8月16日
曇り、晴れ。朝6時の屋外の気温は27℃であった。新聞で先日の安倍総理の 70年談話 についての各国の反応に関する記事を読んだら、案の定、中国、韓国の反応は非好意的なものであった。
先日のTV番組で日本軍による重慶爆撃のことがアメリカによる東京その他の都市に対する無差別爆撃やナチスドイツによるオランダのアムステルダムに対する無差別爆撃と同列に報じられていたのを見て、アメリカ空軍が東京大空襲によって一晩で10万人の非戦闘員を焼き殺したことを極悪非道な鬼畜の仕業と思っていたのに、旧日本軍も中国の非戦闘員に対して極悪非な所業を働いていたり、ナチスドイツもオランダの非戦闘員に対して極悪非道な所業を働いていたことを改めて認識させられ、戦争というものは絶対にしてはならないものだということを深く心に刻みこまされた。
ところで、韓国について考えると、この国はどう考えても変な国のように思えて仕方ない。朴クネ大統領が恨みは1000年も… などと言っていたが、数百年前に支那大陸の元の手先になって朝鮮の人達が日本に攻めてきたときに、日本領の対馬の住人の全員を虐殺したことについて、朴クネ大統領は日本に悪かった許して下さい、とでも言うつもりがあるのだろうか? と思ってしまう。
日本はロシアや支那などが朝鮮半島に進出するのを防いで朝鮮半島の国を併合して後、大東亜戦争が終わったときまでの35年間に、朝鮮半島の近代化を図り、東洋一の発電所、硫安工場などを作ったり、韓国が、所謂、朝鮮戦争によって壊滅的打撃を受け、1人当たりの国民所得が世界最貧国グループ であったのが、日韓基本条約を契機とした日本からの経済・ 技術援助を要因に漢江の奇跡と呼ばれる成長を遂げたなどのことは、韓国の学校では教えておらず、学校では子供のころから、日本を敵視するような教育を行なっているとのことなどが聞こえてくると、どうしようもなく、悲しくも悔しいを思いが湧き上がってくるのだ。
それにしても、日本が占領下でオキュパイド ジャパンの時代に日本の竹島を盗みとり、その島を独島と称して、子供のころから独島は韓国のもの、などと教え込んでいたりしていることを知るにつけ、韓国という国はまともな国とは思えなくなる。
私の故郷のY県T市は満州事変の計画立案者とされている石原莞爾氏が生まれ育った地であり、この石原莞爾氏は陸軍幼年学校に進学するまで、私が通学していたY県立T中学校に在学していたのである。前記の石原莞爾氏は東条英機氏から斥けられて退役軍人にされ、この時期には生まれ故郷のY県T市に住んでいて東亜連盟という団体を主宰しており、石原莞爾氏は戦争終結時には私の住居と同じT町内に住んでいた。
私が住んでいたT市T町の町内会長Sさんは、日本国の敗戦という重大事の勃発に際し、同じT町内に住んでいた石原莞爾氏に「日本の敗戦に伴って日本国民はどのように対処すべきか?」などについての講演を依頼したところ、しぶしぶ承諾してくれたというので、70年前の8月16日の夜にT町内のR寺の本堂で講演会を開くことになったという回覧板をT町内に廻した。
私と兄とは石原莞爾氏の講演を聞きにR寺の本堂に行った。その夜の石原莞爾氏の講演は主として東条英機氏を攻撃する内容のものであったが、また石原莞爾氏は持論が世界最終戦論なので、当然のことながらアメリカとの最終戦争のことも話にでていたし、さらには戦争に負けた国の国民は戦勝国からどんなに酷い仕打ちを受けても耐え忍ばなければならない、という話もあり、聞いている内に段々と不安になり暗い気持ちになって重い気持ちで家路についたのであった。
あの日から早や70年も過ぎた今の日本国は、アメリカ軍の占領下でアメリカ製の新憲法を押しつけられたのを始めとして、アメリカの気の長い半世紀以上にわたる日本の弱体化政策の成果として古き良き日本が姿を消し、現在の日本国へと変わってしまったのである、などと考えながら今日は一日中寝たり起きたりのグータラ生活をしてしまった。
寝ては起き 起きては眠る 夏休み 徘(徊)人 okinatchi
