ジョアン・トリフソン インタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=LjQs6g0n2Dc&t=295s
訳者から:
ジョアン・トリフソンは、私のすぐ近くにいてくれる覚者だと思う。 ラマナ・マハルシのような人はもう超人のような印象があって、私とはかけ離れた存在のような気がするが、この人はずいぶん近くにいてくれる。
私たちは、昔から覚者にあこがれる。 そして何か通常では考えられないような事を、その人たちが起こすのを望んでいる。
水の上を歩いただとか、一度死んだとか、死者を生きかえらせたとか、そんなことをしてくれたら、もう最高なのだ。 だから、そこまではできないにしろ、腐ったものを食べても病気にならないとか、蛇にかまれても平気だとか、痛みを感じないとか、そんなことをしてくれるだけで、何か熱狂的な気分になる。 自分もこの人にあやかれば、この平々凡々とした自分が変わって、凄いことができるかもしれないなんて想像する。 一瞥体験をしたとか、第三の目が開き、超能力を身に着けたなんていう人はYoutubeにもけっこう登場する。 また覚醒した瞬間から、死ぬまで変わることのない至福感を保ち続けられると夢想する。 それはそれでいいのだが、これも自我の拡大の一形態であることに変わりがない。 オーム真理教の教祖は自分を最終解脱者だと言った。 覚者であることをアピールした人はその信奉者のためにそのイメージを演じ続けなければならなくなる。なかなかしんどいことだろう。
私はこれらのことが全てインチキだと言っているのではない。 イエスは確かにそんな奇跡を起こしたのだろう。 そうでなければ、とっくに大衆に忘れ去られていたはずだ。 問題は、奇跡を起こす人の方ではなく、奇跡を望む人々の方にある。
ジョアン・トリフソンは曹洞宗に学んだ人だ。 そのため、「無念無想! カラスがカーと鳴いた瞬間に大悟した!」なんてことは言わない。 ましてや、覚醒したとか、見性したとか、純粋意識や真我のような言葉は遠ざけている。 道元自身がこういうことを諫めて、悟りを得るために坐禅をするのはだめよと言った。
フツーに生きて、フツーに苦しんで、フツーに喜んで、フツーに失敗して、それでやっぱり普通の人とは全く違うのだ。 その微妙なところを、トリフソンは教えてくれる。
トリフソンはまるでどこにでもいるアメリカのおばさん(今ではおばあさん)であるが、生まれた時から、片方の手が無く、若いころはドラッグ、暴力をふるったり、刑務所に入ったり、それでアル中になり、強迫的に指を傷つけるまで噛むという癖があった人だ。
教えはとてもシンプルである。 それは非二元の要諦である、「無我」(自分は無い)ということに尽きるように思われる。 たったこれだけのことを、本当に極めていったらどうなるか、ということを身をもって我々に教えてくれる。
先日より、兵庫県の斎藤知事の件で、多くの人はずいぶん惑わされただろう。 私はもう、何が真実なのかわからない。 それと同じようなことをトリフソンはドナルド・トランプについても言う。
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以下翻訳:
○ 導入
ジョアン・トリフソンを紹介したいと思います。彼女は、今ここにある、常に変化し、常に存在する生きた現実を生涯にわたって探求してきました。彼女の骨太のアプローチは、直接的で、現在の経験と意識的な存在の常に新鮮な生き生きとした状態に根ざしています。ジョアンの主な師匠は、よりシンプルでオープンな方法で活動するために伝統を捨てた元禅の師、トニー・パッカーでした。ジョアンは集まりを開催し、5冊の本の著者でもあります。『死』『自己改善の終わり』『掴むべきものはない』『道路の上で水で描く』『非二元性に関する講演と対話』『ハートランドの目覚め』『あるがままのエクスタシー』『骨組みだけの瞑想:私の人生物語への目覚め』です。
ジョアンは貴重な宝石で、私の新しい友人です。彼女と話すのは楽しかったです。彼女の生々しい正直さは新鮮で、私は彼女の本を何冊か読み終えたところです。それでは、ジョアン、ありがとう。ようこそ、ジョアン。
○ ジョアン・トリフソン:
こんにちは。私の声が聞こえますか?うまくいってる?たぶん、うまくいっていると思います。はい、うまくいっています。ああ、オーケー、よかった。オーケー、よかった。
