Northern Bear Spirit

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至福感のこと

2024-10-31 12:33:35 | ノート

至福感のこと

至福感というのは、そのまま幸福感と表現してもいいだろう。 ただ、狭義の意味では、それはスピリチュアルな幸福感ということになる。

つまり、ボーナスをもらったとか、恋人ができたとかというような外的な要因ではない。 自分の内側から泉のように湧いてくるような幸福感のことだ。

スピリチュアルなことに興味がある人でこの至福感を求めない人はいない。 だからスピリチュアルなティーチャーも、その要求に応えて、「至福感」という言葉をよく使うようになる。

そして「私の指導した人は、○○したから何があっても揺るがない至福感を得られるようになった。 だからあなたがたにも、○○をお勧めする。」というようなことを教えてくれる。

それ自体は、全く望ましいことだ。 ティーチャー側に何の問題もない。

しかし、このアドバイスを受け取る側は、知っておかなければならないことがある。   それは「至福感」は、たとえそれが内的な探究であったとしても、結果として生じてくる現象であって、最初から「至福感」を求めると自己破壊的なものとなるということだ。

なぜなら、至福感がいつのまにか、自分の精神的、霊的ステータスの指標になってしまうからだ。 至福感が得られないとき、自分はまだまだダメだと思ってしまう。 いつも、どんな時も自分は揺るぎない至福感に満たされていなければならないと思うようになる。 これは実にマズイ。 罪悪感にまでつながってしまうかも知れない。 それは本来、与えられるもの(恩寵)であって、自分でゲットするものではないのに。

「至福感」は決して、自分で手に入れるようなものではない。 

フランクルはこう言う。

『至高体験もまた結果として起こるものであって、けっして追求されえない。 実際には、人間は快楽や幸福それ自体を求めるのではなく、個人的な意味の充足であれ、人間との出会いであれ、結果として快楽や幸福を引き起こす。』

追い求めるものではなく、それは結果として生じてくる現象なのだ。 健康も良心も同じであって、健康を追い求めることによって病気の危険性を孕むことになり、良心を追い求めることによって、偽善者を生み出す。

悟った、覚醒した、至福感を得た、至高体験をしたと思った人は、その体験を多くの人に知らせたいだろう。 「だれも明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。」…ルカ 11:33 にあるように、愛は拡張していく。 それはごく自然な流れだ。
しかし、それを聞く人は、そこに隠されたトラップに気が付いていなければならない。

ジャック・デリダが言うように、表象としての言葉は絶えず「差延」を生む。 つまり発言者の伝えたいことが、伝達手段として表象された言葉とズレていく。 我々聞く側は、必ずこのズレが生ずることに気が付いていなければならない。  

我々はその人の指ではなく、その指が指し示す月の方を見なければならない。また、禅には自燈明という言い方がある。 ある禅僧が師の指導が終わってそとに出たら暗くなっていた。 そこで師は弟子に灯火を渡してくれたが、渡した直後にその灯火をフッと吹き消してしまった。 この意味が分かるだろうか。

繰り返すが、至福感を体験した人がそのことをアナウンスするのは、聖霊の計らいだと思う。 しかし至福感が究極の目標ではない。

法華経に「三車火宅の譬喩」がある。

火事が起こっている家で自分のおもちゃに夢中になっている子供を家から脱出させるために、子供たちが以前から欲しがっていた3つの車があるぞと呼びかける。 子供たちがそれを欲しがって家の外に出てきたら、それぞれに1つのもっと素晴らしい車を与えるというたとえ話。

3つの車(おもちゃ)は、本質を与えるための、方便なのだ。

また、奇跡講座では、ゲームとして表現される。

「救いは、幸せな子供たちがするゲームであると考えることができます。そのゲームは「彼」の子どもたちを愛している「存在」によってデザインされ、子供たちの恐ろしいおもちゃを楽しいゲームと交換する「存在」によってデザインされたのです。 …W153

この文章も、ゲーム(おもちゃに替わるもの)という言葉によって、方便であることを示唆している。

 


愛を求める呼びかけ

2024-10-25 09:59:25 | 奇跡講座

愛を求める呼びかけ

 

私はYoutubeで活動されている奇跡講座のティーチャーのお話をよく視聴させていただいる。 この方のお話はとても明快でとても参考になっている。

 

