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エックハルト・トール 奇跡講座を語る

2024-11-20 17:51:17 | 奇跡講座

Mikiさんが紹介してくださったエックハルト・トールのYoutubeが素晴らしかったので、訳してみました。      

ここでエックハルト・トールは奇跡講座について言及しています。

 

 

以下、Youtubeの訳、文字起こし

 

「奇跡講座」からの短い引用句をいくつか紹介します。

数年前、私は「奇跡講座」について、もう少し詳しく講演を行いました。

「奇跡講座」は、ご存知かどうか分かりませんが、それを読んだことがあるか、やったことがあるか、聞いたことがあるか分かりません。

 

チャネリングされた本です。

60年代、60年代後半に最初にチャネリングされました。 そして、70年代に初めて出版されました。おそらく76年です。 そして、それ以来存在し続け、一種のスピリチュアルな古典となっています。深遠で非常に深いチャネリングされた本の1つです。

 

万人向けの本ではありません。間違いなく。 キリスト教の用語を使っていますが、キリスト教を再解釈しています。 そのため、非常に深い教えになります。おそらく、イエスの本来の教えです。 それは、ニューヨークのコロンビア大学の臨床心理学者によって、チャネリングされたものです。 彼女は内容をあまり理解していませんでした。スピリチュアルな背景がほとんどなかったので、内なる声によって彼女に口述されました。 そのため、キリスト教の用語法は、ある人には役立ち、他の人にとっては妨げになります。この時代遅れの言語、排他的に男性代名詞を使っており、神、父、そして、神について「彼」と話すこと、それは制限とみなされるかもしれませんが、それらを越えて、見てみてください。

 

今日は、「奇跡講座」全体を使う代わりに、(これは大きな本なので、手元にありません。

) 小さな分量で「奇跡講座」からの引用句集として出版されたものを使います。 そして、「この贈り物を受け入れなさい」と題されており、「奇跡講座」からのセレクションです。

マリアン・ウィリアムソンによる序文で、ターシャ・コーナーストーン・エディションズ社より出版されたものです。

 

これらの引用は非常に短く、美しく、

比較的ニュートラルな言葉を選んでおり、男性代名詞や時代遅れの用語は多くありません。だから、私が今日は、これらの非常に短い引用をいくつか選び、コメントします。

 

これは、「奇跡講座」を単純化したり、何か単純なものに還元したりしているという意味ではありません。 スピリチュアルなテキストは、他の種類のテキストとは非常に異なり、累積的な意味で機能しないため、真実を包含することができます。 全体の真実を一つの文章に含めることができます。         ですから、それは拡張ではない、深さの次元で機能します。

でも、逆説的に、「奇跡講座」にはテキストと365個のレッスンがあります。1年365日分なので、その意味では時間が与えられます。 なぜなら、あなたの心から「時間」を取り除くために、時間が必要だからです。 かなり逆説的ですね。

 

「奇跡講座」のいくつかの記述は非常に詩的で、小さな詩のようです。

それらの小さな、ほぼ詩のようなものの1つから始めましょう。

 

それらは非常に美しいです。そして、私が始める最も深遠なものの1つは、「講座」の終わり近くにあります。

 

もし誰かが「講座」を365日やれば、それは一年の終わり頃になるでしょう。 今日のセッションで最長の引用です。 

 

その美しさを理解していただけると思います。 そして、意味についてコメントします。 必要ならですが、おそらく必要ないでしょう。

まだ、全部一度に読むかどうかわかりません。最初に部分的に読んで、各部分にコメントします。 数ページです。 短いページです。  

 

(訳注: おそらくT-31.Ⅴ.17 以下はエックハルト・トールの引用を原典から書き出します。)

 

The world can teach no images of you unless you want to learn them. There will come a time when images have all gone by, and you will see you know not what you are. It is to this unsealed and open mind that truth returns, unhindered and unbound. Where concepts of the self have been laid by is truth revealed exactly as it is. When every concept has been raised to doubt and question, and been recognized as made on no assumptions that would stand the light, then is the truth left free to enter in its sanctuary, clean and free of guilt. There is no statement that the world is more afraid to hear than this:

 

I do not know the thing I am, and therefore do not know what I am doing, where I am, or how to look upon the world or on myself.

 

Yet in this learning is salvation born. And What you are will tell you of Itself.