こんにちは、エマーソン。ここに来られてうれしいです。私がこれから言いたいのは、哲学や信念体系のことではありません。
今ここで直接的に体験することです。これを探求し、これを楽しんで、これになることです。どこかに行くことや、何かを達成すること、何かを直すこと、何かになることでもありません。
今ここにあるもの、あるがままのことです。この瞬間のありのままの現実に同調すると。ありのままの現実とは、解釈する前の感覚的エネルギーの現実のことです。
ただ聞くこと、見ること、呼吸すること、感じること、この瞬間のありのままの現実です。それに同調すると、何に気づくでしょうか。
一つ気づくのは、すべてが変化しているということです。
実際、禅で言われているように、無常とは徹底して進んでいくことなので、実際には無常というものは存在しません。なぜなら、無常となるようなものは実際には決して形成されないからです。
流動とは、その徹底的な変化です。ですから、もちろん、家や山など、いくつかのものは非常にゆっくりと変化していて、私たちはそれに気づきませんが、実際には原子レベルでは常に変化しており、私たち自身も一瞬一瞬ごとに常に変化しています。
私たちの経験は変化し、考えは変化し、感覚は変化し、私たちの心が注意を払っているもの、注意の焦点は変化し、移り変わっています。
ですから、私たちは、継続的な徹底的な変化があることに気づきます。しかし同時に、私たちは、すべてが常に不変で、まさに今、ここに、この即時性、この存在性の中にあることに気づきます。
そして、それは常に動いているにもかかわらず、決してここから離れることはなく、まさに今、ここ以外の場所には決して行きません。ですから、それはちょっと興味深いことです。
また、私たちが注意を向けるもの、感覚、見かけ上の物体、思考、感情など、何であれ、注意を向けるものすべてに無限の変化があることにも気づきます。
本当に深くそれに心を開くと、それは無限で、続いていき、終わりはありません。
無限なのです。ですから一方では、形、色、感覚、形態、無限の変化があります。しかし同時に、すべてが1つの全体として分割されていない、シームレスな出来事として現れています。
映画と同じように、さまざまな形、色、形態、キャラクターなどがありますが、すべてが1つの動画、1つの映画として現れています。
そして、今ここにあるものも同様で、1つの全体としてシームレスな出来事です。
ですから、私たちはそれに気づくことができます。そして、実際の経験には内側も外側もないことに気づくことができます。
単に、自分の内側と考えるものと自分の外側と考えるものの境界がどこにあるかを探しても、実際には境界は見つかりません。
内側が外側に変わる場所を私たちは実際に見つけることはできません。
私の手は私の内側ですか? それとも外側ですか? それはあなたの内側ですか? それとも外側ですか? 私たちにはわかりません。
この声はあなたの内側ですか、それとも外側ですか? 私たちにはわかりません。
内側と外側、あるいは見かけ上のものと別のものの間には、実際には区別はありません。
私たちは、何かがそうではないとされているものから、何かを本当に切り離すことはできません。なぜなら、すべてのものは何らかの形で他のすべてのもので構成されており、実際の境界線はないからです。
また、決定や選択がどのように行われるかに注意を払えば、それらが自然に起こっていることにも気付くでしょう。
決定を下そうとすると、これをする、あれをするな、という矛盾した考えがあることに気付くでしょう。そして、これらの考えは私たちが起こしているのではなく、ただ起こっているだけであり、突然浮かび上がってくるのです。
そして突然、私たちは明らかに決定を下したようで、その決定的な瞬間をそれより早く起こさせることはできません。
それはすべて、驚くほど自発的に起こっているのです。
そして、私たちが自分を探すとき、振り返って、誰が話しているのか、誰がこれを言っているのかを見てみると、誰がこれらの言葉を言っているのかに再び注意を向けても、何も見つかりません。
彼らはただ口から出ているだけです。そして誰がそれを聞いているのでしょうか?
見てください。そこに誰かいるの?
