昨日の続きです。
地蔵寺を訪ねるのに、なぜ、志度浦に行ったか、と言うと、
地蔵寺と縁がある志度寺にこんな縁起絵が伝わっているからです。
鎌倉時代後期に描かれたと言われる「御衣木縁起絵」。
この絵の下3分の1に描かれているのが志度浦で、
この海に流れてきた霊木を、この辺りに住んでいた凡薗子という
尼さんが引き上げ、仏師に観音様を彫らせ、小さなお堂を建てたのが
志度寺の始まりだというお話。
書けば長くなりますが、鎌倉時代後期に描かれたというのに、
琵琶湖~宇治川~巨椋池~淀川~志度浦という広い地域の
地形の特徴をよく捉えて、一枚の絵に上手に収めていることに
感心してしまいます。
そして、薗子尼が住んでいた所が後に地蔵寺になったので、
地蔵寺は志度寺の奥の院と言われています。
志度浦で、この絵の説明をするのが、この日の私の最初の試練なのでした。
その後、志度寺でお参りをして
地蔵寺にUターンです。
途中で、志度城に寄って、また私のガイド😅
室町時代、管領細川氏が讃岐の守護でしたが、
細川氏配下の安富盛長が、
15世紀半ばに津田に雨瀧城を築いて、志度に出城を置いたのが
志度城の始まりです。
応仁の乱の時、細川氏は東軍の大将でしたから、
讃岐の武将たちも大活躍したらしいですが、
とにかく戦いに明け暮れた時代で、
1583年、長宗我部元親が雨瀧城を落としたとき、志度城も落城したようです。
そのころ、志度城に居たのが、摂津から来た多田和泉守で、多田家は、
領主が
安富→生駒→松平
と変わっても、代々、村の役人を務め、
五代目権右衛門の時に、長尾の豪族、寒川氏の娘と結婚したときに
寒川性を名乗るようになりました。
そして、その息子の寒川金兵衛と言う人が、たいへん信仰心の厚い人で
多くのお寺に寄進し、地蔵寺の再建にも貢献しました。
また、当時の地蔵寺の住職、蜜英さんは権右衛門の五男で、金兵衛さんの異母兄弟です。
こんなふうに、地蔵寺に行く前に、盛りだくさんの内容で、
さらに途中で、ゲスト参加の方から町のことをガイドしていただくという
ラッキーもあり。
書くことがたくさんありすぎるので、
地蔵寺のご紹介はまた明日。😅
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