 

あなたが学びたいと望まない限り、世界はあなたを表すいかなる形象もあなたに教えることは出来ません。 いつの日か、形象の数々が消え去り、あなたは自分がいかなるものであるかを知らないと分かる時がやってきます。

 

封印が解かれて、開かれたこの心へと真理が妨げられることも束縛されることもなく戻ってきます。

 

自己の概念が脇に置かれたところでは、真理がありのままに明らかにされます。

一つひとつの概念が疑われ、疑問視され、いずれも光に耐え得るような前提に基づいてはいないと認識される時、真理は罪悪感から自由で、清浄な自らの聖域に自由に入っていくことが出来ます。

以下の声明以上に、世界が聞くのを恐れているものはありません。

 

私は、私であるものを知らない。

したがって、私が何をしているのか、どこにいるのか、あるいは、どのようにこの世界や自分自身を見たらよいのかも、知らない。

 

しかし、この学びの中で救済が生まれるのです。

 

(以下はエックハルト・トールの引用の訳)

 

「時は来ます。

イメージはすべて過ぎ去り、あなたは見ます。

あなたは自分が何であるかを知りません。 

それはこの開かれた心に、真実が妨げられず、自由に戻ってくるのです。

自己の概念が捨てられたところに、真実がそのまま明らかにされるのです。」

 

 

それが最初の段落です。最初の詩です。

 

簡単にコメントしましょう。

 

イメージはすべて過ぎ去り、あなたは見ます。あなたは自分が何であるかを知りません。

さあ。どういう意味でしょう?

 

講座の他の場所では、古代の表現、「汝自身を知れ」を使っていますが、それは主な講座の目的の一つは、自分自身を知ることを教えてくれることなのです。

 

「汝自身を知れ」。

 

それはどのように関連するでしょうか?

 

時は来ます。

 

あなたは、自分が何であるかを知らないことを本当に理解します。

どのようにして自分自身を知ることができるのでしょうか?

それはこう言っています。

 

時は来ます。あなたは肯定的に、自分が何であるかを知らないでしょう。

 

これを簡単に説明すると、

自分自身を知るには、自分自身についての概念を手放さなければならないということです。そして、概念を手放すと、自分自身についての概念を精神的に手放すと、あなたはもはや自分が誰であるか、あるいは何であるかを知りません。 概念のレベルでは。 そして、概念を手放すと、 自己の概念が捨てられたところに、真実がそのまま明らかにされるのです。

 

ですから、あなたが自分の正体に関する精神的な概念、つまり物語、語り、解釈を放棄すると、 より深い次元の智識が生まれます。 深いとか、高いとかの表現はどうでも良いことです。 あなたが手放した概念的な知識に代わって、より深い次元の智識が生まれます。

そして、そのより深い知覚の次元において、それは概念的ではなく、思考に基づいていない、あなたは誰であるかという真実が、それ自身を明らかにします。

 

それが、インドの教え、ヒンドゥー教の教え、仏教の教え、神秘主義的なキリスト教、スーフィズムのすべての本質です。それはすべて同じです。

 

さあ、この詩を同じテーマで続けましょう。

詩と呼んでいますが、テキストの一部です。

さあ、一瞬静止し、そして、かつて学んだことすべて、抱いた考えすべてを忘れましょう。

そして、物事の意味と目的についての先入観をすべて捨てましょう。

自分の世界観を思い出さないようにしましょう。

 

私たちは知りません。

すべての人についてのイメージをすべて、心から解放し、一掃しましょう。

判断をせず、悪や善について、かつてあなたの心や誰かの心に浮かんできた考えを意識せずにいましょう。 そうすると、今は彼を知らなくても、あなたは彼について学ぶ自由があり、他の人としての彼について学びます。

 

だから、ここのこの節は、あなたたちが思考を基本的に手放す時に来る明晰さと深い悟りのことを指しています。

一瞬静止し、そして、かつて学んだことすべて、抱いた考えすべてを忘れましょう。

そして、物事の意味と目的についての先入観をすべて捨てましょう。

 

すべての人についてのイメージをすべて、心から解放し、一掃しましょう。だから、それは自分自身についての自己概念を手放すことだけではありません。

 

それはまた、他の人々について持っている判断、概念、概念化を手放すことでもあります。

だから、他の人と出会う時も概念なしで、概念的な認識を手放す時、より深い認識が生まれます。

 