私たちが自分を探すときに見つけるのは、思考、心象、感覚、常に変化するもの、そのような流れだけです。
しかし、私たちが見てみると、そこには本当に自分はいません。
つまり、私は何者でもなく、同時にすべてなのです。
この会議の名前と同じです。私は何者でもなく、すべてなのです。
ええと、もちろん、映画「ウェイクアップ・ライフ」では、私もジョーンとして、この特定のキャラクターとして登場しており、私たちは現実のその側面を否定することはできません。
現実、この生きている現実には、無限の異なる次元があるようです。
そして、特定の次元や視点に固執したり、とらわれたりしないことが非常に重要だと思います。
ですから、私たちは毎日の普通の生活を無視することはできません。
しかし同時に、私たちが実際に単なる経験のレベルでそれに注意を払うと、そこに存在すると思うものは、実際には何も見つけることができません。
私たちは、私やあなた、世界、世界の状況、これやあれやを実際には見つけることができません。
それは興味深いですね。
そして、何が起きているかに注意を払えば、習慣的な思考パターンが浮かび上がってくることにも気づくことができます。
たとえば、数年前に禅センターで初めて一日中座っていたとき、自分が抱いていたすべての思考が未来に関するものであることに気づきました。
それまで見たこともありませんでした。私は「わあ、これは本当にすごい」と思いました。すべての思考が未来に関するものなのです。
そして、そのパターンは魔法のように消えたわけではありません。
しかし、その瞬間から光が灯り、未来について考え込んでしまうたびに、すぐには見えなかったかもしれませんが、やがて気づくようになりました。
そして、その思考パターンがいかに魅惑的であるか、また同時に、実際にどれほど苦痛であるかに気づき始めました。
そして、おそらく10年後のある時点で、大きな閃きではなく、ある日、友人の教師トニー・パッカーが、母が亡くなったらどうするつもりかと私に尋ねました。
なぜなら、私はシカゴに引っ越して母の人生の終わりに一緒にいたかったからです。
そして、トニーは「母が亡くなったらどうするつもりですか?」と言いました。そして、私は「わあ、私はそれについて考えていなかった。私らしくない」という瞬間がありました。
つまり、そのパターンは、爆発的な瞬間ではなく、徐々に崩壊したのです。
つまり、起こっていることに注意を払うと、習慣的なパターンや、特定の性格が作り出す見出しや思考パターンに気づくのです。
私は決して理解できない、私は失敗者だ、人生を台無しにしてしまった、あなたは私の人生を台無しにした、あるいは、うーん、これは起こるべきではない、あるいは私たちのパターンが何であれ、それらを見ていくと、その支配力と信憑性を失い始めます。
それと同時に、感覚エネルギーの質感のレベルで、感覚エネルギーの現象として思考に注意を払うと、その思考に気づくことができます。
そのように思考に注意を払うと、それが信じられないほどはかないものであることがわかります。
それは、何かの小さな爆発のようなものです。 この小さな爆発は、ほとんど消えてしまいます。まあ、それが起こるとすぐに、パッと消えてしまいます。
そして、それはまるで無のようです。それでも、それは、信じられないほどリアルで信じられそうな、想像の中でこの映画や物語全体を作り出す素晴らしい能力を持っています。
ですから、多くの瞑想の伝統では、思考を敵または問題として見るように訓練されています。 私たちは思考を取り除こうとして多くの人が瞑想しているようです。
私は瞑想という言葉を使いますが、その言葉は実際にはあまり好きではありません。なぜなら、それは非常に多くの異なる意味を持つからです。
それよりも、「ただここにいる」ということです。 私たちの通常の忙しさや活動、会話、電話、その他すべてを脇に置いて、ただここにいて、起こっていることに耳を傾けるということです。
そして、それを操作したり、コントロールしたりしようとせず、ただあるがままに受け入れるのです。それがどんなものであるかに気づき、どんなものであるかを探り、どんなものであるかを楽しむのです。そうすると、思考が浮かんでは消えていきますが、それはこの瞬間に起こっている多くのことのうちの1つに過ぎないのです。
そして、私が見る限り、これが何であれ、何も排除されていません。
あるいは、1つのことを見つけて、他のすべてを取り除くことではありません。
