「願興寺」悠久の1200年

最澄縁の願興寺ブログ。2015年には開基1200年祭を予定。本堂、24体の仏像が国指定の重要文化財。

福島原発もオスプレイも検証されぬままに

2012-07-27 06:48:57 | Weblog

原発事故の原因や責任もオスプレイの安全性も検証されぬままに、原発は再稼働され、危険な飛行物体は人口過密地帯に配備が完了してしまった。そんな中で今年も恐ろしき原爆が落とされた8月6日と9日が近づく。

願興寺で生まれたという可児才蔵は福島正則とともに広島に移り住んだ。広島に移り住んだ才蔵の子孫が灼熱地獄の被害を被ったと思うと、何とも言えぬ感傷に囚われてしまう。

広島だって、長崎だって今や木々が茂り、緑豊かになったではないかと言う人もいるかもしれぬ。しかし…何かが違うような気になる。水俣病の認定申請ももう打ち切らるという。

結局、誰も責任を取れないのではないか。責任を取れるだけの力量にかけるのではないか。せめて、祈ろう6日は広島に移り住んだ才蔵の霊を弔って…核分裂の恐怖から人類が脱却出来ることを願って…

願興寺公式サイト

水なし足湯ぽかぽか

2012-07-21 07:56:15 | 御嵩町

「水なし足湯ぽかぽか」は今日の中日新聞の可児版の見出しである。岐阜県美濃地方の特産の一つに美濃焼がある。この足湯(足癒と言うべき?)はお隣の土岐市の山路製陶という会社が、このほど、経済産業省の「地域産業資源活用計画」に認定を受けたという。

記事にも記載されているが、願興寺にほど近い御嵩駅前の御嶽宿さんさん広場にいち早く設置された。このさんさん広場の足癒は、さんさん広場に設置された10kwのソーラー発電からの電力が供給されて、人々の足元を暖めてきた。

この足癒は布団乾燥機の熱源を利用して、直径15mmほどのセラミックボールを暖めて、靴下のままでも足を暖めることができるもので、すでに多くの人々がらも絶賛をいただいている。願興寺参詣や御嶽宿散策での合間に経験されるのも一興である。この足癒は近隣の人々のふれあいの場にもなっており、人々との語らいも魅力の一つであろう。

御嵩町観光協会「御嶽宿付近」
願興寺公式サイト

頼朝の再興(纐纈源吾盛康の功績)

2012-07-15 20:46:39 | Weblog

今日(7月15日)の大河ドラマは平治の乱後の頼朝に対する処遇に焦点が当てられていた。そのとき、願興寺の寺伝「大寺記」の一説をが頭に浮かんだ。前にも記したように願興寺は2度の兵火により焼失している。どちらの時代も大変な混乱期の真っ只中であり、その再興は難航を極めたのは当然であった。2度の焼失であるが、2度目の武田勢による焼失は話題に上ることも多いが、最初の焼失に話題が集中することは少なかった。最初の焼失は1107年であるから、今回の大河ドラマ「平清盛」の数十年前であろう。伽藍の焼失時に自ら愛知県の津島神社に退かれた本尊薬師如来だけでも安置できる薬師堂だけはと、願興寺の塔頭の尽力で再興を果たしたが、それ以外の惨状は、一条天皇からの詔勅を賜って建立され、威容を誇っていた願興寺の面影を知る人々の嘆きは言葉に尽くせぬものであったことは間違いなかろう。

その後、鎌倉時代に入りこの願興寺の再興に貢献したのは、源家累系の家臣であった纐纈(こうけつ)源吾盛康という地頭であった。大河ドラマで描かれていたように池の禅尼の計らいにより頼朝が死罪を免れ伊豆に流刑になり、共の者が少ないことに禅尼が痛ましく思われ、その共の中に源吾があり、大津まで同行した旨が描かれている。大寺記から抜粋すると「源吾盛康もこの時に出て来た。被官の者達は同じように頼朝に今は出家して僧になると申されよ御下向なされば道行きも安心して通行できるし平家も然るべくと存ずることでしょう。」奏上したが、源吾だけは「君を助けられたことは偏に八幡大菩薩のお計らいと覚えます。他人は如何に申そうとも御髪は惜しみ給え」と言い、頼朝はそれを聞きて打点頭(うなず)かれたという。

この時、源吾には80歳になる母親がおり、その母親が心配で源吾は大津で引き返している。このことはほぼ同じ内容で幸田露伴の小説「頼朝」にも著してあるから、読まれた方もあろう。その後、頼朝が幕府を開いたおりには源吾自身も相当の老人になっており、論功行賞には参加しておらず、後に鎌倉に出向いた折にこの地の地頭を賜ったようである。もしも、源吾の進言がなく頼朝が剃髪していたら、源氏による幕府成立は実現していなかったかもしれないのだから、源吾には大きな論功行賞があってもよかったとであろう。

この地の地頭となった源吾の願興寺への功績は大きく、田畑の寄進は言うの及ばず、毎月十日に市を開いて貴賎のそしりを寄進していた(十日市場の地名は今に残る)。こうして、すでに再興していた薬師堂に加え、三層の宝塔、常行三昧同、八間の講堂、五間の護摩堂、仁王門等が落成した。その威容は今はうかがい知ることはできないが、願興寺の最初の焼失は当に平安の終焉とともに起こり、鎌倉の幕開けとともに再興をなしたと言えるのでないか。

願興寺公式サイト

※ 大寺記からの抜粋文は原文で難解なので、郷土史研究家の安藤弘文さんが出版された「大寺記原文と連記解読書」の現代文訳から引用した。また、大寺記は御嵩町出版の御嵩町史読み下し文(送り仮名はカタカナ表記)があるが、中山道みたけ館の図書館に安藤弘文さんの連記解説書がある。

※ 纐纈神社という小さな社が中公民館裏にある。あの神社はこの纐纈氏の氏神であった。