判断の無垢さ、とあります。

 

判断とは基本的に、思考を通して物事を解釈することです。すべての判断は思考です。イエスも「裁くな」と言いました。

 

だから、悪や善について、かつてあなたの心や誰かの心に浮かんできた考えを意識せずにいましょう。 今は彼(または彼女)を知らなくても、一度手放すと、あなたは彼について学ぶ自由を得て、彼とあなたについて、より深い人間の存在の現実、本質において、彼(彼女)が誰であるかを学び、そして同じように自分自身を知ります。

 

静かにしましょう。          

 

このルール以外には何も必要ありません。

今日のあなたの練習が、世界の思考を超えて、あなたを持ち上げ、あなたの視界を肉体の目から解放すること。

静かにしましょう。そして、耳を澄ませましょう。  (Only be still and listen.)

単純にこれを行いましょう。

静かにしましょう。

 

そして、自分が何であり、神が何であるかという考えをすべて脇に置きましょう。

世界について学んだ概念すべて。

自分自身について抱いているイメージすべて。

 

https://www.youtube.com/watch?v=grBahEds37U

 


愛を求める呼びかけ

2024-10-25 09:59:25 | 奇跡講座

愛を求める呼びかけ

 

私はYoutubeで活動されている奇跡講座のティーチャーのお話をよく視聴させていただいる。 この方のお話はとても明快でとても参考になっている。

 

先日、この方は奇跡講座に出てくる下記の言葉、「間違いはどれもみな、愛を求める呼びかけ以外ものでは有り得ません。」…T19-3-4 に拠って、自分のところに奇跡講座に疑念を持つ人が議論を吹っかけてきたけれど、それはみな「愛を求める呼びかけ」なのだとして、赦したと言われた。

 

その通りかもしれない。 しかし何か違和感もあった。 

例えば、アパートに住んでいて、その人が自分では最高だと思っている音楽を音量最大にして聴いていたとする。 そこで隣の人がやってきて、「音がうるさいから静かにしろ!」と文句を言ってきた。 その時、「ああ、この人は愛を求めて呼びかけてきたのだ。赦そう。」と思っても、肝心の音量を下げなければ、ただの常識を知らない迷惑な人となってしまう。

 

「愛を求める呼びかけ」であることは間違いないのだろう。 そしてこの隣人が求めている具体的な愛の行動は、隣に住んでいる人を想って音を小さくするということなのだ。

 

もっと単純な話をすると、満員電車の中で誰かに睨まれたとする。 これも「ああ、この人は愛を求めて呼びかけてきたのだ。赦そう。」と思った。 でも実際はその人の足を自分が踏んでいたのだ。これは実に赤面するような話になる。

 

宗教を勧誘する人も、よくこんなことがある。 自分の信念が拒絶された時の心の避難対策として、この人はただ、「愛を求めて叫んでいる」だけなのだと思い込むのだ。 それはその通りだ。 「愛を求めて叫んでいる」のは間違いない。 そして確かにこう思うことで相手を憎しみの対象にしないことはできる。 しかしこの時点で自分は絶対に正しいという信念を持ち、赦しに愛がなければピントが外れてしまう。

 

この愛とはイエスが下記に言うように、相手の身になって具体的に考えることだ。 ただ、彼は間違っているけれど、この世の現象は幻想なんだから、赦してやろうということではないのだ。 

 

「イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。(ルカの福音書10:30~37)

 

これは有名な「善きサマリア人のたとえ」なのだが、興味深いのはこのサマリア人はこの強盗に襲われた人の詳細なシムレーションをしているということだ。 つまりその場だけではなく、その後のことも宿屋のことも、経費についても考えている。 ここに何か愛の具体的な示唆がある。

 

「愛を求めて叫んでいる」なら、まずその「愛」を与えることを考えるのが最も単純な方法でしょう?