何も排除されておらず、すべてが含まれています。私は、スピリチュアリティ、非二元などの言葉を使いますが、ある意味ではどれもあまり好きではありません。
私にとってスピリチュアリティは、何か神秘的なものや、物質とは対照的な精神などを意味するものではありません。
すべてがスピリチュアルです。
トイレもスピリチュアルです。
高速道路も、交通渋滞もスピリチュアルです。
私がそうであるように、すべてがスピリチュアルなのです。
スピリチュアルという言葉は、すべてのものの神聖さに気づくということです。
実際に見れば、すべてのものは非常に素晴らしく、美しいのです。つまり、私たちが何でもないと思っているもの、例えば古いティッシュをよく見てみると、驚くべき形や模様、影や光があります。
コップ一杯の水を見ると、さまざまな光や反射があり、何でもそうです。
私たちが当たり前だと思っているこれらの普通のもの、何もグランドキャニオンを見る必要はなく、すべてが素晴らしいのです。
そして、私としては、覚醒や悟りなどの言葉はあまり好きではありません。
時々使いますが、個人的には、すべてが劇的に変わるような大きな爆発的な瞬間を経験したことはありません。
混乱していたのに、突然大きな瞬間が訪れ、その後すべてが至福でいっぱいになるような経験は私はありません。 大きな瞬間を経験した人もいることは知っています。
しかし、いずれにせよ、私たちが経験するすべての経験は一時的なものだということです。
経験はその性質上、あっという間に消えてしまうのです。
ですから、スピリチュアルな世界では、私たちはしばしば、拡大や無限などの経験にとらわれてしまい、それが消え去ったように思えますが、実際には消え去っていません。何が起こるかというと、私や私たちが何であるかという物語が一種の注意を奪い、そして私たちはそれを失ったと考え、その経験に戻ろうとし始めるのです。
ですから、私が思うに、それはただの愚かな行為です。
これは、特定の経験をしたり、特定の状態に留まったりすることではありません。
それは、ただ今、ここ、あるがままに探求し、楽しみ、あるがままに存在することです。常に変化しながらも、常にここにあります。
そして、私が思うに、それは何かを求めたり、何かを獲得しようとしたりすることではありません。
それは本当に終わりのない探求なのです。ご存知のとおり、悟りや覚醒といった言葉は、私たちが越えようとしているゴールラインのようなものを示唆しているように思われることがよくあります。
しかし、それは非常に誤解を招く考えだと思います。
私はゴールラインがあるとは思いません。少なくとも私は見つけていません。
私にとってそれは、今ここにある、絶えず展開する、常に新しく、常に驚き、常に新鮮な生き生きとした状態です。
そして、覚醒や悟りといった言葉に関するもう1つの点は、私たちはしばしば、悟りを開いているとか、まだ悟っていないとか、個人的に捉える傾向があるということです。
しかし、よく言われるように、悟りを開いた人はいません。
つまり、もしこの言葉に何らかの意味があるとすれば、それは実際には分離がないという認識です。
悟りを得るために、他のすべてから分離している人はここにはいません。
そして、この想像上の私が到達し、永遠に留まるような、悟りと呼ばれる永続的な状態はありません。 それはまさに、見抜かれるものです。その見抜き方が悟りと説明されるかもしれませんが、それらの言葉を手放してしまった方が良いでしょう。
そして、ただ今ここにいるのです。 私はこれを修行とは考えていません。私はそれを楽しみ、探求だと考えています。そして、それが、私たちが可能な限り多くの時間を、生の感覚にただいることなどに費やすべきだとか、思考したり、空想したり、映画を見たりするべきではないと言っているわけではありません。
それは私が言っていることではありません。なぜなら、私は映画を見るのが大好きで、いつも独り言を言っているからです。 実際、時々私は少し異なるキャラクターを装って、想像上の対話をしています。 私は本当に、自分が少し狂っているのかも知れません。
しかし、だからと言って、私はこれらのことを否定しようとは思いません。これには絶対にすべてが含まれます。
○ 質疑応答
質問1: あなたのFacebookの投稿はトランプと彼が大統領になる未来を恐れているように見えます。 そのパターンに気づきましたか?
