私は本当に彼を罪なき者とみたいだろうか? ケネス・ワプニック Ph.D.
Do I really wish to see him [my brother] sinless
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https://www.youtube.com/watch?v=2N67npAYMRE
テキストの20章に、イエスが私たち自身に問うべき質問として、「私は本当に彼を罪なき者と見たいだろうか*」という言葉があります。
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*訳注: T-20.Ⅶ.9
あなたの質問は、「どうすれば兄弟は肉体なしで見ることができるだろうか」であってはならない。 「私は本当に彼を罪なき者と見たいだろうか」とだけ問いなさい。 そして それを問うときに忘れてはならないことは、彼の無罪性があなた自身の恐れからの脱出だということである。 救済が聖霊のゴールである。 その手段は心眼である。 なぜなら、見ることのできるものが眺めるのは、まさしく罪なきものだからである。 愛する者は裁くことができない。 そして彼が見るものは咎めからの自由である。 彼が見るものは、彼が自分で作り出したものではない。 彼が見ることを可能にした心眼と同様に、それは神が見るようにと与えられたものだからである。
Your question should not be, "How can I see my brother without the body?" Ask only, "Do I really wish to see him sinless?" And as you ask, forget not that his sinlessness is your escape from fear. Salvation is the Holy Spirit's goal. The means is vision. For what the seeing look upon is sinless. No one who loves can judge, and what he sees is free of condemnation. And what he sees he did not make, for it was given him to see, as was the vision that made his seeing possible.
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これが今朝の私たちのテーマです。重要なのは、私たちが見ないように求められているのではなく、兄弟を肉体として見ないように求められているのでもないということです。なぜなら、私たちは肉体と強く同一化しているため、それは、この世界ではほとんど不可能なことだからです。 コースのほとんどの学習者は、2章にあるイエスの言葉を覚えているでしょう。「この世界での物理的な経験を否定することはほとんど不可能であり、それは特に不適切な「否定の形」となるだろう*」と。これもまた、私たちが肉体と強く同一化しているからです。
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*訳注:T-2.Ⅳ.3
心のみが創造できる。 霊はすでに創造されたものであり、肉体は心のための学習手段にすぎないからである。 学習手段は、それ自体が学ぶべきレッスンなのではない。 それらの目的は単に、真実を促進することである。 学習手段の誤用から起こりえる最悪のことは、真実の促進に失敗することだけである。 それ自体には実際の真実に誤りを導入する力はない。 肉体はそれが正しく理解されるなら、諸刃の剣の適用によっても傷つかない食材の強さを共有する。 これは肉体が奇跡だからではなく、 肉体は本来、誤った解釈に陥りすくできてはいないからである。 肉体は単に、この物理的世界におけるあなたの経験の一部であるにすぎない。 その能力については過大評価されるし、実際しばしばそうされている。 しかし、この世界においてはその存在を否定することはほとんど不可能である。 そうする者たちは、否定の中でもとりわけ無価値な形の否定に携わっていることになる。 無価値なという言葉は、ここでは単に、心を持たないものを否定することによって心を保護する必要はないと示唆しているだけである。 もし心の持つ力のこの残念な側面を否定するなら、心の力そのものを否定していることになる。
Only the mind can create because spirit has already been created, and the body is a learning device for the mind. Learning devices are not lessons in themselves. Their purpose is merely to facilitate learning. The worst a faulty use of a learning device can do is to fail to facilitate learning. It has no power in itself to introduce actual learning errors. The body, if properly understood, shares the invulnerability of the Atonement to two-edged application. This is not because the body is a miracle, but because it is not inherently open to misinterpretation. The body is merely part of your experience in the physical world. Its abilities can be and frequently are over-evaluated. However, it is almost impossible to deny its existence in this world. Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial. The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful. If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself.
