでした。 皆そうします。 そして、スピリチュアルな人が脱線してしまうのを見つけ、私は「ああ、すべての好みをあきらめなければならない」と思っていましたが、私はすぐにそれについて訂正されました。
好みを持つのは構いませんが、それに執着してはいけないということなのです。 あなたが何かを特定の方法で、特定の服装をすることが好きなら、それはそれで構いませんが、それに執着しないでください。
ですから、スピリチュアルな道では、それにとらわれて、何かをやろうとし始めるというのは、ちょっとおかしなことなのです。 肉体のことですが、旅の中で最も難しい部分は、コースで言っていること、つまり「私は肉体ではない。 私は自由だ。 私は神が私を創造したままだ。 私は霊である」ということを受け入れることです。
私たちはそれを何度も繰り返すように求められますが、肉体を否定する必要はありません。私たちは、肉体関係で必要なことをやり続け、食べて、シャワーを浴びますが、肉体としての強いアイデンティティを失っていく必要があります。 それが私たちに求められていることであり、他の人の肉体を通り抜け、神聖さ、無邪気さ、真の自己に焦点を当てるように求めています。 そして、そこには内なる状態、つまり、私の中の神性が、あなたの中の神性を見るという状態があるでしょう。 私の中の神聖さが、あなたの中の神聖さを見るのです。 そして、あなたの神聖さを見る人、あるいは私たちが選んだ神性、グルやマスターがやっていることは、文字通り、すべての人の中に美しさを見ているのです。
それは本当にあなたを変えることができます。 ですから、コースが言うことは、自分の心を清め、その神聖さに戻すということなのです。 そして、あなたは今、あなたが出会うすべての兄弟の神聖さを見るために使われています。 そして、それが受け継がれる奇跡です。
あなたは実際に、心は繋がっていて、それと繋がっているものがあるような感じです。 ラマナ・マハルシについて、人々がただ彼を見るだけで、サマーディに入ったという話を聞いたり読んだりしていたとき、私は、それがどうして可能なのか、彼は何もしていないのに、その人の心、信奉者は文字通り、彼らは許可を得たような、彼らは手放したような、そして、彼らの心は文字通り、すべてを手放し、ただ美しさ、神聖さ、自分が見るものの神性に焦点を当てているのです。
そして、それは奇跡のコースでは、イエスとの間で起こります。 イエスはコースの著者として登場します。 そして、彼は「私はあなたの手を取り、私と一緒に働きましょう」と言っています。 彼は目に見えないグルになりますが、彼をグルと見ないようにとも言っています。
彼を愛情深い兄のように、あなたが知っている、賢明な兄のような、そして、あなたが妹や弟のようになって、「ねえ、ここで何をすればいいの? あるいは、どうすればこれを見れるの? 」と質問しください。 そうやって私たちはただそれに心を開く必要があります。
私は、幼い頃にカトリック教会にいた頃から、イエスに対する美しい愛をすでに持っていました。 私はいつもイエスが好きでしたが、13歳くらいで教会を離れましたが、幼い頃に教会で、彼らは間違って教えられている、これは正しくないと思ったことを覚えています。 私は答えを知りませんでしたが、どこかで、神は怒りっぽく、神は罰し、神は私たちを見て裁くという教えは、受け入れることができないと感じていたのです。
それらはすべて、コースで修正されています。 神は裁かないのです。 神は完全な愛であり、神聖なものであり、反対するものがないのです。 裁くのは私たち自身の自我です。 もしあなたがすでに信念を持っていたら、コースを始めるときには時間がかかります。逆に信念が少ないと、より早くそれを理解できます。
私が神についての考え方を変えるのには何年もかかりました。 なぜなら、私はまだ自己救済計画(独自の信念体系)を持っていて、それを理解するために、文字や単語を消したり、変更したりしていたからです。 神という言葉でさえ、自分の持っている信念を変えるのに苦労しました。 私は、私を知っていて、本当の自分によって私を創造した無限の愛があるという私の考え全体を変えなければなりませんでした。 つまり、私たちには中心があり、目に見えない中心があり、それはこの世界の何によっても決して変わらないということです。 そして、それが私たちが戻ろうとしているものであり、この本当に美しく、全体で完全な内なる中心なのです。 それが私たちが言及していることなのです。
イエスは、その神聖な愛の象徴です。 ですから、彼は、そして聖霊は知恵のようなものです。 あなたがどのような言葉を使うかは問題ではありません。 天使と言う人もいるでしょう。 誰もが独自のそれぞれの道を持っています。
私はここ数年、多くの奇跡のコースの生徒たちと協力してきました。 そして、彼らは皆、異なる方法を持っており、私たちは皆、独自の道を持っています。 しかし、私は、私が奇跡のコース以外に読んだ主な本は、ゲーリー・レナードによる「宇宙の消失(邦題:神の使者)」というでした。私はその2年間、それらを並行して読んでいました。 奇跡のコースを数ページ読み、「消失」を数ページ読み、それからレッスンをしていました。 そして、瞑想し、働きました。 そしてまた、金曜日の夜に仕事から帰宅すると、私は「よし、私は自分の小さなユニットで週末に『奇跡のコース』のリトリートをする」と言っていました。 金曜日の夜から日曜日の夜まで、私は文字通り、すべてをシャットダウンし、瞑想し、先生の話を聞き、自分の不満を書き出し、「これらから解放されたい」と言い、心の中のすべての混乱を湧き上がらせ、それを手放しました。 私は本当にその平和を得たかったのです。 コースで言うところの、神の平和を。