愛することしかしないということ。    イスラエル-パレスチナ問題

2024-10-10 14:35:29 | 奇跡講座

愛することしかしないということ。    イスラエル-パレスチナ問題

 

報道ステーションで3人の娘たちを殺されたガザ地区のアブラエーシュという医師が、それでも憎まないと言っているのを見た。ネガティブにネガティブで対応しても解決しない。 復讐を選ぶことで墓穴を掘ることになると言う。

 

一方のイスラエルに住む歴史の教師は、パレスチナの子供が殺されている写真をSNSに掲げ、停戦を訴えたが、当局に拘束され、学校では教え子たちから追い出され、教職を解かれた。彼は裏切り者になった。 (「NHKスペシャル」で放映) 彼も、このガザ地区の医者と同じように「憎しみ」を選択しなかった。

 

「愛」はキリスト教が教えている最も大切な教えだが、ここに人は条件を付けた。 自国の正義に反する者は愛するに値しない。 それはユダヤ教も、イスラム教も同じ。 イスラエルも、合衆国も、他のどの国も強力な軍隊を持ち、核武装をし、国民を守るというお墨付きによって、自国の正義に反することには裁きを下し、戦い、報復する。 

 

でも、この医師は「愛すること」しかしない。 正義の鉄槌を下す人々からすれば、なんとも情けなく、弱弱しく、現実を見ない愚か者か夢想者だ。 

 

しかしもし、神がたった一つ、「愛」だけ、であるとしたら、二元的な愛と憎しみ、善と悪のの壮絶なバトルが続く(これはごく普通の人気映画のテーマだ。)世界に神は関わらないとしたら、神が憎しみや懲罰や攻撃や虐待をまったくこれっぽっちも持たないし、知りもしないとしたら、どうだろう。

 

これに対して、旧約聖書の神は、裁く神だ。 懲罰も、復讐も、破壊も、収奪もみな知っている。 

 

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」…ヨブ記1章13節~21節

 

旧約聖書に登場する神は恐ろしい。バベルの塔、ノアの箱舟、ソドムとゴモラも、人間の行いに神は天罰を下す。 ダビデに力を与え、敵を打ち滅ぼす。皆殺しにする。 偶像崇拝をするユダヤ人にも辛い試練を与える。 世の終わりには裁きを下す。

 

神がそうなのだから、その神を信奉する民もそのようになるのはごく自然なことではないだろうか。 彼らもやっぱり神に代わって正義の鉄槌を下す。 彼らは神の僕(しもべ)だからだ。 このことにほとんどの人は異を唱えない。 今、イスラエルが行っている戦いは、一朝一夕で始められたものではない。 彼らの行為には思想的にユダヤの伝統が重厚な後ろ盾として存在している。 それはユダヤ人の歴史を見ればわかる。 イスラエルはアッシリア、バビロニア、ペルシア、マケドニア、ローマに蹂躙されてきた。 実に紀元前6世紀から国を守るために、彼らの祖先は戦い、死んでいっているのだ。 我々外野が「仲良くしてね。」なんて言っても簡単に受け入れられるものではない。

→「イスラエルパレスチナ問題」 https://www.youtube.com/watch?v=T9L7ExUgEi0

 

ここで脱線するようだが、「正義」について、述べておかなければならない。 「正義」という言葉は、相対化されてしまった。 国同士が戦争を起こすとき、政治家はなんて言うかと言うと、凡そ「国民の命を守らなければならない」ということと、「正義を貫かねばならない」という、この2点だ。我々はお互いの国がこの同じ2点を掲げて、戦いに突き進んでいる様子を見ている。 どちらの正義なのかは勝敗が付くまで相対化され、決着がついた時に「勝てば官軍」、「歴史は強者によって作られる」と言われるように絶対化される。 これらを冷静に見た人はもう「正義」という言葉はただの飾りだと思うようになる。 

 

もし、国として敗北しても、挫けずに「正義」を貫こうとするなら、テロをおこすしかなくなる。 もちろんテロという言葉は勝利した方が使う言葉だ。 彼らにとってはそれは「聖戦」である。

 

でも、本当の「正義」というものが、本来あるはずなのだ。 奇跡のコースはそれを以下のように説明する。 

 

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愛は罪人にとっては理解不可能です。

なぜなら、罪人は、正義は愛から切り離されたものであり、何か他のものを表していると考えているからです。こうして、愛は弱いものであり、復讐は強いものであると知覚されます。なぜなら、審判が愛に味方しなくなった時に愛は敗北したのであり、罰から救い出してもらうには、愛は弱すぎるという事になるからです。しかし、愛がなくなった復讐は、愛から分離し隔離される事で強力になったことになります。愛が正義と活力を奪われ、打つ手もなく救い出す力もなく弱々しくたたずんでいる時、復讐以外に何がその人達を助け、救う事が出来るでしょう。…Text-25-8-8