どうやって彼をあなたから切り離すのか?
これはすべて政治的じゃないですか? ドラマは実際には起こっていないのですか?
回答1: ええと、すべては、つまりより大きな意味では、私自身であると言えます。
トランプを含め、すべてを含めて。
先ほど言ったのと同じように、何も本当に特定することはできません。
ドナルド・トランプも、他の人も、特定することはできません。つまり、彼は私たち全員と同じように、宇宙全体の他のすべてと切り離せない、常に変化する現象です。
しかし、私にとって、非二元性は、私たちがもはや意見や好み、または何に対する考えも持たなくなることを意味しません。
一部の人々のスピリチュアリティや非二元性に対する考え方は、すべてまたは何かに対して完全に中立になることですが、それは私の考えではなく、私の経験ではありません。
私には多くの意見があります。そして、私が気づいたのは、私たちは自分の意見を実際に選ぶことができないということです。
気候変動からワクチン、ドナルド・トランプまで、ほとんどすべてのことについて、私たちは多くの間接情報に依存していることに気付いています。
コロナウイルスについては、すべて間接情報に依存しています。私たちはすべて異なる情報源に依存してます。 そして、私が気づいたのは、信頼できる情報源を選択できないということです。 Qアノン(訳注:米国発の極右系陰謀論)などは信じられません。 それは起こりそうにありません。つまり、私たちには意見や好みがありますが、好みを選ぶこともできないのです。
ご存知のとおり、私は自分の性的指向や性別、アイデンティティを選択できませんでした。これらのものを選択することはできません。 私はドナルド・トランプが好きではありません。えっと、もし私が彼を個人的に知っていたら、彼は本当にいい人だったかもしれません。それはわかりません。 彼がしたことのいくつかには私が同意したり、私が同意したり、気に入ったりしたこともいくつかありましたが、大抵の場合、彼は非常に厄介で不安な人だと思います。
ジョー・バイデンは私の第一候補ではなかったのですが、彼に投票するつもりです。
でも、私にとっては、それはすべて含まれています。 結局のところ、私が気づいたのは、宇宙にとって何が最善なのか、私にはよくわからないということです。
私たちが気づき始めていることの1つは、確かに意見はありますが、宇宙にとって何が最善なのかはよくわからないということです。 そして、私はよく、誰もが知っている中国の古い農民の物語(訳注:塞翁が馬のことか?)を人々に思い出させます。
私たちは、何が何につながるのか、よくわからないのです。これで答えになっているか分かりませんが、これが私の回答です。
質問2: 最近のあなたの病気は、未来を考えるパターンを強めましたか?
回答2: いいえ、まったく逆です。
つまり、未来を考えるパターンは、先ほど言ったように何年も前に消えました。
シカゴに住んでいたとき、もう起こっていないことに気づきました。
未来について全く考えていないと言っているわけではありませんが、何年もの間のようにそれに執着していません。ええと、もちろん、時には実用的な方法で、未来について考えなければなりません。つまり、もしあなたが癌にかかっていたら、この治療やあの治療で何をするかなどを考えますよね。
でも、まったく逆です。むしろ、非常に深刻な癌を患ったことで、今ここにあるものの尊さにさらに目覚めました。 老齢も同じです。私は72歳で、それほど高齢ではありませんが、そろそろその年齢です。そして、死がすぐそこにあると気づき、目が覚めます。
そして、それで、私はすべてのものをありのままに、そして最も単純なものにもっともっと感謝するようになりました。
質問3: 禅を、人が見性や悟りを達成するという枠組みから教えるのですか、それとも達成すべきことが何もない非二元的な観点から教えるのですか?
