8月9 日
晴れ。朝6時の屋外の気温は30℃であった。早朝の時事放談は御厨貴氏の司会の下に、野中氏と半道氏とが安保関連法案、8月14日に発表されるという安倍総理による戦後70年談話、などに関連する討論を行なっていた。
今日、8月9日はアメリカ軍による長崎に対する原爆投下がなわれた日であり、また、ソ連が日本との中立条約を一方的に破棄して満州、樺太、千島列島などに攻め込んできた日である。
70年前の今日、旧制中学校4年生だった私は学徒動員されて通っていた飛行機製作工場で、大日本帝国海軍の夜間爆撃機 銀河 の左主翼のフラップの製作作業を行なうために工場に出勤した。昭和20年の8月の頃には工場に対する部品の供給が遅れ気味になっていて、この日も作業に必要な部品が足りなかったために、手待ちの状態となっていた。それで、学徒動員されていた私達中学校の生徒達は工場内の小さな空き部屋で、工場の監督者の話を聞いて過ごしていた。
その日の夕方に家に帰って聞いたラジオニュースで長崎に原子爆弾が投下されたということや、ソ連が満州、樺太、千島列島などに攻め込んできたことなどを知り、もう日本は駄目かも知れないな、という思いがこみ上げてきたのだった。
そして、当時15歳であった中学生の自分も間もなくソ連の戦車を爆破するための特攻兵として蛸壺の中で爆薬とともに昇天する運命にあるのかな~、と夕空を見上げたのだった。現在の15歳の子供達には私の15歳の頃の前記のような状況は理解できないだろう、と思う。
ふと、今日は郷里の生家の隣にある観音堂の祭礼の日であることに気付き、遠い子供の頃の祭礼の情景を懐かしく思い出した。生家のある東北地方の郷里の街の8月9日の頃は朝夕に涼風が吹いていたものだったが、昨日の妹からの電話で今年はとんでもなく暑い日が続いているので、郷里の名産品の だだちゃ豆 の生育状態もいつもの年よりも早い、とも知らされているので、暑い雰囲気での祭礼は大変だな~、と思ったりした。
この観音堂のあるお寺は旧制中学校を私と同年同日に卒業した藤沢修平の小説中にも出てくる寺なのだが、終戦の日の翌日(昭和20年8月16日)の夜に、この観音堂のあるお寺の住職のSu氏が、当時、お寺のある町内に住んでいた石原莞爾中将(満州事変を起こしたといわれている関東軍参謀だった人)を呼んで、石原氏に町内会の人達へ敗戦後の身の処し方の話をして貰ったのだが、話を聞きに行った私と兄とは石原莞爾氏からの敗戦国の民のみじめな状態、先勝国の進駐軍からの身の守り方などの話を聞いて、嫌~な気分になって家に帰ってきたことや、石原莞爾氏の話を聞いているうちに、日本軍は占領地で相当に悪いことをしたのではあるまいか? と嫌~な感じをうけた70年前のことも思い出した。
昼食に赤飯を炊き郷里の観音堂の祭礼のことを思い出しながら皆で食べた。
ふるさとの 祭礼偲び お赤飯 徘(徊)人 okinatchi
晴れ。朝6時の屋外の気温は30℃であった。早朝の時事放談は御厨貴氏の司会の下に、野中氏と半道氏とが安保関連法案、8月14日に発表されるという安倍総理による戦後70年談話、などに関連する討論を行なっていた。
今日、8月9日はアメリカ軍による長崎に対する原爆投下がなわれた日であり、また、ソ連が日本との中立条約を一方的に破棄して満州、樺太、千島列島などに攻め込んできた日である。
70年前の今日、旧制中学校4年生だった私は学徒動員されて通っていた飛行機製作工場で、大日本帝国海軍の夜間爆撃機 銀河 の左主翼のフラップの製作作業を行なうために工場に出勤した。昭和20年の8月の頃には工場に対する部品の供給が遅れ気味になっていて、この日も作業に必要な部品が足りなかったために、手待ちの状態となっていた。それで、学徒動員されていた私達中学校の生徒達は工場内の小さな空き部屋で、工場の監督者の話を聞いて過ごしていた。
その日の夕方に家に帰って聞いたラジオニュースで長崎に原子爆弾が投下されたということや、ソ連が満州、樺太、千島列島などに攻め込んできたことなどを知り、もう日本は駄目かも知れないな、という思いがこみ上げてきたのだった。
そして、当時15歳であった中学生の自分も間もなくソ連の戦車を爆破するための特攻兵として蛸壺の中で爆薬とともに昇天する運命にあるのかな~、と夕空を見上げたのだった。現在の15歳の子供達には私の15歳の頃の前記のような状況は理解できないだろう、と思う。
ふと、今日は郷里の生家の隣にある観音堂の祭礼の日であることに気付き、遠い子供の頃の祭礼の情景を懐かしく思い出した。生家のある東北地方の郷里の街の8月9日の頃は朝夕に涼風が吹いていたものだったが、昨日の妹からの電話で今年はとんでもなく暑い日が続いているので、郷里の名産品の だだちゃ豆 の生育状態もいつもの年よりも早い、とも知らされているので、暑い雰囲気での祭礼は大変だな~、と思ったりした。
この観音堂のあるお寺は旧制中学校を私と同年同日に卒業した藤沢修平の小説中にも出てくる寺なのだが、終戦の日の翌日(昭和20年8月16日)の夜に、この観音堂のあるお寺の住職のSu氏が、当時、お寺のある町内に住んでいた石原莞爾中将(満州事変を起こしたといわれている関東軍参謀だった人)を呼んで、石原氏に町内会の人達へ敗戦後の身の処し方の話をして貰ったのだが、話を聞きに行った私と兄とは石原莞爾氏からの敗戦国の民のみじめな状態、先勝国の進駐軍からの身の守り方などの話を聞いて、嫌~な気分になって家に帰ってきたことや、石原莞爾氏の話を聞いているうちに、日本軍は占領地で相当に悪いことをしたのではあるまいか? と嫌~な感じをうけた70年前のことも思い出した。
昼食に赤飯を炊き郷里の観音堂の祭礼のことを思い出しながら皆で食べた。
ふるさとの 祭礼偲び お赤飯 徘(徊)人 okinatchi