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実際、私たちは『奇跡講座』を読んでいる肉体であると思っています。本を手に持っていると思っています。目で読んでいると思っています。ワークショップのテープを耳で聞いていると思っています。読んでいる内容について脳で考えていると思っています。
私たちは、自分の体が読んでいると思っていることに作用している、などと考えているので、自分が肉体であることを否定するのはやはりほとんど不可能です。したがって、イエスは、私たちが他者を肉体として視覚的に認識することを否定すべきだと言っているのではなく、その肉体が何をするかを否定すべきだと言っているのでもありません。彼が私たちに否定するように求めているのは、肉体がすること、あるいは肉体がどのように見えるかについてのエゴの解釈なのです。
例えば、誰かが病気であるとか、死にかけているとか、あるいは死んだ場合、この世界での肉体としての私たちの経験では、その人は病気である、死にかけている、あるいは実際に死んでおり、もはや私たちの目の前にいない、となります。それは嘘です。それは、分離は現実であり、その思考の具現化である肉体もまた現実であるというエゴの信念に基づいた解釈なのです。
しかし、コースでは何度も何度も「想念は源から離れない*」と教えており、分離の思考、分離のアイデアは、その源である心から決して離れていません。つまり、肉体も世界も存在しないのです。物理的な目が何を見るか、脳がその感覚データをどのように処理するかを解釈するのは心なのです。
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*訳注:T-26.Ⅶ.4
知覚の法則は真理とは正反対であり、 知識について真実であることは、知識から離れているいかなるものについても真実ではない。 だが、神は病んだ世界に答えを与えた。 そしてその答えは、そのすべての形に適用できる。 神の答えは永遠であるが、それが必要とされている場である時間の中でも働く。 だが、それは神からのものであるから、時間の法則はその働きに影響を及ぼすことはない。 それはこの世界の中にあるが、世界の一部ではない。 なぜなら、それは実在するものであり、実相の全てがある所に存在するからである。 想念はその源を離れないので、 その結果は想念から離れているように見えるだけである。 想念は心に属するものである。 外に投影されて、心の外にあるように見えるものは、決して外側にあるのではなく、内側にあるものの結果であり、その源を離れていない。
Perception's laws are opposite to truth, and what is true of knowledge is not true of anything that is apart from it. Yet has God given answer to the world of sickness, which applies to all its forms. God's answer is eternal, though it works in time, where it is needed. Yet because it is of God, the laws of time do not affect its workings. It is in this world, but not a part of it. For it is real, and dwells where all reality must be. Ideas leave not their source, and their effects but seem to be apart from them. Ideas are of the mind. What is projected out, and seems to be external to the mind, is not outside at all, but an effect of what is in, and has not left its source.
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問題は、それを解釈するのが心だということです。教師のためのマニュアルの中で、イエスは「事実に対して怒るのではない*」ことを覚えておくように言っています。
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*訳注: M-17.4
誰も事実に対して怒ることはできないと覚えておくことが、おそらく役に立つだろう。 否定的な感情を引き起こすのは常に、解釈である。 たとえ事実のごとく 見える何かがそうした感情を正当化しているように見えていても、それとは無関係である。 また、喚起されてる怒りがどのくらい激しいかと言うことも、無関係である。 その怒りは、はっきりと認識することすらできないような単なる軽い苛立ちかもしれない。 あるいはまた激しい激怒の形をとり、それに伴って暴力の考えが空想されたり、目に見えるように行動に移されたりするかもしれない。 そうしたことは問題にならない。 これらの反応はすべて同じものである。 それらはみな真理を覆い隠すのであり 、 このことは決して程度の差の問題となりえない。 真理は明白であるか、そうでないか、どちらか一方でしかない。 それが部分的に認識されることはありえない。 真理を自覚していないものは、幻想を見る以外にない。
Perhaps it will be helpful to remember that no one can be angry at a fact. It is always an interpretation that gives rise to negative emotions, regardless of their seeming justification by what appears as facts. Regardless, too, of the intensity of the anger that is aroused. It may be merely slight irritation, perhaps too mild to be even clearly recognized. Or it may also take the form of intense rage, accompanied by thoughts of violence, fantasised or apparently acted out. It does not matter. All of these reactions are the same. They obscure the truth, and this can never be a matter of degree. Either truth is apparent, or it is not. It cannot be partially recognized. Who is unaware of truth must look upon illusions.