回答3: そうですね。まず第一に、私は自分自身を禅の教師、あるいは教師とさえ、表現しません。教師という言葉は好きではありません。
私のいわゆる教師であるトニー・パッカーは、禅を離れた元禅の教師でした。
そして彼女は教師という言葉が好きではありませんでした。彼女は、教師と生徒、つまりサットサンの世界でよく見られるような、探求者と発見者という観点で考えることは、非常に分裂的で、誤った分離を生み出すと感じていました。
だから、私は実際、教師という言葉を単に実用的な意味で使うことはありますが、自分を教師や禅の教師だとは思っていません。
つまり、私は禅や、ご存知の通り、私が教えているものにとても共感しています。
私が聞いて理解した禅の本来の教えについてです。スティーブ・ハーゲンやメル・ワイツマンなど、多くの禅の先生と仕事をしてきました。ジョン・タラントもそうです。
私が数年前に関わった禅は曹洞宗で、そこでは見性や悟りなどについて語られません。
ただここにいて、ただ座っているだけです。私が出会った禅では、見性体験のようなものを強調しませんでした。そして、ただ、あるがままに気づくことだけを重視していました。それが、先ほど言ったように、私が強調していることです。
そして、これがすべてであり、この生きている現実をどのような概念的枠組みにも当てはめることはできません。
ですから、選択の余地がないとか、自己がないとか、達成すべきものがないといった、これらすべての指標に、(これらはすべて指標ですが、)それにとらわれてはいけません。
なぜなら、ある意味では、あるように見えるものがあれば、それは、見かけ上の時間にわたる旅やプロセスのようなものです。
そして、物事は変化し、進化し、ある意味では良くなるか、あるいは何であれ、選択をしているように見えます。そして、私たちがどのように機能するかは、ある神経科学者が選択をする神経学的感覚と呼んだものを通してです。
つまり、これらすべての指標は、何かを指し示していますが、それにとらわれてはいけません。
なぜなら、禅の偉大な公案があり、禅師と弟子が葬式か何かをしに行き、弟子が棺を叩いて「生きているか死んでいるか」と問い、禅師は「私は言わない、言わない」と言うからです。
結局のところ、何かが何であるかを本当に言うことはできないのです。それでも私たちは話します。なぜなら、それは起こっていることの一部だからです。
宇宙が私たちを通して、私たちにしていることの一部です。ですから、私たちは何かを言いますが、私たちが言うこと、説明、概念、解釈はどれも現実ではないことを理解することが重要です。
古いことわざのように、地図は領土ではありません。地図は役に立ち、マッピングはこの全体性が行うことです。しかし、地図はそれが表すものではありません。
言葉が表すものではないのと同じです。水という言葉は水ではありません。だから、それが私の回答かどうかわかりません。
質問4: あなたの死に関する本はとても良いと思います。
臨死体験や死後の世界、生まれ変わりについて何か考えはありますか?
回答4: ええ、本に書いたように、私はそのどれも信じていません。
つまり、私は臨死体験は本当の体験だと信じていますが、人が本当に死んだ後に本当に起こるのかどうかは疑わしいです。
臨死体験とは死ではありません。 輪廻転生は、私が仏陀の教えとして理解していたことの誤解だと思います。ええと、私は、仏陀は天国や地獄のような考え方を大衆に教えてはいなく、微妙な本当の教えではないと思います。
ここには何も存在しないと思います。ここには、新しい生命に生まれ変わるような、確固とした永続的な実体を見つけることができません。
ですから、輪廻転生はないと思います。だからといって、死ですべてが終わるわけではありません。このすべてが何であれ、始まりも終わりもありません。
そして、ジョーンと呼ばれるこの見かけ上の形を、ジョーン以外のすべてから切り離すことはできません。
そういう意味では、終わりはないのです。でも、死後、何が起こるかはわかりません。私はまだ死んでいません。だから、本の中で言ったように、驚くかもしれませんが、白い光に向かって長いトンネルを進んでいくか、地獄に落ちていくか、何かに気づくかもしれません。そういうことが起こるかもしれません。でも、それは私が予想していることではありません。死は、夜眠ったり、麻酔をかけられたりするのとほとんど同じことだと思っています。麻酔をかけるたびに、意識がなくなるのを感じます。麻酔をかけるたびに、その考えが浮かびます。 実際、私はたいていそれを声に出して言います。さあ、行くぞ、と言います。麻酔をかけたらどこに行くのか、どこかに行くには誰がいるのか、などです。つまり、深い眠りの中にも何かが残っているということです。
深い眠りの中にも意識があるのです。アラームが鳴れば聞こえます。でも、死後には何が残るのでしょうか?
意識は、ご存知の通り、一つの普遍的な意識なのでしょうか?
