Mikiさんが紹介してくださったエックハルト・トールのYoutubeが素晴らしかったので、訳してみました。
ここでエックハルト・トールは奇跡講座について言及しています。
以下、Youtubeの訳、文字起こし
「奇跡講座」からの短い引用句をいくつか紹介します。
数年前、私は「奇跡講座」について、もう少し詳しく講演を行いました。
「奇跡講座」は、ご存知かどうか分かりませんが、それを読んだことがあるか、やったことがあるか、聞いたことがあるか分かりません。
チャネリングされた本です。
60年代、60年代後半に最初にチャネリングされました。 そして、70年代に初めて出版されました。おそらく76年です。 そして、それ以来存在し続け、一種のスピリチュアルな古典となっています。深遠で非常に深いチャネリングされた本の1つです。
万人向けの本ではありません。間違いなく。 キリスト教の用語を使っていますが、キリスト教を再解釈しています。 そのため、非常に深い教えになります。おそらく、イエスの本来の教えです。 それは、ニューヨークのコロンビア大学の臨床心理学者によって、チャネリングされたものです。 彼女は内容をあまり理解していませんでした。スピリチュアルな背景がほとんどなかったので、内なる声によって彼女に口述されました。 そのため、キリスト教の用語法は、ある人には役立ち、他の人にとっては妨げになります。この時代遅れの言語、排他的に男性代名詞を使っており、神、父、そして、神について「彼」と話すこと、それは制限とみなされるかもしれませんが、それらを越えて、見てみてください。
今日は、「奇跡講座」全体を使う代わりに、(これは大きな本なので、手元にありません。
) 小さな分量で「奇跡講座」からの引用句集として出版されたものを使います。 そして、「この贈り物を受け入れなさい」と題されており、「奇跡講座」からのセレクションです。
マリアン・ウィリアムソンによる序文で、ターシャ・コーナーストーン・エディションズ社より出版されたものです。
これらの引用は非常に短く、美しく、
比較的ニュートラルな言葉を選んでおり、男性代名詞や時代遅れの用語は多くありません。だから、私が今日は、これらの非常に短い引用をいくつか選び、コメントします。
これは、「奇跡講座」を単純化したり、何か単純なものに還元したりしているという意味ではありません。 スピリチュアルなテキストは、他の種類のテキストとは非常に異なり、累積的な意味で機能しないため、真実を包含することができます。 全体の真実を一つの文章に含めることができます。 ですから、それは拡張ではない、深さの次元で機能します。
でも、逆説的に、「奇跡講座」にはテキストと365個のレッスンがあります。1年365日分なので、その意味では時間が与えられます。 なぜなら、あなたの心から「時間」を取り除くために、時間が必要だからです。 かなり逆説的ですね。
「奇跡講座」のいくつかの記述は非常に詩的で、小さな詩のようです。
それらの小さな、ほぼ詩のようなものの1つから始めましょう。
それらは非常に美しいです。そして、私が始める最も深遠なものの1つは、「講座」の終わり近くにあります。
もし誰かが「講座」を365日やれば、それは一年の終わり頃になるでしょう。 今日のセッションで最長の引用です。
その美しさを理解していただけると思います。 そして、意味についてコメントします。 必要ならですが、おそらく必要ないでしょう。
まだ、全部一度に読むかどうかわかりません。最初に部分的に読んで、各部分にコメントします。 数ページです。 短いページです。
(訳注: おそらくT-31.Ⅴ.17 以下はエックハルト・トールの引用を原典から書き出します。)
The world can teach no images of you unless you want to learn them. There will come a time when images have all gone by, and you will see you know not what you are. It is to this unsealed and open mind that truth returns, unhindered and unbound. Where concepts of the self have been laid by is truth revealed exactly as it is. When every concept has been raised to doubt and question, and been recognized as made on no assumptions that would stand the light, then is the truth left free to enter in its sanctuary, clean and free of guilt. There is no statement that the world is more afraid to hear than this:
I do not know the thing I am, and therefore do not know what I am doing, where I am, or how to look upon the world or on myself.
Yet in this learning is salvation born. And What you are will tell you of Itself.