だから、私が今主張しているのは、コースを体験している人々が、執着をすべて手放すとこうなる、と感じているという確信だと思います。あるいは、執着がなければ何もしないと考えるのは簡単です。 しかし、実際には、奉仕するという新しい目的を持つことです。 奉仕することが現代のスピリチュアリティのあり方です。あなたの目的は今、奉仕することです。 私が目覚めの経験と呼んだものの後、数年間、私は会計の仕事をしていました。
そして、自分自身に「私はこのビジネスの所有者に仕えるためにここにいる。 そして、彼が私に頼んだ仕事をするためにここにいる。 私はただ、彼の求める会計の仕事をここでするためにいるのだ」と言い聞かせたことです。 そして、毎週または毎月銀行口座に振り込まれるこの少額のお金に私は恵まれています。
スピリチュアルな道に何も残す必要はなく、どこにいても、何をしていても、すべてを愛に捧げることができます。そして、ただ本当にこう言いましょう。「私は兄弟を敬い、できる限りの最高の仕事をするためにここにいるのです。」
エゴは、認められること、出世の階段を上ること、比較したり判断したりしようとすることにすべて関係していますが、スピリチュアルな観点からすれば、スピリチュアルな方法で仕事に新しい目的を与えることができます。 これは重要だと思います。なぜなら、多くの人がパートナーや仕事を離れて、どこかに出かけて何かをする必要があると考えているからです。 あなたはそうすることもできますし、それはそれで何も間違っていません。しかし、そうする必要はないのです。 ただ目的を変えればいいのです。 それは、誰もがリサイクルに夢中になっているのと同じで、リサイクルして、人生の目的を変えるのです。 あなたの人生は、得ることを目的としていました。 コースでは、エゴはすべてを得ることだと言っています。 それの焦点が与えることに変わります。 そして、あなたが必要とするものはすべて、あなたに戻ってきます。
「神の道具として仕える」。 それより良いものはありません。 つまり、ただ開かれているということは素晴らしいことです。 しかし、私にとって、まだ静寂の中で個人的な時間が必要です。 それは私にとって一番重要なことです。 なぜなら、もしそれを失うと、誰の役にも立てないくなるからです。 それが一番重要なのです。 私は、教えることや、その他すべてから離れる時間を取ってきました。 あなたはここで数年前にレスリー・スカイラーにインタビューしましたが、私は目覚めの経験をした後、彼女に連絡しましたのです。 私は自分自身を落ち着かせる必要がありました。話し相手が必要でした。
彼女は当時、私の夫のスピリチュアルな先生でした。それで私は彼女とつながり、彼女はその時期を乗り越える手助けをしてくれました。
私は広大な空間の中にいたのですが、彼女は私を支え、私が経験していることが正しいことを確認するのを助けてくれました。誰か、先生がいることはただ素敵でした。実は、彼女が私の最初の先生になるまで、私には先生がいなかったのです。でも、それはそれほど長くはなく、約3、4か月だけでした。
そして彼女は、あまり早く教えに出て行かないようにとアドヴァイスをくれました。
何かをする前に5年は時間をかけなさいと言いました。そして、時には10年かかることもあると言いました。 それはあなたが何も教えないという意味ではなく、その愛との内なるつながりが一番大切だということです。
この世界にはあなたをそこから引き離すような多くの気晴らしがあります。つまり、私たちは現在この大きな気晴らしを経験しており、いとも簡単にスピリチュアルな人々が調和を失います。 私はここ数年でそれが起こるのを見てきました。
ですから、私たち全員にとって一番大切なことは、その愛と知恵との調和です。本当にその時間を取る必要があるのです。 ですから、私はグループを気にしたことはなく、執着したり、責任を感じたりしたこともありません。私はいつもグループに、5週間休みを取るとか言っていました。そして、自分がつながっていることを本当に確認しようとしました。 なぜなら、それを第一に考えなければ、どうやって役に立つことができるでしょう。
それは、レスリーが私を本当に助けてくれたことでした。 そして、私は自分のグループを少人数に保つようにしていました。 いや、そうしようということではなく、ただその静けさを保つように心掛けたのです。 これは本当に大切です。
Rick: ええ、他の人が最近、ある霊的な教師との間に幻滅し、むしろトラウマ的な経験をしたのですが、レスリーに頼り、彼女が彼らをとても助けてくれたと私に言いました。 ですから、最近はレスリーについて良いフィードバックを得ています。