私たちはそこで多くの理論や考えに陥りますが、私はむしろ、実際に何なのかという単純な考えに留まりたいと思っています。
ここでは、意識とは何かを知っているからです。
意識とは何でしょうか? ご存知のとおりです。
つまり、一方では、意識は私たちの最も明白な直接的な経験ですが、それでもそれをつかもうとすると、それは何なのでしょうか? それと、ここにあるすべてのものとの間に境界はあるのでしょうか? それは何でしょうか?
ですから、私は来世とか、そういうものをあまり信じていません。
質問5: あなたは、あなた自身のことを感じようとしています。 これはあなたにとって治療的なものですか?
すべてをさらけ出すことは、あなたの道の一部ですか? それは目覚めに役立ちますか?
回答5: ええと、私が言えるのは、それが私のやっていることだということです。
そして、もう一度言いますが、私たちが実際に何をするかを選択しているわけではないことに気付きました。
つまり、私は座って、本を書いて自分について多くのことを明らかにしようなどとは考えませんでした。それがただ起こったことです。
そして実際、長い間、私はそうしないようにしていました。なぜなら、自己がないという非二元的な考え、つまり、個人的な人格、個人的な生活は、すべて精神的に劣っていて、非二元的ではなく、やめたほうがよいという考えがあったからです。
だから、私は、絶対的な立場から話す教師たちを本当に羨ましく思っていました。
それで、私は、ストーマバッグ(訳注:オストミー手術を受けた患者が体からの排せつ物を収集するための使い捨て袋。)や人生の細かいことについて書いていたのです。
どうしてできなかったのか、実は当時はストーマバッグを持っていなかったのですが、とにかく、うーん、でもポイントは、うーん、まず第一に、私が言ったように、すべてがスピリチュアルで、すべてが非二元的であると考えていることに気づいたということです。
だから、いわゆる私生活を排除するものとは見ていません。そして、私が書いたものを気に入らない人もいますが、私が受け取ったフィードバック、つまり肯定的なフィードバックは、多くの人が、自分は一人ではなく、自分と同じことを経験している誰かがいると知ることで、とても解放されたと感じているというものです。
そして、それは私にとって興味深いことの1つでした。
うーん、私が最初の本「Bare Bones Meditation」を出版したとき、私が明らかにしたことが読まれた後、私は人類から排除されるのではないかと本当に思いました。
そして、私は自分自身をとてもとても変わっていると思っていました。
つまり、私は片腕のレズビアンで、リトリートセンターに住んでいて、そこでは私が唯一のゲイで、数少ない女性の一人でした。
そして、私たちは本当に違うと思っていました。そして、本が出版された後、ある男性から電話がありました。彼は、リトリートによく来ていた男性で、私とはまったく正反対の男性だと思っていました。大きく、神を信じるストレートな男性です。 彼は私に電話をかけてきて、ああ、ジョニー、君は私と同じだね。私たちはまったく同じだ、と言いました。私は、すごいと思いました。
そして、その後、私とはまったく違う人生を歩んできた人々から、その話を聞いたのです。
彼らは依存症に悩まされたことはなく、ゲイでもありません。彼らは私と同じ人生経験がないのに、それが自分たちの物語のように感じたと言っていました。
それで、私たちは時々とても違うように感じるけれども、共通点がたくさんあることに、ある種、目覚めさせられました。
そして確かに、私たちはみんな絶対にユニークで、私たち一人一人が絶対にユニークな道を歩んでいて、2つの雪の結晶が同じということはありません。
しかし同時に、人間として経験することには非常に多くの共通点があります。では、これをすることは私にとって治療的でしょうか?
私にはわかりません。つまり、これが私の仕事だということしか言えません。
そして、ええと、私は新しい本に取り組んでいないので、もう二度と書かないかもしれません。わかりませんが、ええと、ただそれが私の仕事のように思えます。
質問6: あなたの個人的な経験では、純粋意識の感覚はどのようなものですか?
それは体の内側ですか、それとも外側ですか?
オンオフですか、それとも安定していますか?
