天明2年12月13日 (江戸中期・田沼意次の時代 西暦1783年1月15日)
伊勢の商人 「大黒屋光太夫(32)」 は、三重県鈴鹿市の白子浦から江戸に向け船出。
当時 白子浦は「本能寺の変」の折、徳川家康が岡崎へ逃げ延びる手助けをしたとして
幕府から目をかけられ、伊勢湾屈指の港として繁栄していました。
積荷は紀州藩が江戸藩邸に送る米、彦根藩が江戸藩邸で使用する近江畳表
近江畳表についてはこちら→http://blog.ohhagi.com/archive/433
江戸日本橋大伝馬町の問屋に送る伊勢木綿などです。
途中 遠州灘で遭難 7ヶ月の漂流ののち、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着する。
(太平洋戦争での激戦地、アッツ島、キスカ島の東南東に位置する)
ここでラッコやアザラシの毛皮を獲るロシア商人「ニビジモフ」と出会い、ロシア語を習得。
飢餓と酷寒で多くの仲間を失うが、寛政元年(1789) ようやくイルクーツクに到着。
滞在中 何度も帰国願書を出すが、願いかなわず2年が過ぎる。
寛政3年、帰国を皇帝に直訴するため、ペテルブルグ大学教授 「キリル・ラクスマン」とともに
首都ペテルブルグへ上り、帰国願書を皇帝に提出。
まもなく当時のロシア皇帝 「エカテリーナⅡ世」への謁見が実現し、光太夫は美しいロシア語で
漂流の辛苦を語り、帰国の許可を得ることに成功する。
女帝に拝謁したところは→エカテリーナ宮殿
寛政4年、イルクーツクに戻りロシア通商使節団と共に「エカテリーナ号」で北海道の根室に帰国、
これが最初の黒船来航らしい。(ペリーの艦隊はこれから60年ほど後に浦賀に来航)
さらに10年後の享和2年(1802) 伊勢の国への帰国を許され、40日間滞在。
文政11年(1828) 光太夫(78) 番町薬草園内で老衰死、江戸本郷の興安寺に葬られる。
平成3年4月16日 「ゴルバチョフ大統領」 が訪日されたときのスピーチに、大黒屋光太夫の名前が出て、
宮中晩餐会出席者・報道関係者等から、関係ある自治体に問い合わせが殺到したことがあるそうです。
ゴルバチョフ大統領のスピーチの一部
「2世紀前の 大黒屋光太夫 から始まって日本人は生き生きと関心をもってロシアについて過去を書き、
そして現在も書いている事、すべてが私たちには貴重なものであります」
平成4年には、井上靖 著 おろしや国酔夢譚 が映画化されました。
白子(しろこ)港には、おろしや国酔夢譚 (おろしやこくすいむたん) の著者 井上靖 の詩碑
「大黒屋光太夫・讃」 と鈴鹿の彫刻家・三村力 制作のモニュメント「刻の軌跡」があります。
郷里では全員死亡したと思い、三回忌にあたる天明4年に供養碑が建てられました。
参考資料 吉村 昭著 大黒屋光太夫
鈴鹿市 大黒屋光太夫記念館
若松地区市民センター横の開国曙光碑(碑文の内容は大黒屋光太夫の伝記)
題字 「開国曙光」 は大正7年当時の貴族院議長 徳川家達 公爵の書です。