曇り、晴れ。朝6時の屋外の気温は27℃であった。新聞で先日の安倍総理の 70年談話 についての各国の反応に関する記事を読んだら、案の定、中国、韓国の反応は非好意的なものであった。
先日のTV番組で日本軍による重慶爆撃のことがアメリカによる東京その他の都市に対する無差別爆撃やナチスドイツによるオランダのアムステルダムに対する無差別爆撃と同列に報じられていたのを見て、アメリカ空軍が東京大空襲によって一晩で10万人の非戦闘員を焼き殺したことを極悪非道な鬼畜の仕業と思っていたのに、旧日本軍も中国の非戦闘員に対して極悪非な所業を働いていたり、ナチスドイツもオランダの非戦闘員に対して極悪非道な所業を働いていたことを改めて認識させられ、戦争というものは絶対にしてはならないものだということを深く心に刻みこまされた。
ところで、韓国について考えると、この国はどう考えても変な国のように思えて仕方ない。朴クネ大統領が恨みは1000年も… などと言っていたが、数百年前に支那大陸の元の手先になって朝鮮の人達が日本に攻めてきたときに、日本領の対馬の住人の全員を虐殺したことについて、朴クネ大統領は日本に悪かった許して下さい、とでも言うつもりがあるのだろうか? と思ってしまう。
日本はロシアや支那などが朝鮮半島に進出するのを防いで朝鮮半島の国を併合して後、大東亜戦争が終わったときまでの35年間に、朝鮮半島の近代化を図り、東洋一の発電所、硫安工場などを作ったり、韓国が、所謂、朝鮮戦争によって壊滅的打撃を受け、1人当たりの国民所得が世界最貧国グループ であったのが、日韓基本条約を契機とした日本からの経済・ 技術援助を要因に漢江の奇跡と呼ばれる成長を遂げたなどのことは、韓国の学校では教えておらず、学校では子供のころから、日本を敵視するような教育を行なっているとのことなどが聞こえてくると、どうしようもなく、悲しくも悔しいを思いが湧き上がってくるのだ。
それにしても、日本が占領下でオキュパイド ジャパンの時代に日本の竹島を盗みとり、その島を独島と称して、子供のころから独島は韓国のもの、などと教え込んでいたりしていることを知るにつけ、韓国という国はまともな国とは思えなくなる。
私の故郷のY県T市は満州事変の計画立案者とされている石原莞爾氏が生まれ育った地であり、この石原莞爾氏は陸軍幼年学校に進学するまで、私が通学していたY県立T中学校に在学していたのである。前記の石原莞爾氏は東条英機氏から斥けられて退役軍人にされ、この時期には生まれ故郷のY県T市に住んでいて東亜連盟という団体を主宰しており、石原莞爾氏は戦争終結時には私の住居と同じT町内に住んでいた。
私が住んでいたT市T町の町内会長Sさんは、日本国の敗戦という重大事の勃発に際し、同じT町内に住んでいた石原莞爾氏に「日本の敗戦に伴って日本国民はどのように対処すべきか?」などについての講演を依頼したところ、しぶしぶ承諾してくれたというので、70年前の8月16日の夜にT町内のR寺の本堂で講演会を開くことになったという回覧板をT町内に廻した。
私と兄とは石原莞爾氏の講演を聞きにR寺の本堂に行った。その夜の石原莞爾氏の講演は主として東条英機氏を攻撃する内容のものであったが、また石原莞爾氏は持論が世界最終戦論なので、当然のことながらアメリカとの最終戦争のことも話にでていたし、さらには戦争に負けた国の国民は戦勝国からどんなに酷い仕打ちを受けても耐え忍ばなければならない、という話もあり、聞いている内に段々と不安になり暗い気持ちになって重い気持ちで家路についたのであった。
あの日から早や70年も過ぎた今の日本国は、アメリカ軍の占領下でアメリカ製の新憲法を押しつけられたのを始めとして、アメリカの気の長い半世紀以上にわたる日本の弱体化政策の成果として古き良き日本が姿を消し、現在の日本国へと変わってしまったのである、などと考えながら今日は一日中寝たり起きたりのグータラ生活をしてしまった。
寝ては起き 起きては眠る 夏休み 徘(徊)人 okinatchi