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愛に満ちた正義が、神の子に受け取る権利があると知っているものを神の子が受け取る時、神は喜びます。

 

なぜなら、愛と正義には何の違いもないからです。その二つが同じものであるからこそ、慈悲が神の右に立ち、神の子に自らの罪を赦す力を与えるのです。

…Text-25-8-9

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本題に戻るが、実は、先述のユダヤ人の歴史の教師の選択にも、旧約聖書の後ろ盾があることを忘れてはならない。 それはまず、下記の箇所がある。 

 

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)

 

「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」(申命記32:35)

 

さらにもっとも注目すべきなのが第2イザヤ書である。

 

なぜ第2というのかというと、このイザヤ書は3人の作者がいるとされ、バビロン捕囚の解放時に書かれた第2イザヤは、他のイザヤとまったく異なるからだ。 第2イザヤは、後にこの箇所はキリスト教によってイエスを予言するものとして重要視されることになる。 

 

その中の第4詩は「苦難の僕」と呼ばれるもので、度重なる自分の民族に降りかかった苦難に対して、一般常識的な対応とは全く違う姿勢を説いた。 その部分を丸ごと下記に掲げる。

 

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わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。

 

見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。

わたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ

道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。

屠り場に引かれる小羊のように毛を刈る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか

わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。

 

彼は不法を働かずその口に偽りもなかったのにその墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。

彼は、子孫が末永く続くのを見る。 主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。…イザヤ53章

 

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岩田靖男という哲学者はこう言う。 「ここには悪業を裁き、悪業に報いる、という発想は全くない。 ただ、苦しみを引き受け続けるだけである。現代のユダヤ人哲学者レヴィナスの思想で言えばそういう受動性の極限の姿が神の栄光の現れである、ということになるだろう。」 (西洋思想史入門) 

 

ただ、苦しみを引き受け続けるだけなのか? もし我々がご利益、家内安全、商売繁盛のために、神を信仰するのなら、その対価を得ることによって完結してしまう。 言わば取引成立ということだ。 それは他人に対しても同じである。 イエスが「お前たちに善くしてもらう者に善くしてたからと言ってお前たちにどんな善意があるのか。 罪人もまた同じものをお返しとして受け取るために罪人に貸すのである。」…ルカ6-33 と言ったことだ。 これをレヴィナスは「善行とは自分自身に還帰しない業」と言う。 人間はこの聖性をこの世に輝かせるために生まれ出た。

 

ユダヤの思想はここまで深まっていたのだ。

 

イエスの生涯はまさにこの「苦難の僕」であった。 

 

イエスの弟子のパウロはこう言った。

「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。」…ローマ人への手紙 12:17-19

 

そしてイエスの生き方はさらに徹底したものだった。 たぶん、イエス自身は「神が復讐をする」なんてことも言わなかったはずだ。 言ったとしたら他のイエスが言った箇所と矛盾を起こしてしまう。 イエスはどこまでも愛の人だった。 パリサイ人たちの間違いを手厳しく指摘し、神殿境内では商売人を追い出したけれど、けっして剣に対して剣で対抗しなかった。 ゲッセマネの園でペテロは捕えに来た大祭司の手下の耳を切って抵抗したが、イエスはそれを止めさせた。そして、結局はむごたらしく殺されてしまった。 これはイエスの父である神が「愛」であり、復讐と裁きの神ではなかったからだ。 ここに第2イザヤ書が反映される。 イエスが生まれた時のエルサレムはもうすでに、入れ代わり立ち代わり、様々な国から蹂躙され、暴力の下にあった。 今と何も変わらない。

 

イエスの有名な言葉、「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」…マタイ 5章39節は、その後、換骨奪胎されてしまった。

 

前述のガザ地区の医者はイエスと同じ、常識外れの弱っちい馬鹿者だ。  ただ、この人はイエスと同じように「愛」しか知ろうとしなかった。 もちろん、彼は「憎しみ」を選ぶこともできた。 しかし選択肢は「愛」と決断した。  この人は「神の国」にしか住まないことを選んだ。 最愛の娘3人を殺されてどれほど苦しんだことだろうか。 それでも決断したのだ。 それは「それでも人生にYESと言う(trotzdem Ja zum Leben sagen)」とフランクルが言ったことに一致する。 フランクルも戦後、ナチの親衛隊だった人ともいっしょに山に登り、カトリックの信者と再婚して、同じユダヤ人から弾劾された。 彼も、このガザ地区の医者と同じように「憎しみ」を選択しなかった。