先日、この方は奇跡講座に出てくる下記の言葉、「間違いはどれもみな、愛を求める呼びかけ以外ものでは有り得ません。」…T19-3-4 に拠って、自分のところに奇跡講座に疑念を持つ人が議論を吹っかけてきたけれど、それはみな「愛を求める呼びかけ」なのだとして、赦したと言われた。

 

その通りかもしれない。 しかし何か違和感もあった。 

例えば、アパートに住んでいて、その人が自分では最高だと思っている音楽を音量最大にして聴いていたとする。 そこで隣の人がやってきて、「音がうるさいから静かにしろ!」と文句を言ってきた。 その時、「ああ、この人は愛を求めて呼びかけてきたのだ。赦そう。」と思っても、肝心の音量を下げなければ、ただの常識を知らない迷惑な人となってしまう。

 

「愛を求める呼びかけ」であることは間違いないのだろう。 そしてこの隣人が求めている具体的な愛の行動は、隣に住んでいる人を想って音を小さくするということなのだ。

 

もっと単純な話をすると、満員電車の中で誰かに睨まれたとする。 これも「ああ、この人は愛を求めて呼びかけてきたのだ。赦そう。」と思った。 でも実際はその人の足を自分が踏んでいたのだ。これは実に赤面するような話になる。

 

宗教を勧誘する人も、よくこんなことがある。 自分の信念が拒絶された時の心の避難対策として、この人はただ、「愛を求めて叫んでいる」だけなのだと思い込むのだ。 それはその通りだ。 「愛を求めて叫んでいる」のは間違いない。 そして確かにこう思うことで相手を憎しみの対象にしないことはできる。 しかしこの時点で自分は絶対に正しいという信念を持ち、赦しに愛がなければピントが外れてしまう。

 

この愛とはイエスが下記に言うように、相手の身になって具体的に考えることだ。 ただ、彼は間違っているけれど、この世の現象は幻想なんだから、赦してやろうということではないのだ。 

 

「イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。(ルカの福音書10:30~37)

 

これは有名な「善きサマリア人のたとえ」なのだが、興味深いのはこのサマリア人はこの強盗に襲われた人の詳細なシムレーションをしているということだ。 つまりその場だけではなく、その後のことも宿屋のことも、経費についても考えている。 ここに何か愛の具体的な示唆がある。

 

「愛を求めて叫んでいる」なら、まずその「愛」を与えることを考えるのが最も単純な方法でしょう?


「われ思う。 ゆえに、われ在り」の方法的懐疑を意識に適用できるか?

2024-10-24 12:54:48 | ノート

Cogito, ergo sumという言葉は、今やだれでも知っているデカルトの方法序説に出てくる言葉だ。 

この言葉は、この世が幻想であり、夢であり、実在してなかったとしても、その夢を見ている私は存在しているということを言っている。

「何も真ではない」と思っている私が存在しなければ、「何も真ではない」という事態は成立しないのである。 誰か知らぬが、極めて有能で極めて狡猾な欺き手がいて、いつも私を欺いているとすれば、疑いもなく私は存在する。 欺かれるためには、誤りうるためにはわたしは無であることはできないのである。それ故、「私は在る。私は存在する」という命題は私がこれを精神によってとらえるたびごとに必然的に真である。」…第二省察    

どういうことかというと、仮にこう考えてみる。 

とにかく、本当はどうなのかは抜きにして、我々が見るもの、考えるものはすべて偽である、実在していない、物体、形状、運動、場所はすべて幻想であると仮定してみる。 1+1=2というような数式だって、悪意ある霊がそうたぶらかしているかもしれない。 そうやってデカルトは真であるもののみを明確に捉えるために、すべてを疑おうとした。

そうすると、この時点で真だと言えるものはただ一つ、「何も真ではない」ということだけになる。 それではこの「何も真ではない」を成立させているのは何かと言うと、「何も真ではない」と思っている私の存在となる。 つまりそう思っている私の存在が真でなければ、「何も真ではない」が成立しなくなる。 
これが「われ思う。 ゆえに、われ在り」の中身だ。 

この世の中にあるものは、また我々の考えること、感覚することはすべて「真か偽」のどちらかであるとしたら、「偽」と言ったものが「われ在り」を証明するのなら、当然「真」と言ったものも「われ在り」を証明する。