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「事実の解釈に対して怒る」のです。事実は、あなたが私を攻撃したか、あるいは私が同一化している人々を攻撃したのかもしれません。解釈は、あなたが私を攻撃したということです。あなたの体は何かをしたかもしれないし、あなたの口は何かを言ったかもしれませんが、それは私とは何の関係もありません。ただし、27章の終わりにあるように、私がそれを「自分の夢であると認識できなかった*」場合を除きます。そして、この文脈における夢とは、私が神から盗んだと信じている分離を維持したいが、その責任を誰か他人に負わせたい、ということです。それが私の夢、つまりスケープゴートを見つけ、源から分離したという私が認識している罪に対する無意識の罪悪感を投影できる誰かを見つけることです。それが私の夢です。したがって、私は人々が私を攻撃してくれることを望んでいます。そうすれば、私は彼らに非難の指を指して、「見よ、兄弟よ、あなたの手で私は死ぬ*」と言うことができます。私のせいではなく、あなたのせいだとするのです。
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*訳注:T-27.Ⅷ.10
救いの秘密は、あなたは自分で自分にこれを行っているということだけである。 攻撃の形のいかんにかかわらず、依然としてこれが真実である。 敵や攻撃の役割を誰がになっていようと、依然としてこれが真実で真理である。 あなたが感じている苦痛や苦しみの原因に見えようと、依然としてこれが真実である。 なぜなら、自分が夢を見ていることを知っている夢の中でなら、あなたもそこに登場する人影たちに対して、 全く反応しようとしないはずだからである。 彼らにはいくらでも好きなように、憎々しく凶暴にさせておきなさい。 これが自分の夢だということを、あなたが認識損なったのではない限り、 彼らはあなたにどんな結果をもたらし得ない。
The secret of salvation is but this: that you are doing this unto yourself. No matter what the form of the attack, this still is true. Whoever takes the role of enemy and of attacker, still is this the truth. Whatever seems to be the cause of any pain and suffering you feel, this is still true. For you could not react at all to figures in a dream you knew that you were dreaming. Let them be as hateful and as vicious as they may, they could have no effect on you unless you failed to recognize it is your dream.
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27章の冒頭には、その行がある同じセクションに、「見よ、兄弟よ、あなたの手で私は死ぬ」とあります。あなたの兄弟の「罪は天に書かれて」おり、「彼に先立つ」のです。言い換えれば、天国の神は他人の罪を見ており、あなたがいかに私に対して罪を犯したかを私に、神に、そして世界に示すのは、私の苦しむ肉体なのです。
したがって、私たちは兄弟の罪のなさを知るように求められているのではなく、兄弟の肉体を認識しないように求められているのでもなく、彼の罪のなさを願う私たちの願望を見て、それを修正するように求められているのです。「私は本当に彼[私の兄弟]が罪のない姿を見ることを願っているか?」そして、私がエゴと同一化している限り、その答えは断固として「いいえ、私は彼が罪のない姿を見ることを望んでいません。私は彼が罪深い姿を見ることを望んでいます」です。
したがって、私はあなたの体がすることを否定しません。私が否定するのは、あなたの体がすることに対するエゴの解釈、すなわち、あなたが私にこれをしているということです。したがって、それは、私があなたを置いているカテゴリー、つまり罪人として分類することを正当化し、したがって、エゴの基本的な原則が「どちらか一方」であるため、神は私の代わりにあなたを罰するでしょう。あなたが罪人なら、私は罪のない者でなければなりません。
私が罪人なら、あなたは罪のない者です。したがって、私が神から盗んだと信じている分離を維持するためには、もう一度言いますが、私はその責任を誰か他人に負わせなければなりません。なぜなら、その人は私の代わりに罰せられるからです。したがって、私が兄弟の罪のなさを見るためには、彼が罪のない姿を見ることを願うためには、まず、エゴに対する以前のコミットメント、エゴが正しく、聖霊とイエスが間違っていたという以前の信念を修正したいという根本的な願望を持っていなければなりません。したがって、その質問への答えは、私がどの教師を選んでいるかによって異なります。罪、罪悪感、恐怖、罰の思考体系を持つエゴか、あるいは赦し、平和、癒しの思考体系を持つイエスかです。したがって、その質問への答えは、私がどの教師を選ぶかにかかっており、その教師の選択は、私が夢の中に留まることを選ぶか、そこから目覚めることを選ぶかにかかっています。
すべては、目覚めることを願うか、眠ったままでいることを願うかという、その一つの基本的な選択に帰着します。