愛は本質的に拡張していく。 民族の壁を飛び越える。 

そんな生き方もあるのだ。 愛だけ。 愛だけしか見ない生き方もあるのだ。 

もし明らかな犯罪が行われ、被害を受けたとしても、愛が足らなくて、愛が欲しくてやってしまった間違いなのだと理解することもできるのだ。 正義の鉄槌を下す常識人にはこれはまるで馬鹿に見えるかもしれない。 でも馬鹿でいい。 ただ、一つのこと、憎しみの連鎖に入るよりはいい。

 

「あなたが愛だけを望むのなら、他には何も見ないでしょう。」  Text12-8-1


決断のためのルール

2024-10-02 19:48:11 | 奇跡講座
決断のためのルール   2024年9月23日
 
先日の鈴木さんの輪読会ではテキストの第30章「新たなる始まり」 決断のためのルールのところだった。 
そのルールの一番目に「今日、私は自分一人では何も決断しない」が書かれている。
「あなたは依然として自分で心を決めている。そうしておいて、その後で、自分が何をすべきか尋ねるという決断をする。 そして、あなたが聞く答えは最初にあなたが見た通りの問題を解決しないかもしれない。これが恐れにつながる。 なぜなら、それはあなたが知覚するものと矛盾し、そのためあなたは攻撃されたように感じるからである。」
母親と子供が店の前を通る。 そこで子供はアイスを見つけて立ち止まってしまう。 子供は母親に買って,買ってと執拗に迫る。 母親は「ダメ! さっき食べたばっかりでしょ。」と言う。 子供はそれでも泣き叫んで動こうとしない。 母親は強引に子供の手を取り、その店の前を離れる。
よく見かけるシーンだ。  そして大人になった今でも、自分の起きてほしい事柄や体験したい事柄が起きなければおもしろくない。 もし神に願掛けをしていたら、神は自分を裏切った、もしくは自分がその願いを聞いてもらえない原因(罪)があると思うだろう。
上記の例で言えば、子供は信頼し、依存している母親にわけのわからない拒絶をされたと思うだろう。 
テキストにはこれを「攻撃」と書いてある。 
子供には、アイスを食べ過ぎたら、お腹を壊すという危険がわからない。 
我々大人もたいして変わらない。 その願いや計画が子供がお腹を壊すように、自分に悪影響を与えることがわかっていても喫煙や過食をする。  それに自分の思い描いた「いいこと」をしようとしているのに、神にも文句をつけられなようなことだし、他人のためにもなり、自己実現感も得られそうなことなのに、うまくいかないことが多々ある。  または誰も傷つけるわけもなく、損をさせるわけでもないし、贅沢をするわけでもないのに、事が自分の思った通りに進まない。 それどころか手痛い障害を受けたりする。
こんな時、神なんていないのか、いたとしても神は自分に無関心なのか、それとも自分に拒絶される原因(罪)があるからだと思うだろう。
しかしこのいずれの結論も当てはまらないことがある。
ヒトラー政権下でユダヤ人であったフランクルは収容所に入る前から一つの人生の目標があった。 それはフロイドでもなく、アドラーでもない、自分が発見した新しい療法を確立することだった。 それがロゴセラピーだったのだが、彼はこの草稿をコートに縫いこんで隠して持ち込んだ。 ところが、ある時、その草稿も丸裸にされて、奪われてしまった。 その時、生きる意味が失われたと思った。絶望した。 しかし次に支給された囚人服のポケットに、小さな祈りの言葉が書かれた紙片を見つけた。この囚人服を着ていた人が隠したのだろう。(その人は死んでしまったに違いない。) そこには「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」…申命記6-5が書かれてあった。 そしてこれがきっかけとなり、彼はこの奪われた草稿に書かれた理論を最後に残った自分の身体で実践してみたらと神に問いかけられたと思い、Yesと答える。 生きる意味を見出す。 逆に、もし草稿がそのまま残っていたら、死んでいたかもしれない。