ここでは私と言う存在があっても、思わなければこの関係が成立しないため、存在の証明とはならない。 デカルトはそれを精神による「考えること」と捉えた。 これに対して、身体はいくらでも疑える。 そこで「私は精神である」に帰結した。

科学は特に医学において身体を精神とは別のメカニズム(二元論)と捉えることによって飛躍的に発達した。 その意義は大きいのだが、現代では脳神経科学が発達し、もはや精神と言うのも、脳のメカニズムが作り出した現象だと捉えるのが一般的になってきた。

一方、ギリシャの古代哲学者パルメニデスは、感覚は私たちの周囲の世界が絶えず流動変化する多彩な世界であることをしめしているが、この姿は虚妄であり、真の存在は長時間的な、普遍不動の単一なもの(ワンネス)でなければならないと言った。

この考えが、その後の西洋哲学のベースとなった。 そして感覚に代わるものとして理性がクローズアップされ、それ以降は哲学を哲学たらしめる必要条件となった。 理性による明晰判明な認識が必須となったのだ。

しかし前に見た通り、デカルトの「われ在り」は、提示された命題が騙されたもの、「偽」であったとしても、「われ在り」は成立すると言っている。 

この方法的懐疑をシャンカラから、ニサルガダッタ・マハラジ、仏教にまで影響している「現象世界は幻想、夢である。」に適用するとどうなるだろうか。

デカルトの方法的懐疑が正しいとすれば、現象世界は偽であると懐疑することによって、認識する主体の存在が真であることが確定されるということになる。

ここで言う認識する主体とはシャンカラの非二元論と仏教では異なってくるが、少なくともデカルトが考えた理性や精神ではない。 ニサルガダッタ・マハラジはそれを意識と呼ぶ。 しかし意識とは言っても、厳密に言えば、認識ではない。認識は概念化することであり、その時点で疑わしいものとなるからだ。 概念化する前の「気づき」もしくは「観照」のことだ。

 

ここで一つの図式ができる。     感覚 → 理性 → 意識


塞翁が馬の意味

2024-10-21 11:27:11 | ノート

塞翁が馬の意味   (息子への手紙)


塞翁が馬という中国の話がある。

この故事成語は、中国の古典『淮南子』に由来する。

あらすじは:
中国北辺の砦に住む老人(塞翁)の馬が逃げ出す
数か月後、その馬が良馬を連れて戻ってくる
老人の息子がその馬から落ちて足を折る
戦争が起き、息子は怪我のため徴兵を免れる

あなたと、あなたの就職について話していた時にこの話を思い出していた。 それから「運命」についても話したっけ。

普通、この話は不運に見えたことが幸運につながり、幸運に見えたことが不運を招くという教訓とされている。   つまり我々におこることは、その場で評価することはできないということだ。

それをもう少し深堀するとどうなるか。

ちょうど、あなたが札幌に到着した日、私は病院に行く途中の車から遠く向こうの空に巨大な雲の塊が帯のようになって横たわっているのが見えた。 それを観ていたら、それが少しずつ動いているのに気が付いた。 その時に車内でかかっていたのが、あのゆったりとしたテンポのマーラーの五番アダージェットだった。

この巨大な雲の塊は今、かかっている曲のテンポにシンクロしているようだった。 そう。 まるでその塊は、この音楽に呼応しているようだった。

この時、言葉にならないもの、私の心もいっしょに動いているのがわかる、なんとも不思議な、心地よい、神秘に触れたような気がした。

この頃、坐禅を積み重ねていく中で、この諸行無常ということ。 あらゆるものが動いており、一時も止まらないこと。原子も、分子も、山も、海も、地球も、宇宙も。 今、この瞬間もすべてが動いている。 一瞬一瞬が過ぎ去っていくという強烈な実感がある。 時間がそこで生まれる。

明日のために今があるのではない。 過去に引きずられて今があるのでもない。 「Power of Now」という言葉をこれほど身近に感じたことはない。 その瞬間は逆に「運命」という言葉が希薄になる。 過去も未来も今の瞬間、更新されていく。