回答6: 純粋意識がどのようなものかはわかりません。
ええと、私が見る限り、先ほど言ったように、内側と外側の境界を見つけることはできません。永続的に安定する経験を見つけることはできません。しかし、私はそれが常にここにあり、常に今であることに気付きました。
そして、ここ、今、意識と呼ぶことができます。ええと、それをさまざまな名前で呼ぶことができますが、私は意識の外側、または意識以外のものを経験することはできないことに気付きました。
何かを想像することはできますが、その想像は意識の経験です。先ほど言ったように、意識とは何でしょうか?
それはちょっととらえどころがないですね。
まあ、でもあなたが知る限り、純粋意識を体験することにはあまり興味がありませんし、それがどんなものなのかもわかりません。
つまり、それは深い眠りの中にあるものとか、そういうものなのかもしれません。
わかりません。でも、私は深い眠りの中にいるわけではありません。
少なくとも私がそう言うとき、私が意味しているのは、ええと、目覚めた意識のことですが、この体験は深い眠りの中には存在しません。
そこには体験はありません。ですから、とにかく、それは私のものではありません。
質問7: 自己重要感についてどう思いますか?
回答7: ええと、私はそれをお勧めしません。私は自己卑下もお勧めしません。
つまり、私たちの社会は、人々が自己嫌悪や自分は十分ではないと感じることなどで蔓延していると思います。
だから、私はそれをお勧めしませんが、その効果的な解毒剤は自己重要感ではないと思います。私はそう思いますが、これらはすべて私たちが自分自身の中に見ることができるものであり、もう一度、あなたが何に注意を払っているかを見れば、私たちは時々優越感を感じ、時々劣等感を感じていることに気付くでしょう。
ご存知のとおり、これらは人間的なものですが、それらは幻想だと思います。
なぜなら、私たちの誰もが本当に優れているとか、劣っているとかいうわけではないからです。つまり、相対的に、ある人は他の人よりも優れた外科医であるとか、そういうことかもしれません。あるいは、より速いランナーであるとか、そういうこともあるかもしれませんが、しかし、優れた人、劣った人というのはいないと思います。
質問8: 後悔していることはありますか?
回答8: ええと、そうですね、確かに、振り返ってみると、ああしなければよかったとか、違うやり方をしておけばよかったとか、そういうことがあるという意味では、イエスと言えるでしょう。
しかし、私はそれについて後悔に囚われて過ごしているわけではありません。
それは私のものではなく、特にそれに囚われることはありません。
そして、選択はなく、起こることはすべて全体として非個人的な出来事であるという事実を本当に理解すると、あなたは常にその通りに表現されており、他の方法ではあり得ないということを理解するでしょう。
ですから、私は「しまった、それは間違いだった」と振り返るかもしれないのですが、それはその瞬間のことであり、非常に解放的なのです。
それは、しかし、その洞察、その気付きは私にとって非常に解放的なものだったのです。なぜなら、それは中国の農家の話、古い中国の農家の話とも関連しているからです。つまり、私たちが間違いだと考えることをした時、その全ての影響、あるいはそれが起こらなかった方が良かったかどうかは、本当に分からないのです。気候変動や核戦争などで私たちが種として絶滅したとしても、それが悪いことだと私たちは知りません。つまり、私たちはそうならないようにプログラムされているようなもので、生き残りたいと思っています。
しかし、私たちは本当に分かりません。恐竜も生き残りたいと思っていたでしょうが、彼らの絶滅は私たちにとって特に問題ないように思えます。
ポリオワクチンの開発がなかったことを嘆いてはいません。しかし、人間は生き残るべきだという考えに私たちはかなり執着しています。
そしてもちろん、いつか私たちは死にます。すべては死にます。あらゆる形態は死にます。
実際、先に述べたように、それは決して本当に固体として、あるいは永続するものとして形作られることさえありません。新しい何かがここに来るでしょう。
少し脱線したかもしれませんが、後悔について、もし誰かが本当に何かを後悔し、後悔に迷い込むというパターンを持っているなら、それを認識することは良いパターンです。
そして、それをより多く見て、それを通り抜け、その不真実さを見るほど、その影響力は小さくなると言えます。
~以下はZOOMでの連絡や挨拶のようなものなので、略しました。