今日は大晦日、
大晦日を何度も重ねていますが、
18年前の今日は、
予想だにしない大晦日を迎えました。
30日の夕方、
両親とは別に暮らしていた私に母から電話がありました。
「おとさんが、具合の悪かごたるけん。」と
「ほんなら私に電話するより先に救急車ば呼ばんね」と
言いました。
たいしたことはないだろうと思いながらも、
すぐに実家に向かいました
しばらく車を走らせると、
私の車の前を救急車が走り抜けて行きます。
救急車が実家に向かっているのは感といいますか、
分かりました。
家に着きますと、感どおり救急車が停まっていました。
父は腹を押さえていました。
父は自分の息子が医者なのに、
病院に行くことを嫌がっておりました。
その父が救急車を呼ぶとは、余程のことだったのでしょう。
ですが気丈に自分の足で救急車に乗りました。
母は脳出血の後遺症で動けませんでしたので、
私が付き添いました。
すぐに地元の病院に運んでもらったのですが、
隣県の巨大な病院に転送になり・・・・・
そこの病院には次々と救急車が入ってきます。
日にちも災いしました。
その病院のある街は飲食店が立ち並ぶ所です。
酒の上での喧嘩で血を出している人や
父と同じように苦しみに耐えている人、
子供の泣き声や大人の悲痛な叫び声 等など、
たくさんの患者が廊下で、ずらっと順番を待っているのです
「痛かなぁ。」と言う父
ですが、待ち時間が長過ぎました。
やっと順番がきた時は、痛みに加え寒さを訴えていました。
一旦、私も処置室に入りましたが、退室するように言われ、
寒かったのでしょうが、病院の外に出て時間を過ごしておりました。
日付は、とうに31日に変わっており、
家に残している母親が心配になり、ちょっと帰宅したいことを
病院の関係者の方に伝えたところ、
医師が出て来て「重篤な状態ですから帰宅は・・・・・」
びっくりです
医師が止めるのを無視して処置室に入り込みました。
そこで見たのは、
別の若い医師が父に心臓マッサージをしている姿でした。
私は、心電図のモニターと父の様子を見ていたのですが、
教授とやらが言いました。「もういいよ。」と
父の顔色がすうっと 見る見る変わりました。
心電図は、まだ動いていましたので、
「もういいよ とはどういうことですか」と
声をあげました。
「だから入れたらいかんと言ってるだろうが・・・・・」と
いった声も聞こえました。
父は検査の段階で死亡となったのです。
31日、午前2時
死因が分からないのです。
その時は涙も出ませんでした。ただ呆然と立ち尽くして
それからどのくらいの時間が経っていたのか
心臓マッサージをしていた医師が言いました。
「解剖をさせて欲しいのですが、
後で親族間でもめることがあるので・・・・」と
「いいえ、もめるようなことにはしませんから
死因を突き止めてください。」と応えました。
まだまだ、続きを書きたいのですが、
読んでくださっている皆様には関心のないことでしょうから、
このあたりで止めておきましょう。
父が生きている間に趣味だった絵画の個展を開かせたかったです。
以下、父の作品の一部です。
ガラス張りの額縁ですので、ちょっと見難いかと思いますが
< 墨絵 >
< 油絵 >
墓は遠方ですので、参りには行きません。
父にピアノを聴いてもらうことで、私なりの供養にしました。
ショパンの『ノクターン遺作・・・』です。
私がUPしたら笑い者になりますので
瀬田敦子さんの演奏で
ショパン ノクターン遺作 嬰ハ短調
今日は、だらだらと長い文になりましたが、
大晦日は、私にとっては特別な日です。
大晦日を何度も重ねていますが、
18年前の今日は、
予想だにしない大晦日を迎えました。
30日の夕方、
両親とは別に暮らしていた私に母から電話がありました。
「おとさんが、具合の悪かごたるけん。」と
「ほんなら私に電話するより先に救急車ば呼ばんね」と
言いました。
たいしたことはないだろうと思いながらも、
すぐに実家に向かいました
しばらく車を走らせると、
私の車の前を救急車が走り抜けて行きます。
救急車が実家に向かっているのは感といいますか、
分かりました。
家に着きますと、感どおり救急車が停まっていました。
父は腹を押さえていました。
父は自分の息子が医者なのに、
病院に行くことを嫌がっておりました。
その父が救急車を呼ぶとは、余程のことだったのでしょう。
ですが気丈に自分の足で救急車に乗りました。
母は脳出血の後遺症で動けませんでしたので、
私が付き添いました。
すぐに地元の病院に運んでもらったのですが、
隣県の巨大な病院に転送になり・・・・・
そこの病院には次々と救急車が入ってきます。
日にちも災いしました。
その病院のある街は飲食店が立ち並ぶ所です。
酒の上での喧嘩で血を出している人や
父と同じように苦しみに耐えている人、
子供の泣き声や大人の悲痛な叫び声 等など、
たくさんの患者が廊下で、ずらっと順番を待っているのです
「痛かなぁ。」と言う父
ですが、待ち時間が長過ぎました。
やっと順番がきた時は、痛みに加え寒さを訴えていました。
一旦、私も処置室に入りましたが、退室するように言われ、
寒かったのでしょうが、病院の外に出て時間を過ごしておりました。
日付は、とうに31日に変わっており、
家に残している母親が心配になり、ちょっと帰宅したいことを
病院の関係者の方に伝えたところ、
医師が出て来て「重篤な状態ですから帰宅は・・・・・」
びっくりです
医師が止めるのを無視して処置室に入り込みました。
そこで見たのは、
別の若い医師が父に心臓マッサージをしている姿でした。
私は、心電図のモニターと父の様子を見ていたのですが、
教授とやらが言いました。「もういいよ。」と
父の顔色がすうっと 見る見る変わりました。
心電図は、まだ動いていましたので、
「もういいよ とはどういうことですか」と
声をあげました。
「だから入れたらいかんと言ってるだろうが・・・・・」と
いった声も聞こえました。
父は検査の段階で死亡となったのです。
31日、午前2時
死因が分からないのです。
その時は涙も出ませんでした。ただ呆然と立ち尽くして
それからどのくらいの時間が経っていたのか
心臓マッサージをしていた医師が言いました。
「解剖をさせて欲しいのですが、
後で親族間でもめることがあるので・・・・」と
「いいえ、もめるようなことにはしませんから
死因を突き止めてください。」と応えました。
まだまだ、続きを書きたいのですが、
読んでくださっている皆様には関心のないことでしょうから、
このあたりで止めておきましょう。
父が生きている間に趣味だった絵画の個展を開かせたかったです。
以下、父の作品の一部です。
ガラス張りの額縁ですので、ちょっと見難いかと思いますが
< 墨絵 >
< 油絵 >
墓は遠方ですので、参りには行きません。
父にピアノを聴いてもらうことで、私なりの供養にしました。
ショパンの『ノクターン遺作・・・』です。
私がUPしたら笑い者になりますので
瀬田敦子さんの演奏で
ショパン ノクターン遺作 嬰ハ短調
今日は、だらだらと長い文になりましたが、
大晦日は、私にとっては特別な日です。