あらゆるものが変化していく。 「塞翁が馬」の本当の意味はここにある。 私の個別のエゴは、その時その時、「ヤッター!」とか、「サイアク!」とか勝手に反応しているが、この諸行無常の本質を知ると、それはあんまり意味のないことが分かってくる。

ワンネス、一なるものは変化しないが、それに対して私たちがいると思っているこの現象世界は絶えず変化している。  

ギリシャの古代哲学者パルメニデスは、感覚は私たちの周囲の世界が絶えず流動変化する多彩な世界であることをしめしているが、この姿は虚妄であり、真の存在は長時間的な、普遍不動の単一なもの(ワンネス)でなければならないと言った。

この考えが、その後の西洋哲学のベースとなった。 それは確かに理性をツールにしない点で異なっていたのだが、東洋哲学にも共通している。 ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジのようなインドのグルや仏教にも通じている。 いずれにせよ、感覚でとらえられるこの世の現象は虚妄であることに異議を唱える者は多くはない。

ところが、目の前に繰り広げられている現象が虚妄、夢のようなものだとは認めても、これに替る「永遠不滅、普遍不動の単一のもの」なんていうものはどこを探しても見つからない。 それが現状ではないだろうか。 

そこで、私たちはこのワンネスのイメージを勝手に作り上げてこの「ワンネス」すら、夢想している。右脳が優先すれば、脳科学的にそれが得られるなんて聞くとすぐに飛びついてしまう。 我々はこのような「科学」という言葉と還元主義的な発想を容易く受け入れる。

私たちは煩悩と苦しみに満ち、一時も安らぎを得ることができない現世の中で、様々なおもちゃを見つけて、様々なインセンティブを与えられ、売りつけられて、最期に病院で死んでいくまで、その現状を感覚を愉しませるおもちゃで紛らわせて生きている。

それらは、すべて一時も留まらない、諸行無常の、絶えず生成消滅していく夢のようなものだ。 夢であることに関してそれは快も不快も喜びも悲しみも変わらない。 かと言って、これに替るものは何も見つからない。 もちろん、脳出血で脳の一部が損壊されたり、幻覚剤や麻薬を打ったり、オーム真理教のように真っ暗な部屋の中に空腹の状態で長時間閉じ込められたり、ヒマラヤのヨーギのように極限状態にまで追いつめていったりすれば、何か超自然的なものが経験できるかもしれないけれど、それらはすでに2000年以上前にブッダが絶対に遠ざけたことだった。

それではどうすればよいのだろうか。

目の前にあるリンゴは梨に変わることも、消えてしまうこともない。 リンゴはリンゴのまま。すべては通常と変わらない。しかしそれは我々の日常的な世界観や先入観に当てはめてしまっているからであって、実は変わらないと思っているのは我々の脳がそれを概念化してしまったからだ。 

これをフッサールは超越論的還元によって、ひっくり返した。 それはセザンヌが目の前にあるリンゴひとつでパリを驚かせたいと言ったように、リンゴが彼の中で日常的な世界観の中のリンゴから全く別の物として現象された瞬間だ。

しかし、何も我々はセザンヌのように物を見る必要はない。 必要なのはだだ「よく見る」ということだけだ。 あらゆる日常的な世界観や先入観、分析、言語、概念化、信念を外せば、そこに一時も止まらない、変化し続ける「もの自体」があるだけだ。 サルトルにはそれが「嘔吐」を催すものに映ったのかもしれない。 

しかし、この「すべてが刻々と変化していく」ということを見極めていくことによって、逆説的だが、「永遠不滅、普遍不動の単一のもの」が見えてくる。 なぜなら、「すべてが刻々と変化していくもの」を見ているのは「永遠不滅、普遍不動の単一のもの」であるからだ。 もし見ている側も動いているのなら、それは見られる側にまわってしまう。

これがいわゆる「意識(気づき)」なのだ。 この意識は何かハイヤーセルフのようなものをイメージしてはいけない。 この意識はけっして「私」ではない。 生まれて刻々と変化して、最後には死滅するこの「私」が永遠不滅、普遍不動の単一のものであるはずがない。
「私」というのは、あなたが言及したヒュームの言ったこと、「人間は知覚の束である」と大差がないのかもしれない。 

そしてこれとは全く別の「意識」が私を含むすべての生物の単一の気づきとして在る。