ここで、あなたが執着について言ったことにも触れたいと思います。 あなたは明らかに素敵な家にいます。 そしてあなたは麻袋を着ているわけではありません。 つまり、私たちは物がない状態である必要はないのです。 しかし、私たちの主な満足の源は内にある、外にあるものではない、というように、方向性が変わるのです。 そして、私たちがたくさんの外的なものを持っているかどうか、あるいは、そうでないかどうかに関わらず、どちらにしても、内的な満足感が私たちの軸となります。 そして、もしそうであるならば、あなたは自然に外的なものに過度に執着することはなくなり、それらの獲得に過度に喜んだり、それらの損失に落胆したりすることはありません。 それは、まるで、1日に数千ドルを儲けたり失ったりしても、それほど動揺しないような、富の基盤を持つ大富豪のようなものです。 あなたは内なる満足感の基盤を持っているのです。
Cate: ええ、私は、死と苦しみを乗り越える経験の中で、イエスといっしょに視覚化する経験をしました。 私は当時、職を失っていて、目覚めから数ヶ月後、私はそれを経験しなければなりませんでした。死という障害を克服するという、最終的なことでした。
仕事に就けず、住宅ローンを抱え、費用もかかり、私の導きは、これは手放すことの教訓だというものでした。
私が地元の店に行った話をしてもいいでしょうか。
Rick: ええ、その話は知っていますよ。 今朝、クロスカントリースキーをしているときに聞きました。 あなたはコーヒーを買い、小川がある奥のほうに行きましたね。 そこから話が始まります。
Cate: ええ、私は文字通り、恐怖でいっぱいでした。 そして私は、この持ち帰りのコーヒーを買うくらいの余裕はありましたが、自分が持っているものや持っていないものについて、非常に強い恐怖を感じていました。 家にかなりの食料品がありましたけれど。
小さな、それは川からの小さな入り江のようなところに行きました。 この入り江の端に足をぶら下げて座りました。 水深はわずか30センチほどでした。 水はすべて濁っていて泥だらけでした。 私は混乱しており、「本当に助けてほしい、イエス。 助けてください、私は死ぬのではないかと本当に恐れている」と言いました。 導きは、他の誰にも助けを求めないということだったからです。 私はすべてをこの内なるガイドに頼るように戻ってきていて、さらに大きな教訓を学びました。 そこで、私は目を閉じ、イエスが私の中に入ってくるのを感じ、彼は私を十字架に横たえました。 そして、私は背中にこの木があることを感じました。
実は、彼が私のためにしてくれたことが2つありましたが、どちらが最初だったか思い出せません。 しかし、それは実際に、溝の中に横たわっていたことだったと思います。 ですから、そのことについて話しましょう。 私が水のところに行く前に、私はホームレスとして溝に横たわっている自分のイメージが浮かび続けていました。 それはエゴでした。 そして、私が後に見たものは、まるで、エゴが大きな武器を持ち出してくるようなものでした。 つまり、この西洋の小さな男は、「お前は霊的に目覚めていると思っているのか? じゃあこれはどうだ? 」と言うようなものです。 この大きく恐ろしいものが、心の中で立ち上がったのです。 そして、彼は、もしお前がこの目覚めた心の中で生き続けるならば、この溝に落ちるだろうと私に見せ続けました。 私は座り込み、「私は溝に落ちるんだ、私は何もできなくなる、働けなくなる、誰も私を必要としない」と思いました。 その時、彼がやってきて、実際に私を外の溝に横たえました。 私は心の中で、私が住んでいた家の外の溝を見ました。 そして、私はその中に横たわり、冷たいコンクリートを感じました。 そして、私は見上げると、笑い始めたのです。 私は、家の前に出て、溝に横たわることができたことに気づきました。 そして、彼は私に「人々はただやってきて、『ねえ、何か助けが必要ですか? 』と言うだろう。 今、サンドイッチは必要ですか? ベッドは必要ですか? 」と言いました。 私は、ただ、人々が私を助けてくれるのが見えました。 そして、私は只々笑い始めました。 そして、私は、それがただ大きな無意味なものであり、そこに恐怖はないこと、それが私の心から完全になくなったことに気づきました。 そして、彼は私を十字架に戻しました。 そして、私は背後に材木があるのを感じることができました。 そして、私は手を伸ばしました。 彼は私に「これが私にとってどのようなものであったかわかるか? 」と言いました。 そして、私が感じることができたのは、この絶対的な深い平和、この純粋さ、そして、肉体ではないという感情だけでした。 そして、私の手が伸びて、まるで釘が打ち込まれる寸前であり、彼は「たとえその釘が打ち込まれたとしても、あなたは何も感じないだろう。 なぜならあなたは肉体ではないし、死ぬことはできないからだ」と言いました。 これは、おそらく他の人にとっては、ただの言葉のように聞こえるでしょう。 しかし、その経験で、私は自分自身が肉体ではなく、完全に自由であることを感じました。
そして、私が目覚めたとき、視覚化から戻ってきたとき、私は水面をのぞき込むと、水が透き通っていました。 小さな魚たちが泳ぎ回っていました。 そして、そこには、まるで小さなボトルのようなもの、つまり、時々、飲み物の小さなタブのようなもの、小さな銀色のものがありました。
~その2へ続く