ここで我々はこう思うだろう。 とくにひねくれた私などはこう思う。 これはあの偉大な精神科医のフランクルだったからだ。 フランクルは神にとって、そしてこれからの人類にとって特別な存在だったのだ。 だから神はフランクルの命を救ったのだ。 そうなると、フランクルの死んだ父母や、兄や、妻は神にとってそれほど価値がなかったということになる。 もっともこれは神がいればの話だが。
フランクルはこう語った。 有名な言葉だ。
「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。」…「夜と霧」
「人生から何をわれわれはまだ何を期待できるか?」は上の例で言えば、子供がアイスをねだるようなことだ。 つまりアイスが手に入るのは母親次第だ。
それに対し、「人生が何をわれわれから期待しているか?」は決断の主体を自分に取り戻している。 我々がそれにYesというか、Noというかは我々が決めることだ。
フランクルが身ぐるみはがされた時、囚人服のポケットに隠された紙片を見て、別の人なら、そのまま棄ててしまったかもしれない。 何も感じなかったかもしれない。 こんな祈りをしても、結局死んでしまった。 無意味だと思うかもしれない。  しかしそのほんの小さなことにフランクルは意味を見い出した。 つまりフランクルが偉大な精神科医だったからではなく、その小さな紙切れに意味を見い出したからこそ偉大だったのだ。
話を元に戻そう。 
わたしが先日のZOOMでこの母親と子供のたとえ話をしたところ、私の思い描いていたシナリオとはおよそ違う答えが返ってきた。 それはAtsukoさんという方の発言だった。 
Atsukoさんはご自分の昔の経験を話された。 同じようなシチュエーションだったが、幼い娘さんは母親であるAtsukoさんにお菓子(グミ?)をねだった。 でもAtsukoさんは子供の喉にひっかかってしまい、窒息するかもしれないと恐れ、「ひっかかってしまうからダメよ」と娘に言って買ってあげなかった。 その時、娘は「よく噛んで食べるから大丈夫だよ」と答えた。 この時の娘の反応が忘れられないとおっしゃった。
わたしはこの話を聞いて、神が私たちに本当に求めていることが何なのかが一瞬わかったような気がした。
神は私たちに、「我とそれ」ではない、「我と汝」の対話を求めている。 これはマルティン・ブーバーが言ったことだが、ダイナミックで、生き生きしていて、画一的でない交わりだ。 Atsukoさんが娘さんから「よく嚙んで食べるから大丈夫」と言われた時、その娘の成長と思考力に気づいた時の喜び、驚きはどれほどのものだったろう。 我々の神もその時、喜んだに違いない。 その時、神と我々の違いは明確でありながら、同時に対等だったのだ。 
神は「今日、私は自分一人では何も決断しない」と決意した人をこの上もなく愛するだろう。 それはその人が神自身をのけ者にしない、無視しないことの意思表示だからだ。 ニーチェやサルトルのように、神に頼らない。自分のことは自分で決める。 自分の理性が決める。 その代わり責任も自分で取る。それこそ「実存」なのだと言って、神と分離独立したつもりになった人を神は悲しそうに眺めているだろう。 
一方、神と分離せずに、自分自身では何も決断しない、いつも、どんな時も神に従順な生き物、「神のよいこ」とは、まさに人間以外の生き物だ。 犬や猫や鳥や魚や昆虫や樹々は神と分離せず、本能に従って生きているのであり自分自身だけで何も決断しない。 だから私たち人間は時としてそこに崇高さを見出す。 しかし神が最も喜ぶのは、そこではない気がする。
用語の解説の「1心-霊」の最初に出てくる言葉、
「心という言葉は創造エネルギーを供給して霊を活性化させる主体を表すために使われている。 中略 霊とは神がご自身に似せて創造した神の想念である」
我々人間との交わり(対話)の中で、自分に似せた霊(想念)を活かす人間の心と共に創造したい。 それが神の本音なのだろう。 人間の方は泣いたり吠えたり、怒ったり、笑ったり、甘えたり、無視したり、歓喜したり、呪ったり、文句を言ったり、ズルをしたり、様々なことをするだろうが、人間が神と交わりがある限り、全面的に赦し、祝福するだろう。 私たちに罪はないというのは結局そういうことだ。