筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群と生きて

十歳で小児筋痛性脳脊髄炎/小児慢性疲労症候群を発症。病と共に生きて来た記録。

入院

2024-06-28 15:55:10 | 闘病記
今でこそ学校に行かないという選択も認められていますが、私が子供だった時代は学校に行くことは絶対で、それ故に不登校というのは現在よりもずっと大きな問題でした。
当然のことながら、私の親と学校の先生方の話し合いが、何度か持たれていたようです。

その中で両親は、学校側から国立病院の受診を勧められました。
私より一学年上の生徒さんが不登校になられた時、国立病院の小児科に入院して少しずつ病院から学校に通えるようになり、今では復学出来たとのことからでした。
その頃の私は動くことも出来なかった為、まずは親がその小児科の先生に相談に行きました。
その先生は私の話を聞き、「子供の仮病は普通はお腹が痛いという。頭痛を訴えるというのは珍しいケースだ。」と言われたそうです。

不登校の子を回復させた経験のあるその先生は私にも入院治療を勧められ、両親は私を入院させることを決めました。
学校に通えないまま6年生になった春頃のことでした。

母親

2024-06-19 17:55:20 | 闘病記
発症した時から激しい症状が出るものを劇症型と呼ぶようですが、私のケースは激症型だったと思います。

四六時中魘われる酷い頭痛と倦怠感に、眠ることも難しくなっていきました。
学校にも行けず習い事も出来ず友達にも会えず、親にはきつく当たられる日々。
「どうしてこんなことになってしまったのだろう」と毎晩 「こんなに涙って出るんだ」と自分でも驚くほど、涙で枕をびっしょりと濡らしていました。
外が明るくなって来ると少し安心して眠れる、そんな日々で、生活が昼夜逆転するのにさほど時間はかかりませんでした。

そんな私に母は益々イライラを募らせていきました。
外にも出られず、家の中で体の苦痛と母からの精神面と身体面両方の暴力に耐える日々。
11歳だった私にはあまりにも辛く苦しい日々でしたが、それでも私は何とか前向きに生きようと子供なりに一所懸命考えました。
そして出た結論をある日母に伝えました。
「そうだね」と肯定して欲しかったのです。
「今はこんなに苦しくて大変でも、人生は長いから、長い長い人生の中のほんの少しの時間だと思えば、大丈夫だよね」
11歳の私が出した精一杯の結論でした。

でも母の答えは私が期待していたものとは全く違いました 。 
母は「あんたは人生相談とか聞いているからそんなことを言うけれど、親の気持ちになってみろ!」と激昂しました、

母はいつもラジオをつけていて、母が聴いている番組の中には、人生相談のコーナーがあり、横になっているしかない私は、毎日聞くともなしに聞いていたのです。
思いもかけない母の言葉に私はショックを受け、その後記憶は定かではないのですが、「こちらはもう一日でもこんなことは嫌だ」 というようなことも言われた気がします。
いつものように手もあげられたかも知れません。

何とか前を向いて生きようとしても、それすら母の怒りを買って全否定されてしまう。
「本当に何故こんなことになってしまったのだろう」と、ただただ涙を流すことしか出来ませんでした。

父親

2023-09-29 17:53:53 | 日記
我が子がある日突然体調が悪くなり、学校に行くこともできなくなったけれど病気ではないと言われ、不登校と判断された。
こんな状況の中での親の対応は、その家々によって違うと思います。

我が家の場合はとにかく母親が私にきつく当たりました。
言葉の暴力は日常茶飯事になり、前述したように、怒らせると手も上げられました。
朝、父親が仕事に行き、妹が保育園に行ってしまうと日中は母と二人きりです。
本当に地獄のような時間でした。

その母親に比べると、父親は接する時間の短さもあり、全体的に関わりは薄かったです。
ですがその中で忘れられないワンシーンがあります。

起き上がるのが難しく布団で寝ているしか出来なかった私の元にある日父がやってきて、無理矢理に私を引き立たせ後ろから羽交い締めにしました。
とにかく私の体は本当に辛くてたまらない状態だった為、私は大きな声も出せませんでしたが、声を必死で絞り出して「止めて止めて」と懇願しました。

どの位の時間が経ったのか分かりません。 気が遠くなりそうな程とにかく凄く苦しかったので長く感じただけで、実際はごくわずかな時間だったのだと思います。
私を離してくれた父は「しんどかったか?ごめんな」と後ろから私を抱きしめたまま言ってくれました。
もしかしたら父は泣いていたのかもしれません。
その時父も私がこうなって悲しいのだと感じました。

私の父はとにかく陽気な人で、怒ることはあっても悲しむという感情を父からはそれ以前もそれ以後も、一度も感じたことがありません。
もう父は他界してしまいましたが、長い歳月を共に過ごした中で、父親から悲しみという感情を感じた、ただ一度の出来事でした。

普段は忘れてしまっている出来事ですし、私はずっと父親のことが苦手でしたが、この出来事はきっと一生忘れることはないと思います。

苦難

2022-08-01 18:36:44 | 闘病記
最初に風邪で体調を崩してから二ヶ月。
周囲の大人たちによって不登校だと決められてしまってから、私の日々は厳しいものになりました。
私が不登校であることを母は許すことができず、私に対する態度はとてもきついものになりました。

当時の私は毎日酷い頭痛に襲われ続けていましたが、座薬を入れてもその痛みは一向に和らぎませんでした。
そんな私を母は、「そんなに痛みに弱くてどうするの!!」と罵倒しました。
その頃を振り返ると、私の存在自体が母にとって腹立たしいものであったように感じます。

学校に行けなくなってしばらく経った頃には「普通は病気というものは安静にしていれば良くなるものだからしばらく安静にさせてあげたのに、それでも良くならないなんて!」と怒られました。
些細なことで力任せによく背中を叩かれ、叩かれた後は吐き気と腹痛に長い時間襲われて辛かったことを覚えています。

その頃寒い地方に住んでいる母方の祖母が、春までの間一時的に私の家に滞在していたのですが、ある夜隣の部屋からふすま越しに、母と祖母の会話が聞こえてきました。
「欲しがっていたものを買ってやったら学校に行くようになるかと思って買ってやっても何も変わらない。親なんて本当に馬鹿馬鹿しい。」と母は言いました。
そして私の妹の存在が救いだとも。
「私は親を悲しませてしまう存在なんだ」と自分のことがとても悲しくなりました。

悪化②

2022-07-10 16:10:17 | 闘病記
学校にも行けなくなり寝たきりになってしまった私でしたが、この病気は横になっていても苦しくてたまらず、大好きだった本も読めなくなりました。
何をすることもできず、ただただ天井を眺めて苦しみに耐えている、そんな日々が続きました。

そして学校に行けなくなってしまったことで、両親は学校の教師たちからは私が不登校であると言われてしまいました。
私は熱があっても学校に行くほど学校が好きな子供だった為、親はとてもそんなことは考えられないと反論したそうですが、そういう子供ほど不登校になるものだと言われ、最終的に納得したそうです。
それが私にとってさらなる悲劇の始まりだったと思います。
私の母親は教育熱心な方だったこともあり、母にとって私の不登校は許せないことだったようです。
ここから母は私にきつく当たり始めました。