2月11日
晴れ。 午前6時の外部気温は2℃であった。起床後直ぐに住居前を約1時間程歩いた。歩きながら聞いた携帯ラジオで今日が国民の祝日の建国記念の日であることを報じていた。小学生の頃の紀元節(現在の建国記念の日)の想い出は、吹雪の中を尋常小学校に登校し、火の気の無い雨天体操場で寒さに震えながら紀元節の式典に参加し、校長先生の「チン オモウニ ワガ コウソコウソウ クニヲハジムルコト コウエンニ …」から始まる教育勅語を、早く終わらないかな~、などと思いながら頭を垂れて拝聴し、「クモニ ソビユル タカチホノ タカネオロシニ クサモキモ ナビキフシケン …」から始まる紀元節の奉祝歌を歌い、火の気のない教室に戻って担任の先生から紀元節の話を聞き、紅白の大福餅を貰ってから、友達と連れだって吹雪のなかを家に帰り、貰って来た大福餅を皆で分けて食べたことである。
子供の頃に過ごしていた東北地方の故郷は吹雪の激しいことで有名な地方であり、2月の極寒期の吹雪は呼吸が出来ないほどの激しいも場合もあり、尋常小学校に通学していた6年間で猛烈な吹雪の日であった紀元節は1度だけでったと記憶している。
今日はTo子さんの誕生日とされている日なので朝To子さんに誕生日のお祝いの言葉を述べた。To子さんの誕生日とされている2月11日はTo子さんの父親が市役所に提出した出生届に誕生日として記入した日付であり、実際の誕生日は2月11日よりも以前なのだそうである。80年前の日本ではこのようなことは普通に行われていたらしく、例えば私の兄Noは昭和元年に生まれたのだそうだが、昭和元年は1週間しか無かったということで、父親が兄の誕生日を昭和2年1月初旬の日付として出生届を出したということも聞いているのである。
今日の誕生日を迎えて80歳になったTo子さんと一緒に午前9時半過ぎに家を出て、都営地下鉄船堀駅近くで行なわれる予定の催しに出掛けることになった。催しというのは私達の故郷のYa県Tu市が毎年船堀駅近くで実施しているもので、郷里の厳寒時の郷土料理「寒鱈汁」を提供したり、郷里の特産品を販売するという催しである。
バスと電車とを乗り継いで船堀駅近くの会場に着いた時、余りにも大勢の人が集まっているので驚いた。1年に一度のこの催しに、以前にも来たことがあったのだが、そのとき会場に参集していた人は少なかったことを記憶していたからである。
会場内の特設売り場を回って欲しいと思う郷土の産品を買い求めたが、会場内での会話は昔懐かしい庄内弁だったので、いつの間にか私も子供の頃に使っていた言葉で応対していた。買い物を終え電車とを乗り継いでお昼すぎに家に戻ってきた。
ふるさとの 人達集う 催しで つい釣り込まれ 故郷語話す 徘(徊)人 okinatchi
夕方のTV番組で、大東亜戦争の終わり頃に米軍が行ったな広島、長崎への原爆投下に関連して、長崎へ原爆投下を実施するという米軍の情報を日本の軍関係機関が事前に察知し、その情報を軍の上層部に伝えたのに、上層部では邀撃の命令を出さなかったとか、日本が無条件降伏をすることになったときに、その間の情報を記録した文書を焼却してしまったことなどを報じていたのを聞いて、昨年の東日本大震災、東電福島第一原発の事故、などに関連して開かれた多くの会議で会議の議事録を採っていなかった、と謂われていることについて、責任逃れのために議事録を無いことにしたのではあるまいか? という疑念が再び湧きあがってきたのだった。