あなたが学びたいと望まない限り、世界はあなたを表すいかなる形象もあなたに教えることは出来ません。 いつの日か、形象の数々が消え去り、あなたは自分がいかなるものであるかを知らないと分かる時がやってきます。
封印が解かれて、開かれたこの心へと真理が妨げられることも束縛されることもなく戻ってきます。
自己の概念が脇に置かれたところでは、真理がありのままに明らかにされます。
一つひとつの概念が疑われ、疑問視され、いずれも光に耐え得るような前提に基づいてはいないと認識される時、真理は罪悪感から自由で、清浄な自らの聖域に自由に入っていくことが出来ます。
以下の声明以上に、世界が聞くのを恐れているものはありません。
私は、私であるものを知らない。
したがって、私が何をしているのか、どこにいるのか、あるいは、どのようにこの世界や自分自身を見たらよいのかも、知らない。
しかし、この学びの中で救済が生まれるのです。
(以下はエックハルト・トールの引用の訳)
「時は来ます。
イメージはすべて過ぎ去り、あなたは見ます。
あなたは自分が何であるかを知りません。
それはこの開かれた心に、真実が妨げられず、自由に戻ってくるのです。
自己の概念が捨てられたところに、真実がそのまま明らかにされるのです。」
それが最初の段落です。最初の詩です。
簡単にコメントしましょう。
イメージはすべて過ぎ去り、あなたは見ます。あなたは自分が何であるかを知りません。
さあ。どういう意味でしょう?
講座の他の場所では、古代の表現、「汝自身を知れ」を使っていますが、それは主な講座の目的の一つは、自分自身を知ることを教えてくれることなのです。
「汝自身を知れ」。
それはどのように関連するでしょうか?
時は来ます。
あなたは、自分が何であるかを知らないことを本当に理解します。
どのようにして自分自身を知ることができるのでしょうか?
それはこう言っています。
時は来ます。あなたは肯定的に、自分が何であるかを知らないでしょう。
これを簡単に説明すると、
自分自身を知るには、自分自身についての概念を手放さなければならないということです。そして、概念を手放すと、自分自身についての概念を精神的に手放すと、あなたはもはや自分が誰であるか、あるいは何であるかを知りません。 概念のレベルでは。 そして、概念を手放すと、 自己の概念が捨てられたところに、真実がそのまま明らかにされるのです。
ですから、あなたが自分の正体に関する精神的な概念、つまり物語、語り、解釈を放棄すると、 より深い次元の智識が生まれます。 深いとか、高いとかの表現はどうでも良いことです。 あなたが手放した概念的な知識に代わって、より深い次元の智識が生まれます。
そして、そのより深い知覚の次元において、それは概念的ではなく、思考に基づいていない、あなたは誰であるかという真実が、それ自身を明らかにします。
それが、インドの教え、ヒンドゥー教の教え、仏教の教え、神秘主義的なキリスト教、スーフィズムのすべての本質です。それはすべて同じです。
さあ、この詩を同じテーマで続けましょう。
詩と呼んでいますが、テキストの一部です。
さあ、一瞬静止し、そして、かつて学んだことすべて、抱いた考えすべてを忘れましょう。
そして、物事の意味と目的についての先入観をすべて捨てましょう。
自分の世界観を思い出さないようにしましょう。
私たちは知りません。
すべての人についてのイメージをすべて、心から解放し、一掃しましょう。
判断をせず、悪や善について、かつてあなたの心や誰かの心に浮かんできた考えを意識せずにいましょう。 そうすると、今は彼を知らなくても、あなたは彼について学ぶ自由があり、他の人としての彼について学びます。
だから、ここのこの節は、あなたたちが思考を基本的に手放す時に来る明晰さと深い悟りのことを指しています。
一瞬静止し、そして、かつて学んだことすべて、抱いた考えすべてを忘れましょう。
そして、物事の意味と目的についての先入観をすべて捨てましょう。
すべての人についてのイメージをすべて、心から解放し、一掃しましょう。だから、それは自分自身についての自己概念を手放すことだけではありません。
それはまた、他の人々について持っている判断、概念、概念化を手放すことでもあります。
だから、他の人と出会う時も概念なしで、概念的な認識を手放す時、より深い認識が生まれます。
判断の無垢さ、とあります。
判断とは基本的に、思考を通して物事を解釈することです。すべての判断は思考です。イエスも「裁くな」と言いました。
だから、悪や善について、かつてあなたの心や誰かの心に浮かんできた考えを意識せずにいましょう。 今は彼(または彼女)を知らなくても、一度手放すと、あなたは彼について学ぶ自由を得て、彼とあなたについて、より深い人間の存在の現実、本質において、彼(彼女)が誰であるかを学び、そして同じように自分自身を知ります。
静かにしましょう。
このルール以外には何も必要ありません。
今日のあなたの練習が、世界の思考を超えて、あなたを持ち上げ、あなたの視界を肉体の目から解放すること。
静かにしましょう。そして、耳を澄ませましょう。 (Only be still and listen.)
単純にこれを行いましょう。
静かにしましょう。
そして、自分が何であり、神が何であるかという考えをすべて脇に置きましょう。
世界について学んだ概念すべて。
自分自身について抱いているイメージすべて。
https://www.youtube.com/watch?v=grBahEds37U